板本尊(本門戒壇の大御本尊)は、いつ造立されたのか?

 

これまで日蓮滅後の一門の動向に関して、簡単にまとめてみました。

さて、最大の関心事は、今日、「本門戒壇の大御本尊」と呼称される板本尊がいつ造立されたのか?ということです。

 

年表を振り返ってみると、上代(ここでは1388年の大石寺御影堂建立以前として)の記述が有る、史料として明示されている板本尊は下記になるでしょうか。

 

 

・民部阿闍梨日向の板本尊(1300)・・・身延山文書「身延山久遠寺諸堂等建立記」

 

・身延山久遠寺塔頭(たっちゅう)の板本尊(1351)・・・中山3代・日祐「一期所修善根記録」

 

・岡宮日春、日法の形木・板本尊・・・富士一跡門徒存知事

 

・下総真間弘法寺の日頂の形木・板本尊・・・富士一跡門徒存知事

 

・河崎大輔阿闍梨日賢の板本尊(1354)・・・保田妙本寺

 

・中山本妙寺、中山門流寺院の板本尊・・・

 

 

特に大石寺の板本尊造立に影響を与えたのは、

    民部阿闍梨日向の板本尊

 

    身延山久遠寺塔頭(※)の板本尊

 

    河崎大輔阿闍梨日賢の板本尊をはじめとした保田妙本寺の板本尊

 

    本妙寺の板本尊をはじめとした中山門流の板本尊

ではないでしょうか。

 

 

    ②身延山久遠寺といえば論じるまでもなく、富士門流にとっては日蓮、日興が住したということからも、日興が離山に至ったという経緯からも、日常的に意識せずにはいられない寺院であったことでしょう。そこに1300年、日向によって板本尊が造立されたのですから、日興はじめ重須や大石寺の僧俗大衆も耳にしたことは推察できます。この時の「伝聞情報」が伏流水となり、その後の「②③の見聞情報」が加わり水かさを増して、大石寺としての寺院経営の緒についた頃の、御影堂建立を契機とする板本尊造立へとつながったのではないかと考えます。

 

    日賢が造立した板本尊は保田妙本寺に安置され、現在まで伝わっています。保田といえば日郷、日郷といえば蓮蔵坊、蓮蔵坊といえば言わずと知れた「東坊地」問題です。日行、日時にとっては官憲を煩わしながら、数十年間渡り合った不倶戴天の敵ともいうべき保田一門です。該所に「大石寺御影」「万年救護本尊」が渡り、日郷一門は佐々宇左衛門尉という有力な檀那を擁して妙本寺、諸寺院の経営が軌道に乗り、日郷の弟子の日叡の奮闘もあって日向一円に至るまで教線が拡大していたのです。日郷一門興隆の象徴ともいえる保田妙本寺での「板本尊」造立、安置は、大石寺にとっても大いなる刺激を与えたことでしょう。

 

    中山日祐の前代、2代日高(太田乗明の子)は若宮法花寺、中山本妙寺の両寺一主の制を定めました。弟子の日祐は、日蓮遺文の書写記録を終生の願業として、大変な行動力で京都、身延等各地に出向き、遺文、寺観、寺宝等を記録しました。その結実が「本尊聖教録」であり、「一期所修善根記録」は行業(ぎょうごう)の記録です。更に日祐は教線の拡大にも努め、下総真間弘法寺、藻原妙光寺、六浦妙法寺等を従え、朗門を凌駕するまでの勢いとなりました。遡れば、下総真間弘法寺時代の日頂が「御筆の本尊を形木に刻んで」います。そして1344年までには、中山本妙寺に「板本尊」が造立されています。これらが、房総等で布教地域が重なった日郷一門に影響を与え、日郷一門は大石寺に影響を与えたという展開も考えられるのではないでしょうか。特に1300年代の中山門流の布教は活発で、肥後の国までその教線を拡大しています。現在は「鬼子母神」を看板としており、それを目当ての参詣者が多く、また「荒行」の道場として有名ですが、門流初期においては随分と様相が異なっていたようです。

 

 

この1300年代の板本尊造立につき、①②③④さらに日向、日春、日頂の形木本尊が、相互に関連していたことでしょう。

 

ということは、一部で言われる

「民部日向の板本尊や久遠寺塔頭の板本尊は戒壇の大御本尊(大石寺の板本尊)を模して造立された」

のではなく、

「民部日向の板本尊、久遠寺塔頭の板本尊を模して戒壇の大御本尊(大石寺の板本尊)は造立された」

というほうが、正解に近いのではないでしょうか。

 

