自然智宗(じねんちしゅう)、山林修行そして日蓮
少年日蓮が学んだ安房国清澄寺は、虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)の霊場として諸国に広く喧伝されていましたが、その修行法が日本に伝来したのはいつのことなのでしょうか?
日蓮遺文で、虚空蔵菩薩が別格のように扱われているのは何故なのでしょうか?
日本仏教史の一端に触れながら、考えてみましょう。
【 開元釈教録と貞元新定釈経目録 】
周知のように鎌倉時代の仏教経典・一切経には、奈良時代の聖武天皇(しょうむてんのう 701~756)の代(724~749)に、大陸に渡った僧が写経して持ち帰った「開元釈教録(かいげんしゃくきょうろく)全20巻」の内、1076部5048巻がある。また、それ以降に訳出された経典を追加して編纂した、「貞元新定釈経目録(じょうげんしんじょうしゃくきょうもくろく)全30巻」もある。
日蓮は著作でそれらを記述しているところから、「日蓮は『貞元釈経録』とともに『開元釈教録』をもって中国伝来翻訳経典類等のよりどころとしている」(「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P160 立正大学日蓮教学研究所編 1985)と考えられている。
以下、日蓮遺文での記述。
< 開元釈教録 >
「和漢王代記」建治2年(1275) 真蹟
華厳宗
後漢の世より唐の神武皇帝、開元十八年庚午(かのえうま)に至る六百六十四載に渡る所の経律論五千四十八巻訳者一百七十六人なり。(定P2347)
「法華題目抄」
文永3年(1266)1月6日 真蹟
仏世に出でさせ給ひて五十余年の間八万聖教を説きをかせ給ひき。仏は人寿百歳の時、壬申(みずのえさる)の歳、二月十五日の夜半に御入滅あり。其の後四月八日より七月十五日に至るまで一夏九旬の間、一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて一切経をかきをかせ給ひき。其の後正法一千年の間は五天竺に一切経ひろまらせ給ひしかども、震旦国には渡らず。像法に入りて一十五年と申せしに、後漢の孝明皇帝永平十年丁卯(ひのとう)の歳、仏教始めて渡りて、唐の玄宗皇帝開元十八年庚午(かのえうま)の歳に至るまで、渡れる訳者一百七十六人、持ち来たる経律論一千七十六部・五千四十八巻・四百八十帙(ちつ)。是皆法華経の経の一字の眷属の修多羅(しゅたら=経文)なり。(定P395)
< 貞元新定釈経目録 >
「貞元新定釈経目録」については、法然が「選択集(せんちゃくしゅう)」において自説を展開したものを引用紹介する中で、「貞元入蔵録」(「貞元新定釈経目録」の内、第29巻・30巻に収められている入蔵目録)として書かれている。
「災難退治抄」 正元2年(1260)2月 真蹟
問うて曰く、其の証拠如何。答へて曰く、法然上人所造等の選択集是なり。今其の文を出だして上の経文に合はせ其の失を露顕せしめん(定P167)
中略
又云はく「貞元入蔵録の中、始め大般若経六百巻より法常住経に終はるまで顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり。皆須く読誦大乗の一句に摂すべし○当に知るべし、随他の前には暫く定散の門を開くと雖も、随自の後には還って定散の門を閉づ。一たび開きて以後永く閉じざるは唯是念仏の一門なり」。
中略
已上選択集の文なり。(定P168)
「立正安国論」文応元年(1260)7月 真蹟
主人の曰く、御鳥羽院の御宇に法然といふもの有り、選択集を作る。則ち一代の聖教を破し遍く十方の衆生を迷はす。其の選択に云はく(P214)
中略
