曼荼羅本尊の不動明王と愛染明王が梵字であることについて
曼荼羅本尊の不動明王と愛染明王が梵字であることについて、素朴に考えてみました。
まず結論ですが、日本に本格的に密教が導入されたのが平安時代の最澄、空海以降。それ以来、密教の本尊は金剛界の曼荼羅(絵像)、胎蔵界曼荼羅(同じく)がメインですが、これらが文字として顕されたものもあり、文字は日本語ではなく梵字で表現されています。
密教世界では、曼荼羅は絵像がメインだったが、文字曼荼羅もあり、それらは梵字で表されていた。故に、台密(天台密教)を学んだ日蓮もそれら密教曼荼羅を拝見しており、後に妙法曼荼羅を顕すようになると、不動明王・愛染明王を法華経の行者守護の働きを成す明王として梵字で顕した、ということだと思います。
要するに、曼荼羅に不動明王、愛染明王を絵ではなく、文字として顕す時は梵字で表現するのが密教では一般的であった。故に、日蓮も梵字で顕した、ということだと考えています。「仏教界の常識」といえましょうか。
以下は、なぜ不動明王・愛染明王を妙法曼荼羅に配列したのか?私の考えです。
千葉の保田妙本寺には日蓮の「不動・愛染感見記」があります。 偽作だとの説もありますが、私は日蓮の真蹟と考えています。
日蓮は建長6年(1254)1月1日に生身の愛染明王を、続いて月は不明ですが「ある月」の15日より17日に至る間に生身の不動明王を感見して、両明王感見を同年の6月25日に記録します。両感見記に大日如来を祖にした相承の23代目であると、自らを密教の系譜の中に位置付けています。それを記したものが今日、「不動・愛染感見記」と呼ばれる書です。
日蓮は17歳の時、清澄寺で「授決円多羅義集唐決上」を書写し、30歳には京都で「五輪九字明秘密義釈」の書写を許されるほどに密教を摂取しています。そのような日蓮は比叡山等での修学中、密教の秘書を拝見する機会もあったことでしょう。また京畿を歩く途次に「摩尼宝珠曼荼羅」などの密教曼荼羅に礼拝もしたでしょう。
日蓮は建長5年に「法華経最第一」を主張し、法華勧奨を開始するのですが、法華経を始め禅・念仏・密を併せ包摂している「四宗兼学の道場・比叡山・台密信仰圏」の僧・日蓮でもあり、その法脈に連なる僧として、肉眼で生身仏を感見。日輪の中に生身愛染明王を、月輪の中に生身不動明王を見たのだと考えます。
また、「神仏習合」に代表される「既存のものと新来のものを合わせて共に生かし活かせていくという思想、思考法」を日本人、知識層、仏教者の一人として骨身にまで染み込ませていたと思います。
幼少の頃より天台密教という信仰世界に身を置き、思想も継承していたと思われ、特に受難を経て曼荼羅を図顕する頃の日蓮には、「包摂、摂し入れるという思想」が顕著ではないでしょうか。
妙法曼荼羅にはインドより中国から日本にかけての諸仏、諸神、先師が配列され、それぞれが力有を備えています。従来の仏菩薩、神々が日蓮によって法華経、法華経の行者、信奉者守護の使命を課せられ再定義された、とも言えると思います。ここにおいて、曼荼羅の不動明王、愛染明王も同様ではないでしょうか。
「日蓮的摂入・包摂思想」の集大成が妙法曼荼羅だと考えています。
文永8年9月12日、竜口の虎口を脱した日蓮は佐渡に発つ前日の10月9日、相州本間依智郷(現在の神奈川県厚木市北部)において、初の曼荼羅(楊子御本尊)を図顕しますが、以降の曼荼羅のほとんどに不動明王、愛染明王の梵字を欠かさないのは、日蓮が法華経と法華経の行者、更に信奉者守護の働きとして、両明王を法華経信仰世界に摂入し重要視していたことを意味するものではないでしょうか。「日女御前御返事」に「不動・愛染は南北の二方に陣を取り」との表現は、悪魔降伏、戦勝、息災という両明王の力有を端的に顕した記述だと思います。密教の明王である不動・愛染が梵字のまま法華経信仰世界に摂し入れられて南北の二方に陣を取り、他の善神と共に法華経の行者を守護する使命を課せられたということになります。
以上、不動明王、愛染明王が曼荼羅に摂し入れられた所以を大まかに考えてみましたが、別の機会に妙法曼荼羅の形相の起源を考えたいと思います。
※曼荼羅は『日蓮的総合仏教の結晶』ともいえ、それは同時に日蓮が「教主」としての自覚であればこそ、成せたものであるといえるでしょう。
2022.12.30