日蓮一門は何人いたのか?

 

大難に見舞われ続ける中、法華勧奨と妙法弘通に後半生を捧げた久遠仏直参信仰の導師・日蓮。

彼の激烈な布教展開を俯瞰すれば、日蓮一門の総数は相当なものであったと思われるのですが、「学説」となると日蓮遺文や曼荼羅授与書きから掌握できる数字が前提となるわけですから甚だ少ない人数となるようです。

 

ジャクリーン・ストーン氏は論考「日蓮と法華経」(シリーズ日蓮「法華経と日蓮」p244)にて、「日蓮の在世中には、彼の記すところから判断すれば、その信奉者・帰依者は数百人を数えるに過ぎなかったが」とされています。

たしかに日蓮遺文等の文書から計算すればそのようになるのでしょうが、推測される総信仰者数はまた別ではないかと思われます。

 

結論から言えば、曼荼羅図顕数の概算、曼荼羅への授与書きのあるなし、その周辺にいたと思われる人々等を踏まえれば、少なくとも4桁の日蓮法華信仰者がいたのではないでしょうか。

 

遺文と曼荼羅から読み取れる日蓮在世の門下数は250名ほどですが、そこには日蓮の教説に共鳴して法華勧奨に励んだ弟子檀越の信仰の情熱というものも加えなければならないでしょう。目には見えない、歴史にも残らない「信仰のエネルギー」です。

 

単純計算ですが、250名が10名に題目を唱えさせただけでも2,500人となります。個々の信仰熱の相違があるにせよ、多くの門下が師匠の不惜身命の分身でもあったでしょうから、4桁は固いのではないでしょうか。

 

さて、興風11号「重須本門寺と大石寺」坂井法嘩氏の論文中(P152)に、日蓮が門下に授与した本尊の取扱につき、以下のようにあります。

 

以下、引用・・・・

本尊と御堂との関連について考察された論文に、渡辺寶陽氏の「大曼荼羅と法華堂」(「研究年報日蓮とその教団」第1)がある。渡辺氏は宗祖に見られる大幅の御本尊は、堂の大きさに見合って図顕されたもの、つまり大幅の御本尊の存在は、それ相応の堂のあったことの証左とはならないか、と提示された。

しかし御本尊は必ずしも堂内に奉掲されていたとは限らないのではなかろうか。これは日興上人の御本尊にヒントを得たことだが、今回「日興上人御本尊集」を編纂するにあたって、各地を調査したところ、折り畳んだ痕跡の見られる御本尊が数幅確認された。現在御本尊といえば、表具されたもの、もしくは彫刻されたものであるが、宗祖の当時はどうであったろう。表具されないまま、折り畳まれていた大幅の御本尊も多数あったのではないだろうか。

よって本尊の奉掲を前提にした、相応の堂の存在については一考の余地があると思う。しかし書写の場合には、明らかに紙を繋いだ後に行なわれているから、相応の堂の存在は首肯できると思う。

なお、高木豊氏は宗祖図顕の本尊の安置について「なかには三メートル余りもある大きなものも含まれている。それほどの大きさからすれば、あるいは、信奉者の集会の折り、屋外の樹木の枝などに掛けられたり、地上にしかれたりして、礼拝されたのではないか」との説を提示されている。(「図説・日本仏教の歴史・鎌倉時代」佼正出版社 1996年 P101)

以上、引用・・・・

 

更に興風11号では、菅原関道氏が論考「日興上人本尊の拝考と『日興上人御本尊集』補足」(P333)の中で、日蓮在世に図顕された曼荼羅の総数につき試算されています。

 

以下、引用・・・・

次に、現在確認できる宗祖図顕の曼荼羅総数を示しておく。山中喜八編「日蓮大聖人御真蹟」第一部「御本尊集」に123幅が収録され、その後の追加分6幅を入れて御真筆現存数は129幅である。

