最澄 年表 1
最澄の一生をまとめてみました。
参考文献
「伝教大師伝の研究」佐伯有清氏
(1992年 吉川弘文館)
「弘法大師空海の研究」武内孝善氏
(2006年 吉川弘文館)
国会図書館・近代デジタルライブラリー
・「伝教大師全集」第1~4巻
1926年 比叡山専修院付属叡山学院編
比叡山図書刊行所
・「弘法大師全集」第1~6冊
1911年 祖風宣揚会編 吉川弘文館他
神護景雲元年(767)
◎最澄、近江国滋賀郡古市郷に誕生。前年の天平神護2年(766)誕生説もある。
最澄の幼名は三津首広野(みつのおびとひろの)、父は三津首百枝(みつのおびとももえ)、母は藤原北家の出身と伝える。更に先祖は後漢(25~220)第14代の献帝(181~234)の血統に連なる後裔の登萬貴王であり、応神天皇代(201~310・在位は270~310)に日本に渡来したとの伝承がある。
父は滋賀津・大津・粟津の三津の首(おびと)=土地の有力者だったろうが、家系については父親が渡来人の末裔ということが信用できるぐらいで、献帝~登萬貴王の血統云々は確かなものではなく貴種出生譚の一つだと思う。
宝亀9年(778) 12歳
◎少年最澄は出家して近江国分寺に入り、大国師・行表(722~797)の弟子となる。
⇒天平13年(741)、行表は道璿(どうせん・702~760、大安寺三論系)に師事して得度している。行表は最澄の得度後、大安寺に移る。
宝亀11年(780) 14歳
11月12日
近江国分寺の僧、最寂の死闕を補い得度を受け最澄と名乗る。
延暦3年(784) 18歳
桓武天皇の命により山城国乙訓郡長岡の地が造営され、平城京から長岡京へ遷都される。
延暦4年(785) 19歳
4月6日
最澄、南都東大寺にて具足戒を受戒。
7月17日
最澄は比叡山の草庵に入る。大蔵経を読破、「願文」を著すと伝える。
願文
悠々たる三界は純(もっぱ)ら苦にして安きこと無く、擾々(じょうじょう)たる四生はただ患いにして楽しからず。牟尼の日久しく隠れて慈尊の月未だ照さず。三災の危うきに近づき、五濁の深きに没む。しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。草堂楽しみ無しと雖も、然も老少、白骨を散じ曝し、土室闇く狭しと雖も、而も貴賎、魂魄を争い宿す。彼を瞻(み)、己を省みるに此の理必定せり。
仙丸(せんがん)未(いま)だ服さざれば遊魂留め難し、命通未だ得ざれば、死辰(ししん)何とか定めん。生ける時善を作さずんば死する日、獄の薪と成らん。
得難くして移り易きはそれ人身なり。発し難くして忘れ易きはこれ善心なり。是を以て法皇牟尼は、大海の針・妙高の線を仮りて人身の得難きを喩況(ゆうきょう)し、古賢禹王(こけんうおう)は、一寸の陰・半寸の暇を惜しみて一生の空しく過ぐるを歎勧せり。因無くして果を得る、是の処(ことわ)り有ること無く、善無くして苦を免るる、是の処り有ること無し。
伏して己が行迹(ぎょうせき)を尋ね思うに・・・・
中略
伏して願くば、解脱の味独り飲まず、安楽の果、独り証せず。法界の衆生と同じく妙覚に登り、法界の衆生と同じく妙味も服せん。
後略
延暦7年(788) 22歳
◎最澄は比叡山に小堂(一乗止観院)を建て、自ら薬師如来像を刻み安置する、と伝える。
延暦12年(793) 27歳
1月
桓武天皇は和気清麻呂(733~799)の進言を受け、藤原種継暗殺事件に続く自然災害・飢饉・流行り病等の社会不安が続く長岡京を放棄し、山背国葛野郡(やましろのくにかどのぐん)に都を遷すことを決める。和気清麻呂が造営大夫に任命され、土地の調査、造営が始まる。
延暦13年(794) 28歳
10月22日
桓武天皇は新都に遷る。
11月8日
桓武天皇は新しい都を平安京と名づける旨の詔を下す。また、国名も「山背」から「山城」に変更される。
延暦16年(797) 31歳
◎最澄は内供奉十禅師となる。785年からこれまでの、最澄の行動の詳細は不明。
⇒内供奉十禅師=宮中の内道場に奉仕、御斎会の読師を務める僧職。また天皇の夜居を勤める。
延暦17年(798) 32歳
9月
桓武天皇は三論宗・法相宗、二宗並習の詔勅を下す。
11月
最澄、比叡山寺において法華十講を始める。
延暦20年(801) 35歳
◎最澄は比叡山寺において法華十講を奉修。これには南都七大寺の高僧10名を招請し、講師を依頼する。
延暦21年(802) 36歳
