「観心本尊抄」の「本門の釈尊、脇士」をめぐって
かの有名な「観心本尊抄」の文ですが、どちらで読むのでしょうか?
この釈に「闘諍の時」云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。この時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。月支・震旦にいまだこの本尊有さず。
この釈に「闘諍の時」云々。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。この時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為(な)りて一閻浮提第一の本尊この国に立つべし。月支・震旦にいまだこの本尊有さず。
「釈尊を脇士と為(な)す」と「釈尊の脇士と為(な)りて」で論争の的になってきたのですが、至極単純な話しとして、文証というか本尊証というべきか。日蓮が顕した曼荼羅本尊を拝すれば、南無妙法蓮華経が中央にして釈尊を脇士としているのですから、「本門の釈尊を脇士と為(な)す」と読むのが自然だと思うのですが、そうは簡単に話を通してくれないのがこの論点でして、分裂した門下の拠りどころともいうべき読み方ですから、さあ大変です。
「興風」15号の山上弘道氏の論考「日蓮大聖人の思想(五)」では以下のように紹介されています。
本文の読みについて、京都府要法寺蔵、日興写本「観心本尊抄」の富谷日震による対校表(「大崎学報」28巻51頁)によれば、日興上人により「為脇士」の「為」の字に「ナリテ」とルビが振られており「本門ノ教主釈尊ノ脇士トナリテ」と読んでいるようである。(p134)
この論考を前提とすれば、日蓮一弟子の日興は「本門ノ釈尊ノ脇士トナリテ」という読み方ということですね。
(注~「観心本尊抄」本文には「教主」はなし。また「本門ノ釈尊ノ」について、二つ目の「ノ」は日興がそのように読んだとの根拠はなしか。ここでは、あくまで「ナリテ」の三文字のみ採用)
となると、冒頭に出した二つの読み方、
「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為(な)りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」
後者の読み方となるわけです。
私としては、この読み方でも、今日の『教主日蓮』が崩されるわけでもなく、むしろ、「観心本尊抄」以降の日蓮の曼荼羅本尊に関する教示は後者に近いわけですから、特に違和感というものはありません。二つの例を見てみましょう。
「新尼御前御返事」
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給いて
中略
我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此れにゆづるべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出させ給いて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給いて、
「万年救護本尊」讃文の後半
我が慈父=釈尊=久遠の仏は仏智を以て大本尊を隠し留め、末法の為にこれを残されたのである。後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して、初めてこの大本尊を弘宣するのである。
「新尼御前御返事」「万年救護本尊」讃文、いずれも日蓮は釈尊=久遠の仏を教主として立て、その付属を受けた立場・上行菩薩として教示しているわけです。これは「観心本尊抄」の「本門の釈尊の脇士と為(な)りて」と意味するところは同じだと思います。ところが、そうは言ったり、書いたり、暗示したりしながらも、日蓮のやっていることは「教主」そのものなのです。ここに注意ですね。
日蓮は自らの内観世界で釈尊=久遠の仏、先師と対話。
胸中から湧き出でるようにして顕された独創の本尊に、『仏滅度後二千二百二(三)十余年之間 一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也』とその意義を留める。このような曼荼羅を顕す行為自体は『末法の衆生が帰命する本尊』を顕すものであり、『末法万年の一切衆生が拝して成仏する本尊を顕す』ことは、『日蓮その人が末法の教主であると宣言しているもの』と理解できるのではないでしょうか。
「観心本尊抄」自体にも、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起し、五字の内に此の珠を裹み末代幼稚の頚に懸けさしめ給う」とあります。
「仏は一念三千を識らない末法の衆生に対して大慈悲を起こし、妙法蓮華経の五字に一念三千の珠を包み末法の衆生に授与される」とありますが、実際にその行為をしている人は妙法を流布する日蓮本人であり、自らが成している題目の流布・曼荼羅本尊の図顕と授与を「仏大慈悲を起し」と、仏が成されることに置き換えているのです。
日蓮がいかなる自覚であったか?
文永10年4月、その身が佐渡に在った時から教主としての意識を確かに抱いていたといえるでしょう。
文の表では対機の教導を、意識においては教主であった。そんな日蓮の思いがうかがわれる文は、まだまだ、たくさんあると思います。
遺文拝読の楽しみですね。
※1
もちろん、私も普段は信仰として「本門の釈尊を脇士と為(な)す」と読んでいます。ここでは「与奪」の与で、大崎系(立正大学)の皆さんの読み方をしても、教主日蓮の理解は可能ですよ、という意味で、まずは書いてみました。
※2
言い方が不謹慎ですが、やはり、実におもしろい論点です。
(1)「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」
(2)「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊の脇士と為(な)りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」
(1)と(2)の二者択一思考を超えてみましょう。
日興の「ナリテ」とのルビを踏まえても、「本門の釈尊『が』」と読めばスッキリしますね。
(3)「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊が(自ら)脇士と為(な)りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」
となると、「本門の釈尊『は』」も読みやすいですね。
(4)「此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊は(自ら)脇士と為(な)りて、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。」
ちなみに、『前文の「此の釈に「闘諍の時」と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。」の後に顕される「一閻浮提第一の本尊」とは、かねてから立正安国論で主張されていた国主の帰依が含意されるものであり、そこには仏像の意があるだろう。また「月支(がっし)・震旦(しんだん)に末だ此の本尊有(ましま)さず」に続く後の文でも正像の仏像が説かれ「本門の四菩薩を顕さず」とされているのだから、やはり「一閻浮提第一の本尊」は「本門の四菩薩」が「本門の釈尊の脇士と為」る一尊四士のことであろう』との説もあります。
これについては、(1)(3)(4)の読みであれば、一閻浮提第一の本尊とは法本尊・妙法の曼荼羅本尊であると理解できるでしょうし、(2)の読みであったとしても、事実として、日蓮がすさまじいまでの勢いで顕したのが曼荼羅であった、即ち一閻浮提に流布せんとした第一の本尊であったという「立派な史実」があるわけですから、それを以て推測すれば、やはり「一閻浮提第一の本尊」とは曼荼羅であると理解できるのではないでしょうか。
「仏滅度後二千二百二十余年之間 一閻浮提之内未曾有大漫荼羅也」と、日蓮が讃文に記した意を深く考えたいですね。
2022.12.3