更に言えば

「民部日向板本尊、久遠寺塔頭板本尊⇒大石寺の板本尊」

「河崎大輔日賢板本尊⇒大石寺の板本尊」

であり、背景には

「下総真間弘法寺・日頂形木本尊⇒中山本妙寺板本尊⇔河崎大輔日賢板本尊」

「民部日向板本尊⇒中山本妙寺板本尊」

「民部日向板本尊⇒河崎大輔日賢板本尊」

等、相互の関連もあったことでしょう。

 

総じて言えば「民部日向の板本尊、久遠寺塔頭の板本尊、河崎大輔日賢の板本尊、岡宮日春・日法、真間日頂などの形木、中山門流の板本尊などの影響を受けて大石寺の板本尊は造立された」という展開になるかと考えます。

 

では、「日禅授与本尊の首題」を模して板本尊が造立されたのは何故でしょうか。

「日禅授与本尊の首題」を使ったのはなぜ?ですね。

 

それは日興の認めた脇書きにあると考えます。

 

弘安三年太歳庚辰五月九日、比丘日禅に之を授与す

(日興上人御加筆右の下部に)少輔公日禅は日興第一の弟子なり仍て与へ申す所件の如し、(また同御加筆御花押と蓮字と交叉する所に殊更に文字を抹消したる所を判読すれば)本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり

法道院蔵(現在は大石寺) (富要 8-178 )

 

「本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり」は、この本尊の流転の過程で「必要としない」他門、人物が抹消をしたのでしょう。日興門流の大石寺、重須で消すことは考えられません。

 

大石寺に、日禅授与本尊が存した時は、脇書きは「そのまま」であったことでしょう。「何かしらのいわれ」を創り、「何かしら」を記念して板本尊を造立しようとした時に、この「日禅授与本尊」が側に有ったら、当然の如くに「もと」としたくなります。

 

曼荼羅は大幅にして首題は大きく、弘安35月であり相貌、座配も整足しています。しかも派祖である日興が「本門寺に懸け奉り」「万年の重宝」とした、日興門流にとっても「特別な、由緒ある大事な日蓮図顕・曼荼羅本尊」です。故に、大石寺の板本尊のもとは「日禅授与本尊」であったのではないでしょうか。

 

「大石寺の板本尊の造立時期と造立主」については、やはり6世日時の代が濃厚でしょう。

寺院経営が緒についた大石寺が、記憶にある民部日向の板本尊や身延山久遠寺の板本尊を思い、宿敵・保田妙本寺に対抗して・・・の線は濃いものがあると思います。

 

更に、

1379年・天授5年・康暦元年には熱原法難から100年。

1381年・弘和元年・永徳元年には日蓮100遠忌。

1382年・弘和2年・永徳2年には日興・日目50遠忌。

1388年・元中5年・嘉慶2年には日蓮御影造立。

このいずれの時にも6世日時が大石寺の貫主職なのです。

 

これだけ一門にとって重要な日が重なれば「信仰のシンボル」として、また「信仰の対象を確立することにより寺院を荘厳して信者の参詣を促す環境整備の一環」としても、「宗祖より秘伝で伝わるなんらかの宗宝」を創ろうと発起するのは、「当時の宗教的常識」としては自然なことであったと思います。

 

1331年・元徳3年・元弘元年312日に、日禅は大石寺南之坊で亡くなっています。

この時、「日禅授与本尊」は坊に奉安されていたことでしょう。

日禅亡き後、一旦、日興の手元にあずけられたのか?

そのまま坊に奉安されたのか?

 

いずれにしても、6世日時の代に「日禅授与本尊」をもとに、板本尊(本門戒壇の大御本尊)が模刻造立され、それが後世に「日蓮大聖人出世の本懐・本門戒壇の大御本尊」と伝えられるようになったと推考しています。

 

 

 

2023.6.17

 

※塔頭(たっちゅう)・・・「日本大百科全書」より

 

本寺の境内にある末寺院。塔中とも書く。塔は墓の意で、もとは高僧が寂すると、弟子がその塔の頭(ほとり)に小庵(しょうあん)を建て、墓を守ったことに始まる。のちには、大寺院の高僧が隠退したときなどに、寺の近くや境内に小院を建てて住し、没後も門下の人々が、この小院に住して墓塔を守り、祖師が生けるがごとく奉仕するに至り、それらをも塔頭と称する。次々と小院が建てられたために、しだいにその数も増え、たとえば鎌倉の円覚寺(えんがくじ)は一時、32庵二院を数え、いまでも12庵一院を擁している。元来、塔頭は大寺院に従属したが、明治以後では独立した寺院として扱われることが多い。