「諸法実相抄」の「凡夫本仏」の文について
文永10年(1273)5月17日に著された「諸法実相抄」(真蹟なし、写本のみ)の「凡夫本仏」の文を引用して、『経典上の仏は仏の働き(用)を示すために説かれた迹仏にすぎない、久遠実成の釈尊も迹仏である。現実に存在する仏(本仏)は妙法を受持した凡夫である』等と解説し、「教学要綱」の「永遠の仏・久遠実成の釈尊」を批判する向きがあります。
「諸法実相抄」は真偽論が盛んに議論される書ではありますが、真撰説としては、「法華仏教研究」第27号に掲載された川﨑弘志氏の論考「『諸法実相抄』の考察」があり、そこでは「最古の写本である日朝本には、同書を偽書とする根拠の一つである『凡夫本仏論』や『俱体俱用の三身』の『三身』の語彙(ごい)がない。日朝本が諸法実相抄の本来の姿ではないか。諸法実相抄は真撰である可能性が高い」(趣意)と指摘されております。
今回、「教学要綱」を批判する方が引用した箇所は、まさに「諸法実相抄」が偽作とされる根拠になるわけですが、ここでは真偽論は横に置き、「諸法実相抄」に「凡夫本仏」が書かれている意味を考えてまいりたいと思います。
諸法実相抄
されば、釈迦・多宝の二仏というも用(ゆう)の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。経に云わく「如来の秘密・神通(じんずう)の力」、これなり。「如来の秘密」は体の三身にして本仏なり、「神通の力」は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば、釈迦仏は我ら衆生のためには主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。その故は、如来というは、天台の釈に「如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏・迹仏の通号なり」と判じ給えり。この釈に「本仏」というは凡夫なり、「迹仏」というは仏なり。しかれども、迷悟の不同にして生・仏異なるによって俱体俱用(くたいくゆう)の三身ということをば衆生しらざるなり。
しかしながら、同抄の後文(こうぶん)には以下のようにあります。
末法に生まれて法華経を弘めん行者は、三類の敵人有って流罪・死罪に及ばん。しかれども、たえて弘めん者をば、衣をもって釈迦仏おおい給うべきぞ、諸天は供養をいたすべきぞ、かたにかけせなかにおうべきぞ。
「不惜身命で難を乗り越えて妙法弘通に励む人には、釈迦仏が衣を以て覆い守る」との教示であり、迹仏どころではなく久遠実成の釈尊・久遠の本仏は現実に働きを示すものとされており、日蓮の久遠の本仏への尊信の厚さがうかがわれます。法華経の行者を、衣を以て覆い守る釈尊が迹仏であるわけがありません。
しかも、日蓮と同意の一門は地涌の菩薩であり、「釈尊久遠の弟子」即ち久遠の本仏の弟子であることも示されています。
いかにも、今度(こんど)、信心をいたして法華経の行者にてとおり、日蓮が一門となりとおし給うべし。日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか。地涌の菩薩にさだまりなば、釈尊久遠の弟子たること、あに疑わんや。経に云わく「我は久遠より来(このかた)、これらの衆を教化せり」とはこれなり。
「日蓮一門の師匠が実は迹仏であった」とはあり得ない思考であり、日蓮の常の教示に反するものといえるでしょう。「釈尊久遠の弟子たること、あに疑わんや」との記述により、日蓮にとって久遠実成の釈尊・久遠の本仏は迹仏にすぎないのではなく、尊信の対象=仏宝であることが明瞭なのです。
このように同じ「諸法実相抄」の記述で、後文(こうぶん)が前の文を上書きしているともいえ、日蓮の教理的思考では「永遠の仏・久遠実成の釈尊」は不変であるといえるでしょう。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」
これに関して、まず日蓮と同時代の既成仏教教団の教義と体質では、神仏が人間世界の遥か上方に位置付けられており、愚鈍の凡夫は寺院に参詣して有り難い神仏に手を合わせておすがり、その救済を願うしかなく、また「取次者」ともいえる僧侶しか法門の解釈・説教もできないので、僧侶にも手を合わせて跪くしかない、という信仰形態が一般的だったことでしょう。
そのような仏教的常識世界の中にあって、日蓮は「実は下方に位置付けられていた哀れな凡夫こそが仏教の主役であり、救済者と位置付けられている神仏、また僧侶こそが民への奉仕係なのだ」として、従来の信仰観・教団観を一掃し、仏教界における常識を一新しようとした、その表現が該文であると推察できるのではないでしょうか。また、一切衆生に内在する仏性を目覚めさせるための、大胆な記述も兼ねていたと拝察します。