又云はく「貞元入蔵録の中に、始め大般若経六百巻より法常住経に終はるまで、顕密の大乗経総じて六百三十七部・二千八百八十三巻なり、皆須く読誦大乗の一句に摂すべし」(定P215)
【 開元釈教録 】
後漢の明帝(孝明皇帝)の代、永平10年(67)の中国への仏教伝来(この時期と考えられている)より、唐の玄宗皇帝の代、開元18年(730年)に及ぶ664年間の漢訳経典、2278部7046巻を収録しているのが「開元釈教録」。
「開元釈教録」(開元録・智昇録とも)は、唐の僧・智昇(668~740)が編纂した仏教経典目録で、全20巻, 開元18年(730年)頃の成立とされている。
驚くべきは、僅か5年後には、「開元釈教録」の内の五千余巻=1076部5048巻・一切経が日本にもたらされたことではないだろうか。
『続日本紀』巻第十六によると,法相宗四代・玄昉(げんぼう・?~746)が霊亀(れいき)2年(716)に入唐し,天平(てんぴょう)7年(735)に帰朝して,五千余巻(1076部5048巻)の経典及び諸仏像をもたらしている。
『続日本紀』巻第十六・天平十八年(746)六月
己亥。僧玄昉死。玄昉俗姓阿刀氏。靈龜二年入唐學問。唐天子尊・。准三品令着紫袈裟。天平七年隨大使多治比眞人廣成還歸。齎經論五千餘卷及諸佛像來。皇朝亦施紫袈裟着之。尊爲僧正。
玄昉の書写した五千余巻(1076部5048巻)の経典が,これ以降の、一切経を書写する際の有力な基準となった。
< 開元釈教録内訳 >
1 総括群経録 (巻1 - 巻10)
①古今諸家目録 (巻10)
2 別分乗蔵録 (巻11 - 巻20)
①有訳有本録
②有訳無本録
③支派別行録
④冊略繁重録
⑤補闕拾遺録
⑥疑惑再詳録
⑦偽妄乱真録
⑧大乗入蔵録
⑨小乗入蔵録
「開元釈教録」は「総括群経録」の巻1 - 巻10と「別分乗蔵録」の巻11 - 巻20に大別され、「総括群経録」は、訳者の年代順に、訳者名、訳経名、巻数、存佚(ぞんいつ)、小伝などを列記。巻19、巻20の「現蔵入蔵目録」(大乗入蔵録・小乗入蔵録、実際に経蔵に収められる経典)の総計1076部5048巻については、「宋版大蔵経」(971年~977年にかけて蜀で版木が彫られ、983年に印刷される)に至る標準巻数となり、奈良朝の写経等はこの数字に従っている。
玄昉の経典五千余巻請来(しょうらい)について、書道史家の飯島太千雄氏は著書の「若き空海の実像」(2009年 大法輪閣)において、その内実に迫る指摘をしている。(P233)
史家は、玄昉が『開元釈教録』とそこに記載された一切経の総て、1076部5048巻を舶載(はくさい・外国から船で運ぶこと)したことは認めても、なぜ、どうしてとは考えようとはせず、並(な)べてその歴史的評価に及ぼうとしない。『開元釈教録』は、智昇が開元18年(730)に編んだものだが、五千余巻の一切経の転写となれば、国家権力をしても五年は要する。五年で成すには六人の経生(きょうせい・仏教経典の抄写を職業とする者)を連日専従せしめて、二日に一巻のペースで書写し続けねばならない。『開元録』は勅願ではなく智昇の私撰であったが、隔絶したその内容の完成度から欽定(きんてい・君主の命令による制定)に準じて扱われた。735年に帰国する玄昉がこれを舶載するには、玄宗皇帝の勅許を得て転写、僅か四年でその効を焉(お)えねばならない。これは、玄宗の勅命にしてのみ可能であって、そこに思い致さねばならない。
【 経録 】
主に中国で編纂された仏教経典目録のことを「経録(きょうろく)」と称されている。
「『開元録』以前の経録は、いずれも分類整理目録(大小乗・経律論などの分類に重点をおいた目録)の部分と、代録(訳者別・時代別目録)の部分とに統一を欠いていたが、『開元録』にいたってはじめて統一融合され、組織体裁の完備した包括的な目録となった。」
