日蓮遺文に見る「法華経の行者、上行菩薩」
日蓮は自らを「法華経の行者」と称することについて、文永元年11月11日の東条松原での襲撃を受けた後、同年12月13日に南条兵衛七郎に報じた「南条兵衛七郎殿御書」(真蹟 定P319)の文中で以下のようにいう。
「法華経の故にあや(過)またるゝ人は一人もな」く、経文を「唯日蓮一人こそよ(読)」んだ故に、「日蓮は日本第一の法華経の行者なり」と。
それから7年が過ぎ、文永8年の竜口の虎口を脱して佐渡に配流されて以降、「法華経の行者」との自称に加え、直接的な表現は避けながらも自己をして「上行菩薩」であると譬えたり、謙譲しながら暗示する表現が増えるようになる。
日蓮以前の時代を見れば、他に抜きんでた偉人、祖師、聖者等を仏菩薩の垂迹とする思想が定着していた。聖徳太子は観音菩薩の垂迹と崇められている。弘法大師空海は大日如来の化身、新義真言宗の祖・覚鑁(かくばん)は阿弥陀仏の化身であった。法然の本地は「立正安国論」で「法然聖人は幼少にして天台山に昇り(中略) 或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ」と旅客が語るように、阿弥陀仏の脇に立つ勢至菩薩の化身であり、中国の善導の再誕とも仰がれる。そして弟子の親鸞は同じく阿弥陀の脇士、観音菩薩の化身と崇められる。天台法華宗では伝教大師最澄は薬師如来の垂迹であり、天台大師智顗の後身とされていた。
このような聖人垂迹、後身、化身の思想を日蓮は知悉しており、法華勧奨、題目弘通に励む過程で経文に説かれる受難の予言と我が身に起きた迫害の符号に、自身と経典中の菩薩に重なるものを見出したことだろう。日蓮にとって上行菩薩を意識し重ね合わせるまでに至らせたのは法華経の経文、特に「勧持品二十行の偈」を身業読誦した、身口意の三業で法華経を読んだという確信、自負心によるものだったと思う。
本尊問答抄(日興本 弘安元年9月)
日本国、或は口には法華最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。或は身口意共に最第二・三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし。まして能持此経の行者はあるべしともおぼへず。
佐渡期以降の日蓮は天台という一宗派の範疇から精神的に解き放たれ、再生自立した法華経・題目の伝道者として、二千二百数十年間の諸師を飛び越えて釈尊、即ち久遠仏の体現者としての振る舞いを示すようになる。
そして、門下には、久遠仏より末法今時に派遣された使者「教主釈尊の御使ひ」(種種御振舞御書)との一方の立場を文の表に顕しながら「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」(法華取要抄)を弘め、「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」と、久遠仏の大慈悲を身に体して曼荼羅の図顕・授与を行いながら、久遠仏の慈悲を通わせていくのである。
以下、遺文を順に見ることにより日蓮の宗教的使命感とその高まり、展開を確認してみよう。
*法華経の行者
文永9年2月
「開目抄」(真蹟曽存 定P535)
当世、法華の三類の強敵なくば誰か仏説を信受せん。日蓮なくば誰をか法華経の行者として仏語をたすけん。
*法華経の行者
文永9年4月10日
「富木殿御返事」(真蹟 定P619)
粗(ほぼ)経文を勘(かんが)へ見るに日蓮が法華経の行者たる事疑ひ無きか。但し今に天の加護を蒙(こうむ)らざるは、一には諸天善神此の悪国を去る故か。二には善神法味を味はゝざる故に威光勢力無きか。三には大悪鬼三類の心中に入り梵天・帝釈も力及ばざるか等、一々の証文・道理追って之を進ぜしむべし。
*法華経の行者
文永9年5月5日
「真言諸宗違目」(真蹟 定P638)
仏陀(ぶっだ)記して云はく「後五百歳に法華経の行者有って、諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦石(とうじょうがしゃく)・流罪死罪せられん」等云云。
日蓮無くば釈迦・多宝・十方諸仏の未来記は当に大妄語なるべきなり。
*法華経の行者
文永10年4月26日
「妙一尼御返事」(真蹟 定P722)
滝王丸之を遣使さる。
昔国王は自身を以て床座(しょうざ)と為し、千才の間阿私仙(あしせん)に仕(つか)へ奉り妙法蓮華経の五字を習ひ持つ、今の釈尊是なり。今の施主妙一比丘尼は貧道の身を扶(たす)けんとて小童に命じ、之を使はして法華経の行者に仕へ奉らしむ。
*法華経の行者
文永10年5月11日
「顕仏未来記」(真蹟曽存 定P738)
爾りと雖も仏の滅後に於て、四味三教等の邪執を捨てゝ実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。
例せば威音王仏の像法の時、不軽菩薩「我深敬」等の二十四字を以て彼の土に広宣流布し、一国の杖木等の大難を招きしが如し。彼の二十四字と此の五字と其の語殊なりと雖も其の意之同じ。彼の像法の末と是の末法の初めと全く同じ。彼の不軽菩薩は初随喜の人、日蓮は名字の凡夫なり。
*法華経の行者
文永10年8月3日
「波木井三郎殿御返事」(日興本 定P745)