もちろん、仏教界における思考・信仰形態の革命的な宣言をしたからといって「師弟は不変」なわけですから、後文(こうぶん)の「衣をもって釈迦仏おおい給うべきぞ」「釈尊久遠の弟子たること、あに疑わんや」を記述したと考えるのです。
日蓮の言葉の一部分だけでは分かりづらい、誤解を招く、読み解くのが困難なものには、上行菩薩に関するものがあります。複数の遺文を並べると、日蓮と上行菩薩の教理的関係は一定しないかの感があります。
本尊問答抄 弘安元年(1278)9月 57歳 浄顕房 日興本・北山本門寺蔵
この御本尊は、世尊説きおかせ給いて後、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候わず。漢土の天台、日本の伝教、ほぼしろしめして、いささかひろめさせ給わず。当時こそひろまらせ給うべき時にあたりて候え。経には上行・無辺行等こそ出でてひろめさせ給うべしと見えて候えども、いまだ見えさせ給わず。日蓮はその人に候わねども、ほぼこころえて候えば、地涌の菩薩の出でさせ給うまでの口ずさみにあらあら申して、況滅度後のほこさきに当たり候なり。願わくは、この功徳をもって、父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請(きしょう)仕(つかまつ)り候。
「日蓮はその人に候わねども」と自らが上行菩薩であることを否定したかと思えば、直後には「ほぼこころえて候えば」と、実は上行菩薩であると読み解けるような表現をしています。
高橋入道殿御返事 建治元年(1275)7月12日 54歳 高橋六郎兵衛 真蹟
この時、上行菩薩の御かびをかぼりて、法華経の題目・南無妙法蓮華経の五字ばかりを一切衆生にさずけば、彼の四衆等ならびに大僧等、この人をあだむこと、父母のかたき、宿世のかたき、朝敵・怨敵のごとくあだむべし。
その時、大いなる天変あるべし。いわゆる、日月(にちがつ)蝕(しょく)し、大いなる彗星天にわたり、大地震動して水上の輪のごとくなるべし。その後(のち)は、自界叛逆難と申して、国主・兄弟ならびに国中(こくちゅう)の大人(だいにん)を打ちころし、後には、他国侵逼難と申して、隣国よりせめられて、あるいはいけどりとなり、あるいは自殺をし、国中の上下万民、皆大苦に値うべし。これひとえに、上行菩薩のかびをこうぼりて法華経の題目をひろむる者を、あるいはのり、あるいはうちはり、あるいは流罪し、あるいは命をたちなんどするゆえに、仏前にちかいをなせし梵天・帝釈・日月・四天等の、法華経の座にて誓状を立てて「法華経の行者をあだまん人をば、父母のかたきよりもなおつよくいましむべし」とちかうゆえなりとみえて候に、今、日蓮、日本国に生まれて一切経ならびに法華経の明鏡をもって日本国の一切衆生の面(おもて)に引き向けたるに、寸分もたがわぬ上、仏の記し給いし天変あり地夭あり。
ここでは「上行菩薩の御かびをかぼりて」「上行菩薩のかびをこうぼりて」と、上行菩薩を自らとは別の、守護の働きをする神仏的存在に譬えています。
普通に読めば、日蓮は「上行菩薩とは守護の働きをする神仏的存在である」と教示した、その後に「自らが上行菩薩であることを否定した」と読めます。ところが第一次蒙古襲来「文永の役」が勃発した文永11年(1274)12月の段階で、万年救護本尊を顕した時に、讃文に「後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである」と、拝する人をして「日蓮聖人は上行菩薩の自覚をお持ちであるか」と信解せしめる記述をしています。
ですが、身延の草庵に安置されたであろう万年救護本尊に「日蓮即上行菩薩である讃文」が書かれたといっても、実際に同本尊を拝する人は一門全員ではないわけですから「わかる人にはわかるようにした」程度であり、自らが「我れ上行菩薩なり」と明示することはありませんでした。
「聖人知三世事」(建治元年(1275) 54歳 富木常忍)では、「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」と自らが何者であるかを高らかに宣言しましたが、入滅の年の弘安5年(1282)2月28日に著された「法華証明抄」の冒頭では「法華経の行者日蓮 花押」と記しており、日蓮は最晩年まで法華経を尊崇し身で読む行者としての自覚を失わなかったことがうかがわれます。
2024.9.15