(「日蓮聖人遺文辞典・歴史編」P160)
東晋「綜理衆経目録」 (「道安録」, 佚書)
梁 「出三蔵記集」 (「僧祐録」)
隋 「歴代三宝紀」 (「三宝紀」)
隋 「衆経目録」
唐 「大唐内典録」 (「内典録」「道宣録」)
唐 「古今訳経図紀」
武周 「大周刊定衆経目録」
唐 「開元釈教録」(「開元録」)
唐 「貞元新定釈教目録」 (「貞元録」)
【 貞元新定釈教目録 】
貞元15年(799)、唐の徳宗の勅令により開元年間(713~741)以降訳出の経典を追加して、僧・円照が編纂した仏教経典目録。後漢の明帝(孝明皇帝)永平10年(67)より、徳宗の代、貞元16年(800)までの734年間、2417部7388巻の経典を収録して貞元16年(800)に成立。貞元録、円照録ともいう。
【 東大寺での写経 】
正倉院文書「写経請本」(「大日本古文書」巻七)によると、天平7年(735)に玄昉が請来した経典は、早くも翌天平8年(736)9月29日以降、皇后宮室の写経所での転写が始められ、天平勝宝元年(749)頃まで続けられている。その作業では「開元釈教録」録外の経典も含め、七千巻余の経典が書写されたようだ。
転写目録中、密教経典に注目すると、「金剛頂経一巻=金剛頂瑜伽中略出念誦経(こんごうちょうゆかちゅうりゃくしゅつねんずきょう 金剛智訳)」「蘇磨呼童子経(そまこどうじきょう)二巻=蘇婆呼童子経(そばこどうじきょう 善無畏訳)」「大毘盧遮那経(だいびるしゃなきょう)三巻=大日経(善無畏訳)」「虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法(こくうぞうぼさつのうまんしょがんさいしょうしんだらにぐもんじほう)一巻(善無畏訳)」などがあり、飯島太千雄氏によると、「善無畏の『虚空蔵求聞持法』は、私が確認しただけで、天平八年(736)九月以降、宝亀三年(772)までの三十六年間に十五回転写が記録されている。」(「若き空海の実像」P30)とのことであり、これは、この時代、同法に関心が寄せられ、また、その実践が行われていたことを意味するのではないかと思う。
では、虚空蔵菩薩求聞持法は玄昉帰国の天平7年(735)以降に始められたのかといえば、そうではないようだ。「延暦僧録」(※1)の記述によれば、神叡(しんえい)が吉野の比蘇山寺で自然智(じねんち・その人間に生来備わっている智慧、師によらず自然に悟りをひらく智慧)を得る修行(それは虚空蔵菩薩求聞持法と推測される)を「二十年」続けていることがうかがえる。神叡の生年は不明だが、「元亨釈書」神叡伝(※2)では天平9年(737)に没したとしている。彼が山林修行を行じたのは若い頃だろうが、没年から20年を逆算してみても霊亀3年・養老元年(717)頃となる。ということは、和銅3年(710)、元明(げんめい)天皇が藤原京より平城京に都を移して奈良時代が開幕した頃には、虚空蔵菩薩求聞持法は大陸より請来されていたことになるだろう。
※1「延暦僧録」
鑑真の弟子で唐招提寺の建立に尽力して帰化した律宗の僧・思託(生没年不詳、奈良時代・天平勝宝6年[754]唐より来日)が著した日本初の僧伝10巻。
延暦7年(788)成立、現存しない。
※2「元亨釈書」
臨済宗の僧・虎関師錬(1278~1346)が元亨2年(1322)、朝廷に上程した。
日本への仏教公伝以来、鎌倉期までの仏教史、僧伝を綴る。
【 唐僧・神叡 】
※これより以下は、薗田香融(そのだこうゆう)氏の論考「古代仏教における山林修行とその意義」(「虚空蔵信仰」編者・佐野賢治氏 1991年 雄山閣出版)の教示によりながらの展開になります。