これに日興上人が宗祖の本尊を弟子に授与された「弟子分本尊目録」掲載の65幅を加えると、129幅と重複する「弟子分本尊目録」の本尊が11幅あるから183幅となる。

さらにそれらに記録されていない「富士宗学要集」8巻「資料類聚」記載の18幅と、「御本尊鑑」記載の曽存28幅、「大田区史(資料編)寺社2」記載の曽存1(日現NO22)を加えると、合計230幅の宗祖本尊が確認できる。

なお、宗祖と日興上人の本尊を同列に扱うことはできないが、「弟子分本尊目録」の65幅の内、現存しているのは9幅であるから、現存数と曽存数の比率は17.2である。これを目安にして宗祖の本尊図顕数を試算すると、129×7.2=929となり、約930幅の本尊が図顕されたのではないかと一往の試算ができる。

以上、引用・・・・・

 

試算とはいえ930幅という数には驚きますが、まず、日蓮一弟子の日興が師匠の曼荼羅をどのように伝持(法を受け伝える)しようとしていたのかを確認しましょう。

 

1309年・延慶2(滅後28)頃に、寂仙房日澄が草案した「富士一跡門徒存知事」には次のようにあります。

 

日興弟子分の本尊に於ては一一皆書き付け奉る事、誠に凡筆を以て直に聖筆を黷(けが)す事最も其の恐れ有りと雖も、或は親には強盛の信心を以て之を賜うと雖も子孫等之を捨て、或は師には常随給仕の功に酬(むく)いて之を授与すと雖も弟子等之を捨つ、之に依つて或は以て交易(こうえき)し或は以て他の為に盗まる、此くの如きの類い其れ数多なり、故に所賜(たまわるところ)の本主の交名(きょうみょう)を書き付くるは後代の高名(こうみょう)の為なり。

 

日興は、自身の門下が師匠日蓮より授与された曼荼羅に添書きをしております。曼荼羅を授与された者の子孫や弟子が捨ててしまう、盗難に遭う等の事態が惹起したためです。このようなことは曼荼羅の不敬にあたる故、日興はその伝持に厳格なる管理を期されたということでしょう。

 

ということは、その記録をまとめられた文献が存在するのも道理というものです。日興は1298年・永仁6(滅後17年・身延離山から9年後)の時点で、日蓮図顕曼荼羅を授与された日興教導の66人の記録を「白蓮弟子分与申御筆御本尊目録事(白蓮弟子分に与へ申す御筆御本尊目録の事)(北山本門寺所蔵)としてまとめられました。(略して「弟子分本尊目録」)

 

この「弟子分本尊目録」には、日興の弟子・檀越等、門弟の所在地、在家人弟子の別等が明記され、駿河国39名、甲斐国20名、伊豆国3名、武蔵国3名、相模国1名の計66名(出家18名・檀越48名)が記載されています。

 

弟子分本尊目録」の添書きと、立正安国会「御本尊集」の123幅と重複するものも5幅あり、その記述の正確さが改めてうかがわれます。「御本尊集」の「NO769298,104,107」の曼荼羅となります。このように「弟子分本尊目録」は日蓮法華門下共通の「日興真筆」であり、これによって日蓮が生涯でどれだけの本尊を図顕したのかを推測できる、重要な史料の一つでもあるといえるでしょう。

 

話を「日蓮の曼荼羅図顕数・約930幅」に戻しますが、現存の日蓮図顕曼荼羅の初見は1271年・文永8(50) 912日の「竜口法難」の後、「109日相州本間依智郷において認めた曼荼羅(NO1・京都立本寺蔵)」です。最後の現存曼荼羅は1282年・ 弘安5(61)6月に認めた曼荼羅(NO123・京都本圀寺蔵)」になります。

 

