最澄、最後の四年間をめぐって
弘仁9年から10年にかけ、最澄は三つの「学生式」(がくしょうしき)を朝廷に提出して允許を求めます。弘仁9年(818)5月13日に「天台法華宗年分学生式」(六条式)、同年8月末に「勧奨天台宗年分学生式」(八条式)、弘仁10年(819)3月15日には「天台法華宗年分度者回小向大式」(四条式・以上、山家学生式[さんげがくしょうしき]と称される)を朝廷に上奏。
ただ、これだけだと歴史の教科書棒読みなのですが、そこに至るまでは人間の感情のせめぎあい、諦めと再生、新出発というドラマがありました。
空海からの密教授法は叶わず途中で挫折、高雄山寺の空海のもとに送り出した最愛の弟子・泰範は帰ってこない。一方で、嵯峨天皇は紀伊国司宛てに太政官符を下して、高野山を空海に下賜しており、彼は国家のど真ん中で脚光を浴びるようになっていく。
そんな、人生の寒風が身に染みていた齢五十のとき。
円澄、円仁らを伴ったのか、それとも彼らに背中を押されたのか、東国へ巡化に赴き、円澄、円仁らの師僧・道忠とその教団ともいうべき、多くの東国の人々との出会い。
同時に始まった法相宗・徳一との三乗一乗論争(三一論争)・仏性論争。
最澄の説法教化を求めて集まった、東国の人々との触れ合いで奮い立ったのでしょう。
『よし、南都僧綱の統制からの自立だ。天台法華宗の年分学生は比叡山寺で独自に得度しよう。「梵網経」所説の大乗菩薩戒を授けよう。大乗戒壇の建立だ』
民衆と共にあり、語る中から、人生最後の4年間、大乗戒壇建立への取り組みが始まったのです。
はじめの六条式が最澄52歳のとき。
日蓮が文永8年の法難に続いて、曼荼羅本尊を初めて顕したのが50歳のとき。
男50代、そこからが始まりのようです。
2024.2.3