奈良時代の唐僧、神叡(しんえい 生年?~天平9年[737])が芳野現光寺(※3)で20年間に亘って籠り、結果、自然智(じねんち)を得たことについて、「扶桑略記」(※4)は天平2年(730)10月17日条に「延暦僧録」を引用して以下のように記す。
○十月十七日乙酉。大僧都弁静法師為僧正。【三論宗】
◎同日。神叡法師為小僧都。道慈法師為律師。唐僧思託作延暦僧録云。沙門神叡。唐学生也。因患制亭。便入芳野。依現光寺。結盧立志。披閲三蔵。秉燭披翫。夙夜忘疲。逾二十年。妙通奥旨。智海。淵沖。義雲。山積。盖法門之龍象也。俗時伝云。芳野僧都得自然智。【已上延暦僧録之文。】
「続日本紀」(※5)天平16年(744)の10月には、
冬十月辛卯。律師道慈法師卒。【天平元年為律師。】法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聰悟 為衆所推。大宝元年隨使入唐。渉覧経典。尤精三論。養老二年帰朝。是時釈門之秀者唯法師及神叡法師二人而已。
とあって、道慈(?~744・南都大安寺に住した三論宗の第3伝)と並んで「釈門之秀」とまで称された学僧であったことがうかがえる。
※3「芳野現光寺」
放光寺、比蘇寺、比蘇山寺とも称され、現在は曹洞宗世尊寺。白鳳期の創建か。
芳野は現在の奈良県吉野郡大淀町。
※4「扶桑略記」
比叡山東塔西谷の功徳院に住した天台の学僧・皇円(1074?~1169?・法然の師)が神武天皇から堀河天皇までの記事を、仏教関係を重点としてまとめた漢文編年体の歴史書。
※5「続日本紀」
延暦16年(797)に完成した六国史(りっこくし)の第二番目の勅撰史書。
文武天皇から桓武天皇までの歴史を記す。(40巻)
《 六国史 》
日本書紀(にほんしょき)
続日本紀(しょくにほんぎ)
日本後紀(にほんこうき)
続日本後紀(しょくにほんこうき)
日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)
日本三代実録(にほんさんだいじつろく)
【 最澄の記述「自然智」・護命 】
時代はくだって、弘仁9年から10年にかけ、最澄は三つの「学生式(がくしょうしき)」を朝廷に提出して允許(いんきょ)を求める。弘仁9年(818)5月13日に「天台法華宗年分学生式」(六条式)、同年8月末に「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)、弘仁10年(819)3月15日には「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式・以上三つを合わせて山家学生式[さんげがくしょうしき]と称される)を朝廷に上奏。
概要としては、
・天台法華宗の年分学生は比叡山寺で独自に得度。「梵網経」所説の大乗菩薩戒を授け、大僧として太政官が公認する。(六条式)
・遮那業と止観業の学生に十二年間の籠山を定め、比叡山寺独自の仏教学習を行い、終了後は国家の官符により修了者を伝法、諸国の講師として任用する。(六条式)
・天台法華宗の得度者は、戸籍を治部省玄蕃寮に移行しない。(八条式)
・東大寺、下野薬師寺、筑紫観世音寺の「天下三戒壇」で授けられていた戒は「四分律」であり、部派仏教の一つ法蔵部の律に基づいていた。これは小乗律であり、天台法華宗の年分学生並びに他の宗派より比叡山寺に来たって大乗を志向する者には小乗戒は受けさせず、大乗戒を授けて大僧とする。(四条式)
などというものだった。