最初の曼荼羅図顕確認から最後の曼荼羅に至るまでは、109ヶ月の歳月が流れています。ここでカシオの計算サイトで調べますと、1271101日~1282630日は10年と273日、月にすると129ヶ月、週では560週と6日、日数は3,926日となっています。

3,926÷9294.226ですから、ほぼ45日に一幅の曼荼羅を図顕していたことになります。幅を持たせれば週に一幅となるでしょうか。

 

しかしながら日蓮が曼荼羅を一つ図顕するには、「観心本尊抄」に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹(つつ)み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」とあるように、久遠の本仏の慈悲を流れ通わさんと祈りと魂を込めて揮毫したと拝察でき、それには相当な労力を要したのではないでしょうか。しかも建治年間から弘安初期にかけては、日蓮は重度の病となっています。

 

遺文には

はら()のけ(気)は、さえもん殿の御薬になおりて候。また、このみそをなめて、いよいよ心ちなおり候いぬ」(兵衛志殿御返事・病平癒の事 弘安元年626)

「去年の十二月の三十日よりはら()のけ(気)の候いしが、春夏やむことなし。あきすぎて十月のころ大事になりて候いしが、すこし平愈つかまつりて候えども、ややもすればおこり

(兵衛志殿御返事・深山厳冬の事 弘安元年1129)

と書かれるように、日蓮は重度の体調不良に見舞われています。

 

このような状態では、45日に一幅の曼荼羅図顕というのは無理なものがあり、多くて10日または半月に一幅の曼荼羅図顕といったところでしょうか。相貌座配の少ない曼荼羅があることも、日蓮の体調を物語っていると思われます。

 

ここでは日蓮は10日に1幅の曼荼羅を顕したと仮定し、計算してみましょう。

3,926÷10392.6ですので、日蓮が顕した曼荼羅の総数は400幅程ということになります。紹介した論考の929幅の半分以下となりますが、それでも大変な曼荼羅図顕数ではないかと思います。

 

さて、本題である日蓮在世の一門の人数はどれくらいだったのかを、図顕曼荼羅数をもとに考えてみましょう。日蓮が図顕した400幅の曼荼羅本尊の周囲には、何人ほどの弟子檀越がいたのでしょうか。

 

立正安国会の「御本尊集」に掲載された現存する曼荼羅で、個人授与が分かるものは80幅ほどあり、掲載数123幅の約65%となります。

日蓮が図顕したと推測できる曼荼羅総数400幅に当てはめると、個人授与と推測される曼荼羅は65%では260幅となりますが、家族であれば一幅の曼荼羅の周囲には何名がいたことでしょうか。

 

有力檀越の南条時光の例を見ると、兄弟は男子5名、女子4名の計9名、または男子2名、女子3名とする論考がありますが、男子は早死にしたり女子は嫁いでいます。少なく見積もれば、一般的な家庭では両親と子供で4名ほどといったところでしょうか。

 

個人授与と推測される曼荼羅260幅×4名=1,040

 

一方、個人授与とは推測されない、即ち妙法弘通・法華勧奨の拠点用と考えられる曼荼羅は140幅となるでしょうか。28枚次の壁一面を覆うような巨大な曼荼羅も現存しますが、拠点の堂宇などに奉安する曼荼羅であればまずは1mオーバーの大きなものであったことと思われます。そのような布教の拠点用の曼荼羅であれば、そこには230名ほどは集まったでしょうか。

 

布教の拠点用と考えられる曼荼羅140幅×20名=2,800

 

合わせて日蓮一門の総数3,840名となりますが、これはあくまで曼荼羅を基軸として考えたときの、仮定を前提とした単純計算ですのでこれからまだ変わることもあると思いますのでご注意ください。

 

日蓮の一門の人数だけではなく、図顕された曼荼羅の実数、身延の草庵で一門が拝していた曼荼羅本尊、布教拠点の様子など、気になることは多くあります。一つ一つにじっくりと取り組んでいきたいと思います。

 

 

2024.5.3 修正