法華経の文字に~師匠なき時代を生きるということ
文永9年(1272)9月「四条金吾殿御返事(梵音声書)」(日興本)
法華経を一字一句も唱へ、又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使ひなり。然れば日蓮賎しき身なれども教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり。此を一言もそし(誹)らん人々は罪無間を開き、一字一句も供養せん人は無数の仏を供養するにもす(過)ぎたりと見えたり。
中略
釈迦仏と法華経の文字とはかはれども心は一つなり。然れば法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあひ進らせたりとおぼしめすべし。
文永9年9月といえば佐渡に流された翌年であり、『佐渡法難』(山中講一郎氏の教示による)ともいうべき激動の渦中の書簡です。
文中、『教主釈尊の勅宣を頂戴して此の国に来たれり』には目が止まります。
日蓮が教主たる釈尊=久遠仏(※1)に会い、末法における法華経・妙法弘通の勅宣を頂くということは当然ながら物理的に有るわけはないのですが、日蓮の宗教的達観といいましょうか、彼は断定的に記述しています。
会ったこともない仏と会ったことにし、託されたわけでもないことを託されたことにしてしまう。
このような記述に「内面世界における悟達を自在に語り、書き、既成事実としてその上に論を展開する」日蓮の個性ともいうべきものが感じられ、それは遺文の随所に見られるのです。
もっとも、仏教というか、宗教とは「はじめの覚者の言葉と振舞」に連なる自覚のある後世の求道者が、その時代における政治、経済、戦争や自然災害を経験し、人々の不幸と悲惨、また喜びと共に在る中で目覚め、書いて語ったものの積み重ね=悟達と創造の集積・結晶と言えるものと私は考えており、そのような宗教・信仰の流れにあった日蓮が自らの内面を自在に語り、書いたのも至極当然であったのではないでしょうか。
さて、別の遺文ですが、翌文永10年(1273)5月の「諸法実相抄」では、『流人なれども喜悦はかりなし』と記しています。 (※2)
引用した「四条金吾殿御返事(梵音声書)」と「諸法実相抄」の二つの記述から、何が読み取れるでしょうか?
日蓮の時代において、久遠仏・教主・師匠の姿はなくとも、教え(経典)が即ち久遠仏・教主・師匠 そのものであり、彼は『法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあひ進らせたり』と、経典に生身の久遠仏・教主・師匠の姿を見出した。
妙法を弘める胸中の喜びは時空間を越えて久遠仏に直参。久遠仏との邂逅(かいこう)を果たし、久遠仏と自己との対話から仏教的使命の自覚が成される。それよりは久遠仏の世界(経典)に入るだけでなく、身で読み久遠仏の教え(経典)を証明するという不惜身命の実践を伴い、その行いは自己の正統性も同時に示すことになった。
やがては、弟子でありながら久遠仏と一体にして異ならず。次なる時代(末法)の、久遠仏・教主・師匠の姿なき世の、新たなる久遠仏・教主・師匠の体現者としてその内面は昇華された。
これらにより『我がなき後の門下も、我が残せし文字(御書とも遺文とも)から私の思いに迫り実践しなさい』と、日蓮は自らの振る舞いをもって『永遠の鑑』とされた、と学べるのではないかと思います。
更には、
師の語ったことを過(あやま)たず記録し伝えることは、師の慈愛に浴しながら生きた同時代の人々の未来への責任である。師匠なき時代には文字となって、師は生き続け語り続ける。師との語らいの中で自己がいかにあり、何を成すべきかを決めるのは誰でもない、自分自身である。ひとたび胸中で師に誓いを立てたならば、難即安楽と進みゆけ。
と日蓮が語りかけているように思います。
日蓮の「法華経の文字を拝見せさせ給うは、生身の釈迦如来にあひ進らせたり」を拝するにつけ、師匠の姿なき時代の信仰者のあり方を教わる思いとなりますし、師匠の真実を後世に語り伝えることの重大さを感じるのです。
※1
日蓮が法華経最第一を説示するにあたって繰り返し表現している教主釈尊、釈迦牟尼仏、釈迦如来、大覚世尊等の多くは、後に釈迦と尊称されるようになった北インド誕生のガウタマ・シッダールタではなく、法華経如来寿量品第十六に説かれ、「我常在此 娑婆世界 説法教化(我常に此の娑婆世界に在って説法教化す)」とされる久遠実成の釈尊、即ち久遠仏のことではないでしょうか。
※2
「法華仏教研究」27号収載、川崎弘志氏の論考「諸法実相抄の考察」では、「諸法実相抄」は真撰の可能性が高いことが指摘されています。
2024.2.4