大乗戒壇の建立、南都僧綱の統制から離れた独自宗派の勅許を求めた、要するに比叡山寺を独立した一向大乗の寺とする最澄の「山家学生式」を受け、嵯峨天皇は南都の僧綱に諮問。大僧都・護命を始めとする南都の僧綱は弘仁10年(819)5月19日付けの「大日本国六統表」を上奏して反対意見を表明。その中に「入唐した最澄は唐都(首都・長安)を見ることなく、ただ、辺州(台州、越州等)に在ったのみで還ってきてしまった。今、私に式を造って、たやすく奉献しているのである」旨の記述がある。
この南都の「大日本国六統表」に対して、弘仁11年(820)、最澄は「顕戒論」(3巻)を著して反論、大乗戒の本旨を説いて大乗戒壇の正当性を主張する。文中、自己の入唐を云々されたことについて、僧綱の大僧都・護命は未だ辺州すらも見ていないのであり不忠の詞(ことば)である、ましてや比蘇は自然智ではないか、と反駁している。これにより護命は比蘇の自然智に関係していることがうかがわれるのである。
開示見唐一隅知天下上座明拠十八
僧統奏曰。最澄只在辺州。即便還来。寧知天下諸寺食堂。仏之所説。猶難盡行。詿誤之事。何為信用。已上奏文。
論曰。最澄向唐。雖不巡天下諸寺食堂。已見一隅。亦得新制。其文云。令天下食堂。置文殊上座。当今所奏詿誤之事。未見辺州。不忠之詞。若嫌辺州闕学失。何況比蘇自然智也。
比叡山と平安遷都についての比叡山延暦寺の解説板
【 最澄の記述「自然智」・徳一 】
弘仁7年(816)から弘仁12年(821)まで続いた法相宗・徳一(とくいつ 760?~835?)との教理上の論争「三乗一乗論争(三一論争)・仏性論争」においても、最澄の著作中に「自然智宗」との表現が見受けられる。
法華秀句・上末
若言短翮禀師説。未知。師師伝日本。若言道昭及智通。古記之中示其文。若言古徳所伝語。不足令信後学者。若言比蘇及義淵。自然智宗無所禀。短翮何言有禀。
最澄と激しい論争を行い、弘仁6年(815)、空海からの密教典籍の書写・布教の要請に対しても、「真言宗未決文」を以て批判した官寺仏教を代表する論客・徳一。20歳にして東国に下った彼の詳細な経歴は明らかではないようだが、最澄の記述によれば、徳一は比蘇の自然智と関係しており、かつ、その一団は自然智宗と称されていたことが認識されるのである。
最澄と徳一の教理論争について、師 茂樹(もろ しげき)氏の分かりやすい解説
【 神叡から護命への学的系譜 】
最澄の大乗戒壇の求めに反対した南都・僧綱の代表者、法相宗の学匠である元興寺(がんごうじ)の護命(ごみょう)は若年の頃、月の上半は吉野の深山に入り虚空蔵法を修し、下半は本寺に在したことが「続日本後紀」に記録されている。
「続日本後紀」承和元年(834)九月戊午条
戊午。天皇御大極殿。奉幣帛於伊勢大神宮。
是日。僧正伝灯大法師位護命卒。法師俗姓秦氏。美濃国各務郡人。年十五。以元興寺万耀大法師為依止。入吉野山而苦行焉。十七得度。便就同寺勝虞大僧都。学習法相大乗也。月之上半入深山。修虚空蔵法。下半在本寺。研精宗旨。教授之道。遂得先鳴。弘仁六年擢任少僧都。七年転大僧都。僧統之職。
ここで、薗田氏の論考では、文中の吉野山とは「恐らく比蘇寺に入居したものであろう」として、「日本後紀」から護命の学系をたどり「神叡―尊応―勝悟―護命」との「元興寺を中心とする法相宗唯識の相承系譜」を示す。
これにより、
・比蘇山寺に神叡入山以来、自然智宗と称される山林修行の伝統が形成されていたこと。
・元興寺法相宗系の一派が中核体となっていたこと。
・神叡の入山時期は明らかではないものの、「延暦僧録」に「逾二十年」とあるから、それは奈良朝初期であること
・同時に自然智宗の起源も奈良朝初期となること。
を結論する。
【 道璿 】
