「時空間を超えながらも正しき師匠と共にある」ことが肝要であり、『日興門流の教学』なるものを祭り上げてそこに正統性と正当性があるというのは大いなる勘違いではないか
「教学要綱」発刊以降、まるで同書に反発するように『日興門流の教学』『日興門流の教義』『日興門流の相伝』等、『日興門流』との表現と、そこからイメージされるものにこだわる方が少なからず見受けられるように思います。
『日興門流』に日蓮仏法と弟子の正義ありといいますか、日蓮滅後の日蓮法華信仰の正しいあり方の判断基準となっているかのようですが、本来的にこのような思考は『大いなる勘違い』というべきでしょう。
法華経、日蓮遺文を読むほどに、知るほどに、ひとつの門流・枠の中にいることに正当性があるのではなく、『時空間を超えながらも正しき師匠と共にある』というところに、仏教の慈悲の精神に連なる正統性と正当性があるといえるのではないでしょうか。
そもそも仏教の出発点にして、今日、世界的に広く受容されているのは釈迦=釈尊(ガウタマ・シッダールタ)であり、これは800年前の日蓮の時代も、現代でも全く変わらない仏教信仰圏での共通認識、理解にして常識なわけです。 また、仏教の信仰をされていなくても、仏教といえば釈迦、釈迦といえば仏教というのは、それこそ南米でもアフリカでも世界のどこにおいても、歴史の教育を受けた人ならば一様に理解しているといえます。
しかも口を開けば、ものを書けば「釈尊、釈迦仏、釈迦如来、釈迦、大覚世尊、世尊」と書きに書き、語りに語り、人に教えまくったのが他ならぬ日蓮なのです。日蓮ほど釈迦、釈迦と、釈迦を語り書いた人物は歴史上いないのではないかと思われるほどに、熱き「釈迦仏信仰の人」といえます。『時空間を超えて正しき師匠と共にあった弟子・日蓮』といえるでしょう。
重要と思われるのが、日蓮が多くの書簡、法門書等で『正しい信仰のあり方』として教示したのは、『釈尊、智顗、最澄に連なる』ということであり、原点に還り正師を鮮明にしてその系譜に自らが連なると位置付け、意義付けるを以て、『日蓮こそ末法の衆生に仏法を教える現代の(その時代の)師匠である』と明示したことではないでしょうか。それは同時に『日蓮は末法の教主である』ことを意味するものでもあります。
顕仏未来記 文永10年(1273)閏5月11日
安州の日蓮は、恐らくは、三師(釈尊、智顗、最澄)に相承し、法華宗を助けて末法に流通す。三に一を加えて三国四師と号づく。
日蓮が釈尊に還ることを教示したのは立教から晩年に至るまでであり、いささかも揺らぐことはありませんでした。
南条兵衛七郎殿御書 文永元年(1264)12月13日
ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は、釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師・主はありがたくこそはべれ。(真蹟)
新田殿御書 弘安3年(1280)5月29日
使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似たり。三事既に相応せり。檀那の一願必ず成就せんか。(真蹟)
もちろん日蓮が釈尊というときは、北インド誕生のガウタマ・シッダールタだけを意味するのではなく、もっぱら妙法蓮華経如来寿量品第十六の久遠実成の釈尊=久遠の本仏を意味する教示になっています。その遺文からうかがわれるように歴史上かつてないほどに久遠実成の釈尊=久遠の本仏を尊信した日蓮は二千二百年以上の時空間を超えた直参(直結)の信仰を教示しており、日蓮は生涯をかけての『久遠仏直参信仰の導師』であったといえるでしょう。
そのような日蓮の教導・振る舞いは、「教学要綱」に示された『永遠の仏・久遠実成の釈尊』を誰よりも訴え証明したのが日蓮である、という理解を促すものでもあります。
そして今度は現代の和合僧が、日蓮の信仰姿勢と教学を範として、二千五百年以上の時空間を超えて釈尊に、700年の時を超えて日蓮に連なり、釈尊から日蓮、和合僧へと継承される信仰の清流をもって次なるステージ、世界へ飛翔せんとしているのですから、まことに『よき時代』に私達はめぐりあえたといえるのではないでしょうか。
この時にあたり、会憲、会則、要綱の冒頭が『釈尊』の二文字から始まり、現代の和合僧が釈尊・日蓮正統の教団であることを明示したのは、日蓮が自らを『三国四師』とすることによって教示した『正しい信仰のあり方』に倣うものであり、同時に『釈尊』を冒頭に置くことにより世界の人々の仏教受容の可能性を大いに高めたということがいえると思うのです。
ここにおいて、『日興門流』という言葉とその意味するところによって「正当性と正統性を得よう、確立しよう」との考えは、むしろ和合僧の可能性を閉ざしてしまうもの、小さなひとつの枠に入れてしまうものであるといえるのではないでしょうか。
『日興門流の教学を継承するところに正統性と正当性がある』という考えは、『特定のひとつの枠・世界に思考と可能性を閉じ込めてしまい、頭でっかちとなり、やがてはその頭の重さで迷走、ふらつき、倒れてしまう』という実例を私たちは30年以上も見続けているのですからもう十分ですし、『去年の暦に執着していたら時の流れに置き去りにされてしまいますよ』と、声を大にして言いたいところなのです。
2024.11.2