1月
桓武天皇は三論宗・法相宗、二宗並習の詔勅をくだす。
8月末
和気広世(わけのひろよ・和気清麻呂の長男)は桓武天皇の勅命を受け、高雄山寺に南都六宗の学僧13人を招請。最澄に法華会講師を務めさせる。
9月
最澄に請益僧(還学生)としての入唐許可がおり、義真も通訳としての同行が許される。
延暦22年(803) 37歳
4月16日
第16次遣唐使・大使の藤原葛野麻呂(ふじわらのかどのまろ)、副使の石川道益一行(最澄を含む)、遣唐使船4隻が難波住吉の三津港を出港。
4月21日
遣唐使船、暴風雨に遭遇。死傷者多数、最澄の船は筑紫に着く。同地で滞留。
延暦23年(804) 38歳
1月
桓武天皇は三論宗・法相宗、二宗並習の詔勅をくだす。
入唐留学生の欠員を補充する二次詮衡で、空海が選ばれる。
6月
遣唐使船、再度難波を出港。藤原葛野麻呂と空海は第一船に同乗。
7月6日
遣唐使の4船、肥前国松浦郡田浦を出港。最澄は副使・石川道益の第二船に乗る。
7月7日
船団は南風に煽られて第三船、四船が行方不明となる。
7月下旬
第二船は明州(みんしゅう)鄮県(ぼうけん)に着く。
8月10日
第一船は福州長渓県赤岸鎮に着く。
9月
最澄は明州に上陸後、病となり療養。回復後、9月15日に台州天台山に向かう。
9月26日
最澄は台州に着く。
◎最澄は滞在期間8箇月の間に各派・各師より受法する。
・中国天台宗の第7祖・龍興寺の道邃(湛然の門弟)は、最澄と弟子の義真に大乗菩薩戒を授ける。
・天台山国清寺座主・行満(湛然の門弟)は天台の法門、典籍、法具などを最澄に授ける。
・道邃より戒律を受ける
・禅林寺・翛然(しゅくねん)より牛頭宗(達磨系禅の別派・傍系)の法を授けられる。
・不空金剛の弟子・順暁より越州にて胎蔵界と金剛界の密教灌頂を授かる。
⇒天台山下山より日本への帰国の間の慌ただしいものだったため、その内容には不完全なものがあったとされる。
延暦24年(805) 39歳
3月
最澄は前年(延暦23年)9月26日より、この年(延暦24年)の3月下旬まで台州に滞在。
4月11日
最澄は台州より明州を経て越州龍興寺に入る。
順暁阿闍梨に師事して密教を受法。
5月18日
最澄は大使・藤原葛野麻呂と同じ船で明州を出港、帰国の途につく。
6月5日
対馬島下県郡に着く。
7月15日
最澄は上洛し「進官録」を上表、「請来目録」と金字の経等を朝廷に献上する。
8月7日
最澄は桓武天皇により殿上に召されて悔過読経し、唐より招来した仏像を献上する。
9月7日(または9月1日)
桓武天皇は最澄が請来した密教に関心を寄せ、高雄山寺において最澄を潅頂の阿闍梨とし、諸寺院を代表する僧八名に潅頂三昩耶を受けしめる。日本最初の潅頂で、毘盧遮那仏像一幅、大曼荼羅一幅、宝蓋一幅等が画工により描かれ、仏・菩薩・神王像の幡(はた)を五十余旈(りゅう)造り、その費用は朝廷が賄う。修円と勤操は桓武天皇の身代りとして潅頂を受ける。
9月17日
最澄、殿上にて毘盧遮那法を修法する。
◎元興寺・泰範が最澄に師事したのはこの頃か。
延暦25年・大同元年(806) 40歳
1月3日
最澄は、従来の南都六宗に天台法華宗を加え、年分度者を十二名とする制度を上表する。
1月5日
南都僧綱は賛意を示す。
1月26日
年分度者を十二名として学業を定めた太政官符が出される。
華厳業、律業、天台業には各二名、三論業(成実を含む)、法相業(倶舎を含む)には各三名の年分度者を賜う。天台業については年分度者二名の内、一名は摩訶止観を読み、もう一名は大毘盧遮那経を読むことが定められ、天台法華宗は朝廷により公認となる。
3月17日
桓武天皇崩御
5月18日
平城天皇即位
10月
空海は唐より帰国、以降2年ほど大宰府に滞在する。
10月22日
空海、「請来目録」を朝廷に提出。
大同4年(809) 43歳
2月3日
空海は最澄に「名書」を差し出す、と伝える。
4月1日
平城天皇は病が重くなり神野親王(嵯峨天皇)に譲位する。
4月13日
嵯峨天皇即位。
7月16日
同日付の太政官符により、空海は入京を許される。
7月中旬
空海、京都・高雄山寺に入る。
8月24日
最澄は弟子・経珍を空海のもとに派遣し、経論12部55巻の借覧を申し出る。以降、最澄から空海への書状は24通、空海から最澄への書状は6通が現存。
10月4日
嵯峨天皇は空海に対し、屏風二帖に「世説」の一文を揮毫することを要請。