また、最澄の「内証仏法相承血脈譜」(弘仁10年[819]の著作、系譜部は最澄筆、伝記部は後代とされる)所引の「吉備真備纂」の道璿(どうせん・702~760、大安寺三論系、最澄の禅法の祖)伝に、比蘇入山の記述があることから、「当然『自然智』の行者に加わったに違いなかろう」とし、比蘇山寺は元興寺法相系のみならず、大安寺三論系の行者も共に居したことを示されている。
内証仏法相承血脈譜・道璿の項
天平宝字年中正四位下大宰府大弍吉備朝臣真備纂云。大唐道璿和上。天平八歳至自大唐。戒行絶倫。教誘不怠。至天平勝宝三歳。聖朝請為律師。俄而以疾。退居比蘇山寺。
続けて薗田氏は、「元亨釈書」の撰者・虎関師錬が同書中の「神叡伝」で、引用元となった「延暦僧録」の「自然智を得たり」との記述を「虚空蔵菩薩の霊感を得たり」と表現を換えていることに注目し、その理由を「今昔物語」を引用して、「自然智が虚空蔵から与えられるものであったから」とする。そして「自然智は虚空蔵菩薩を祈願の対象とし、この菩薩から賦与せられるものと考えられていた」こと、「自然智宗とは虚空蔵求聞持法によって聞持の智慧を得ることを目標とした山林修行の一派である」ことを解明されるのである。
「元亨釈書」
釈神叡唐国人。居元興寺講唯識。世言。得虚空蔵菩薩霊感。霊亀三年(正しくは養老三年[719])勅曰。沙門神叡。学達三空。智周二諦。戒珠光潔。慧海波深。冝施食封五十戸。天平九年(737)化。
ということは、比蘇山寺に入山して自然智の行者に加わった道璿も、虚空蔵菩薩求聞持法を行じたと考えてもよいだろう。
では、神叡以下元興寺法相系の学僧と、大安寺三論系の道璿が比蘇山寺において修した「虚空蔵菩薩求聞持法」はいつ、誰によって請来されたものなのだろうか。
【 道慈 】
日本に「虚空蔵菩薩求聞持法」を請来した人物は、大安寺の道慈(どうじ 生年?~744、日本三論宗の第3伝)とされている。道慈は大宝2年(702)の遣唐船で入唐。長安の西明寺で16年に亘り修学した後、養老2年(718)10月に帰朝した。
「続日本紀」天平16年(744)10月の項を再掲しよう。
冬十月辛卯。律師道慈法師卒。【天平元年為律師。】法師俗姓額田氏。添下郡人也。性聰悟 為衆所推。大宝元年隨使入唐。渉覧経典。尤精三論。養老二年帰朝。是時釈門之秀者唯法師及神叡法師二人而已。
薗田氏は善無畏の俗弟子である中国の李華(りか)撰の「玄宗朝翻経三蔵善無畏贈鴻臚卿行状」と「宋高僧伝・善無畏伝」を引用して、開元5年(717)、天竺から到着した善無畏はまず「求聞持法」一巻を漢訳しており、在唐中だった道慈が新訳出の同巻を携えて翌養老2年(718)に帰国したと推測。そして大安寺三論宗の正統派「道慈―善議―勤操」へ相伝された、それが空海の山林修行喚起の因となった、吉野比蘇山寺に自然智宗を形成した人達・神叡らは道慈より「虚空蔵求聞持法」を受け継いだであろう、とされている。
確かに善無畏と道慈は同時期に中国にいたのだろう。また、16年も現地に留まり学習、仁王般若経を講義する高僧100人の内の一人に選ばれるほど仏教経論に秀でており、帰国後も神叡と共に食封50戸を賜る、天平9年(729)には律師に補せられる、平城京に大安寺を移設した時には長安の西明寺を模して伽藍を建てるほどの人物であったから、在唐時代には朝廷を始め相当な人脈、ネットワークも培ったことだろう。そのような道慈であれば、善無畏と密教経典の唐への到来、新訳経典の情報を耳にすること、それを手に入れることも可能だったと思う。
尚、日蓮遺文には開元4年(716)以降、善無畏らがインドより中国に赴いたことが記されている。
「善無畏抄」文永3年(1266)或いは建治元年(1275) 真蹟
