永遠の仏・久遠実成の釈尊を日蓮が証明

 

◇「教学要綱」を批判して「『永遠の仏・久遠実成の釈尊』(p27)とするのなら釈迦仏像を拝めばよいではないか!」等という主張がありますが、それでしたら同様のことを日蓮に向かって言わなければなりません。

 

 

顕仏未来記 文永10年(1273)閏511日 52歳 真蹟・身延山曽存

天台云わく「雨の猛きを見て竜の大なるを知り、華の盛んなるを見て池の深きを知る」等云々。妙楽云わく「智人は起を知り、蛇は自ら蛇を識る」等云々。

日蓮この道理を存(そん)して既に二十一年なり。日来(ひごろ)の災、月来(つきごろ)の難、この両三年の間の事、既に死罪に及ばんとす。今年今月、万が一も脱(のが)れ難き身命なり。世の人、疑いあらば、委細のことは弟子にこれを問え。幸いなるかな、一生の内に無始の謗法を消滅せんことを。悦ばしいかな、いまだ見聞(けんもん)せざる教主釈尊に侍(つか)え奉らんことよ。

 

 

日蓮的には2,200年以上の時を超えて(実際は法華経編纂から1,000年ほど)、教主釈尊(久遠実成の釈尊・久遠の本仏)に仕えることを、「悦ばしいかな」と躍り上がらんばかりに喜んでいます。日蓮の眼前には久遠の本仏が存在しているということであり、即ち日蓮こそが「永遠の仏・久遠実成の釈尊」を証明しているのです。

 

同じく「顕仏未来記」では、日蓮は「永遠の仏・久遠実成の釈尊」以来の相承の系譜に連なることを誇らしげに明言しています。

 

 

伝教大師云わく「浅きは易く深きは難しとは、釈迦の所判なり。浅きを去って深きに就くは、丈夫(じょうぶ)の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家(いっけ)は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等云々。安州の日蓮は、恐らくは、三師に相承し、法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四師と号()づく。

 

 

日蓮は「釈尊、天台大師智顗、伝教大師最澄の相承の系譜に連なる」としているのです。まさに、釈尊から日蓮へ、そして日蓮に直結する現代の和合僧に至る信仰の清流というべきでしょう。

もちろんこの場合の相承とは、唯授一人金口嫡々血脈相承のような神秘的なもの、直接的なつながりではなく、日蓮が己心で感得したところの相承であると読み解けます。

 

 

 

◇日蓮による「永遠の仏・久遠実成の釈尊」を証明する記述は他の遺文でも見受けられます。

 

「撰時抄」 三度の高名

・文応元年(1260)716日、「立正安国論」を最明寺入道時頼(北条時頼)に提出し、宿屋入道に向かって「禅宗、念仏宗を禁断しなさい。これを用いないならば、自界叛逆難と他国侵逼難が起こるであろう」と諫めたこと。

 

・文永8912日、平左衛門尉頼綱に向かって「日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦(はしら)を倒すなり。只今に自界反逆難とてどしうちして、他国侵逼難とてこの国の人々他国に打ち殺さるるのみならず、多くいけどりにせらるべし。建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が寺塔をばやきはらいて、彼らが頸をゆいのはまにて切らずば、日本国必ずほろぶべし」と諫めたこと。

 

・配流地の佐渡から鎌倉に戻り、文永1148日、平左衛門尉に対して「王地に生まれたれば身をば随えられたてまつるようなりとも、心をば随えられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なることは疑いなし。殊に真言宗がこの国土の大いなるわざわいにては候なり。大蒙古を調伏せんこと、真言師には仰せ付けらるべからず。もし大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいでこの国ほろぶべし」と諫め、頼綱の「蒙古はいつ頃攻めてくるだろうか」との問いに「経文にはいつとはみえ候わねども、天の御()けしきいかりすくなからず。きゅうに見えて候。よも今年はすごし候わじ」と返答したこと。

 

以上が「三度の高名」ですが、日蓮は続けて「この三つの大事は日蓮が申したるにはあらず。ただひとえに、釈迦如来の御神(おんたましい)、我が身に入りかわらせ給いけるにや。我が身ながらも悦び身にあまる。法華経の一念三千と申す大事の法門はこれなり」と記述し、日蓮一代の弘法における「三度の高名」は久遠の本仏が我が身に入ればこそ成し遂げられたものであり、身にあまる喜びであるとし、「永遠の仏・久遠実成の釈尊」は現実を動かす力のある存在であることを示しています。

 

2024.9.15