善無畏三蔵は月氏烏萇奈(うちょうな)国の仏種王の太子なり。七歳にして位に即(つ)き、十三にして国を兄に讓り出家遁世し、五天竺を修行して五乗の道を極め三学を兼ね給ひき。達磨掬多(だるまきくた)と申す聖人に値ひ奉りて真言の諸印契(いんげい)一時に頓受(とんじゅ)し、即日に御潅頂(かんじょう)なし人天の師と定まり給ひき。雞足(けいそく)山に入りては迦葉尊者の髪をそ(剃)り王城に於て雨を祈り給ひしかば、観音日輪の中より出でて水瓶(すいびょう)を以て水を灌(そそ)ぎ、北天竺の金粟(こんぞく)王の塔の下にして仏法を祈請せしかば、文殊師利菩薩、大日経の胎蔵の曼荼羅を現はして授け給ふ。其の後開元四年丙辰(ひのえたつ)に漢土に渡る。玄宗皇帝之を尊むこと日月の如し。(定P408)
「聖密房御書」文永11年(1274)5・6月頃 真蹟曽存
日蓮勘へて云はく、大日経は新訳の経、唐の玄宗皇帝の御時、開元四年に天竺の善無畏三蔵もて来たる。法華経は旧訳の経、後秦の御宇に羅什三蔵もて来たる。(定P820)
「曾谷入道殿許御書」文永12年(1275)3月10日 真蹟
太宗より第八代玄宗皇帝の御宇に、真言始めて月氏より来たれり。所謂開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経、開元八年には金剛智・不空の両三蔵の金剛頂経。此くの如く三経を天竺より漢土に持ち来たり、天台の釈を見聞して、智発して釈を作って大日経と法華経とを一経と為し、其の上、印・真言を加へて密教と号し之に勝るの由をいひ、結句は権経を以て実経を下す。漢土の学者、此の事を知らず。(定P899)
「撰時抄」建治元年(1275)6月 真蹟
太宗第四代玄宗(げんそう)皇帝の御宇、開元四年と同八年に、西天印度より善無畏三蔵・金剛智三蔵・不空三蔵、大日経・金剛頂経・蘇悉地経を持て渡り真言宗を立つ。(定P1013)
このように、玄昉(げんぼう・?~746)が天平7年(735)に一切経を日本に請来する17年前より、「虚空蔵菩薩求聞持法」は我が国に伝わり吉野比蘇山寺での自然智宗として、また後の空海に見られるように山林修行に相応しい各地において修行されていたのではないか、と考えられるのである。
しかし、道慈と密教の関わりについては、藤井淳氏が著書「空海の思想的展開の研究」(2008年 トランスビュー)で疑問を呈されている。(P64)
『道慈は、初期の日本三論宗において重要な役割を果たした人物で、善無畏から虚空蔵求聞持法を受け、勤操、空海と伝えられたという記事が、空海との関連で従来注目されている。しかし道慈と善無畏との関係をはじめ、虚空蔵求聞持法の相伝についての記事は鎌倉期になるものであり、道慈と密教を関連づける記事の信憑性は低いと考えられる。また道慈には、二部の著作があったとされるが現存しない』
また、藤井氏は「そもそも奈良時代の僧侶に密教という認識はなかったと考えられる。」(P615)と指摘し、「奈良時代の密教について」(P85)詳細な考察を重ねている。
一方では、飯島太千雄氏は「若き空海の実像」において、天平4年(732)秦公豊足の優婆塞貢進解(うばそくこうしんげ)の誦経に「大般若呪」「羂索呪」「仏頂呪」「虚空蔵呪」とあること。天平6年(734)7月の鴨縣主黒人の優婆塞貢進解の誦経に「観世音経」等と共に「虚空蔵経陁羅尼」とあること。これらを示した後、「右二例の優婆塞貢進解により、幾つもの陁羅尼経が養老2年(718)に帰国した道慈等によって舶載され、天平7年(735)に帰朝した玄昉以前にかなりの隆盛を見ていた事が分る。という事は、玄昉の帰国以前に、古密教の経疏がもたらされ、奈良仏教に密教が浸透し出していたと見るべきだろう。」(P30~P31)とし、以下、詳細な考察を重ねている。
どちらの主張を用いるべきか、門外漢の私には判断どころか、今は認識するのに精一杯、ただ勉強あるのみなのだが、現段階の私の考えでは、「密教という認識はなかった」としても、実際には典籍は伝来しているのであり、飯島氏の指摘する「古密教」は事実上、「存在していた」「体感されていた」が、「密教と明確に認識され、密教と名付けられていなかった」ということではないかと思う。いずれにしても、奈良時代に「密教認識はあったのか、なかったのか」については、興味の尽きない論点だ。
【 各宗・学系共に行った山林修行 】
これまでの経緯をまとめてみよう。
大安寺を平城京に移し日本三論宗第3伝とされる道慈が虚空蔵菩薩求聞持法を唐より請来。それは善議~勤操の大安寺三論系の正統派に相伝されると共に、道慈は神叡を始めとした吉野比蘇山寺に自然智宗を形成した修行者達にも伝える。神叡よりは「神叡―尊応―勝悟―護命」という元興寺を中心とした法相宗唯識の相承系譜にも、「求聞持法」は継承されたと考えられる。更には、唐において戒律、禅、華厳を学び三論宗義、天台教学にも通じていた道璿が天平8年(736)に日本に招かれ、それらを伝えて自らも吉野比蘇山寺に入り、そこで自然智の行者に加わっており、それは虚空蔵菩薩求聞持法を修したものと考えられる。
このような、三論、法相、そして律、禅、華厳、天台教学に秀でた人物が自然智宗を形成、虚空蔵菩薩求聞持法を修行した。比蘇山寺に集う修行者は一様に自然智宗と呼ばれたが、実際はそれぞれの学系、宗派、本寺があった。しかし、そこでは共通の目的、自然智を得るというものがあり、そのために無限なる宇宙空間の尽きることのない知恵、溢れる慈悲を内蔵し、知恵、知識、記憶力増進の利益をもたらすとされる虚空蔵菩薩への修行を重ねたのである。
知力、記憶力の増進は仏道に生きる者、誰もが願うところのものだ。この虚空蔵菩薩の利益するところからすれば、その求聞持法は特定の宗派、学系に狭められるものではなかったのであり、事実、日本においては各宗・各学系共通の修行として始まった。そして若き空海の実践により東密で定着し、台密にも摂り入れられ、それは「聖」達によって日蓮の故郷、安房の国清澄寺にもたらされることになるのである。
(宝亀二年[771]不思議法師が虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し一宇を建立、との寺伝は後世に作られた伝承だろう)
このような位置付けの虚空蔵菩薩であれば、各宗・学系の教理、思想、信条に捉われない存在、更に上に位置付けられていたものではなかったろうか。
このことは日蓮の遺文からもうかがえると思う。
日蓮が「此の諸経・諸論・諸宗の失を弁へる事は虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩なるべし。亀魚すら恩を報ずる事あり、何に況や人倫をや。此の恩を報ぜんが為に清澄山に於て仏法を弘め、道善御房を導き奉らんと欲す」(定P473 文永7年「善無畏三蔵抄」 当書の真蹟と推される断簡あり) と経典の勝劣を知り、法華経最第一を覚知したのは虚空蔵菩薩の御利生、本師・道善御房の御恩であるとしたこと。東密破折の書を「これは大事の法門なり。こくうざう(虚空蔵)菩薩にまいりて、つねによみ奉らせ給ふべし。」(定P826 文永11年5、6月頃「聖密房御書」 真蹟曽存)と、清澄寺の虚空蔵菩薩の前で読むように教示したこと。
遺文中のこれらの記述によって、虚空蔵菩薩の位置付けは教理的思考を超越したものであり、日本に請来された奈良時代、平安時代、鎌倉時代と縦に、また各宗・各学系を横断して横にも継承され、天台の僧として「法門を申しはじめ」た日蓮も、虚空蔵菩薩について前代からの認識理解を継承する一人であった、と考えられるのである。
2023.9.18