但し法華経の行者有らば悪口・罵詈・刀杖・擯出等せらるべし云云。此の経文を以て世間に配当するに一人も之無し、誰を以てか法華経の行者と為さん。敵人有りと雖も法華経の持者は無し。譬へば東有って西無く天有って地無きが如し、仏語妄説と成るべきか如何。予自讃に似たりと雖も之を勘へ出だして仏語を扶持(ふじ)す。所謂日蓮法師是なり。
*四菩薩出現したまはんか
文永11年1月14日
「法華行者値難事」(真蹟 定P796)
追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師なり。但権大乗を申べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず、此に口伝有り。天台・伝教は之を宣べて本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之を残したまふ。
所詮、一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。日蓮此の事先づ之を知りぬ。西王母(せいおうぼ)の先相には青鳥(せいちょう)、客人の来相には鳱鵲(かんじゃく)是なり。各々我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ。設ひ身命に及ぶとも退転すること莫(なか)れ。
*上行菩薩
文永11年5月24日
「法華取要抄」(真蹟 定P810)
問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。問うて曰く、正像等に何ぞ弘通せざるや。答へて曰く、正像に之を弘通せば小乗・権大乗・迹門の法門一時に滅尽すべきなり。
中略
日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む、所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり。
中略
我が門弟之を見て法華経を信用せよ。目を瞋(いか)らして鏡に向かへ。天の瞋るは人に失(とが)有ればなり。二つの日並び出づるは一国に二の国王を並ぶる相なり。王と王との闘諍(とうじょう)なり。星の日月を犯すは臣の王を犯す相なり。日と日と競ひ出づるは四天下一同の諍論なり。明星並び出づるは太子と太子との諍論なり。是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。
*法華経の行者
文永11年5・6月頃
「別当御房御返事」(真蹟曽存 定P827)
日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。天のあたへ給ふべきことわりなるべし。
*一閻浮提第一の聖人
文永11年(或は建治元年)と系年
「聖人知三世事」(真蹟 定P842)
聖人と申すは委細(いさい)に三世を知るを聖人と云ふ。
中略
後五百歳には誰人を以て法華経の行者と之を知るべきや。
予は未だ我が智慧を信ぜず。然りと雖も自他の返逆(ほんぎゃく)・侵逼(しんぴつ)、之を以て我が智を信ず。敢へて他人の為にするに非ず。又我が弟子等之を存知せよ。日蓮は是(これ)法華経の行者なり。不軽(ふきょう)の跡(あと)を紹継(しょうけい)するの故に。軽毀(きょうき)する人は頭(こうべ)七分に破れ、信ずる者は福を安明(あんみょう)に積まん。
中略
問うて云はく、何ぞ汝を毀(そし)る人頭破七分無きや。
答へて云はく、古昔(こしゃく)の聖人は仏を除きたてまつりて已外(いげ)、之を毀る人頭破(ずは)但一人二人なり。
今日蓮を毀呰(きし)する事の非は一人二人に限るべからず。日本一国一同に同じく破(わ)るゝなり。所謂(いわゆる)正嘉(しょうか)の大地震文永の長星は誰が故ぞ。日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで之を軽毀(きょうき)して刀杖(とうじょう)を加へ流罪に処するが故に、梵と釈と日月四天と隣国に仰せ付けて之を逼責(ひっせき)するなり。
大集経に云はく、仁王(にんのう)経に云はく、涅槃経に云はく、法華経に云はく。設ひ万祈を作(な)すとも日蓮を用ひざれば必ず此の国今の壱岐(いき)・対馬(つしま)の如くならん。
大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊 或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智 隠留之 為末代残之 後五百歳之時 上行菩薩出現於世 始弘宣之
ここでは、
大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三カ国に於いて未だ在さなかった大本尊である。
日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊のことを知っていたが弘めず、或いはこれを知らなかった。
我が慈父=釈尊=久遠仏は仏智を以て大本尊を隠し留め(久遠仏より上行菩薩に譲られて)、末法の為にこれを残された故である。
後五百歳の末法の時、上行菩薩が世に出現して初めてこの大本尊を弘宣するのである。
との旨が示されている。
日蓮自らは「日蓮は上行菩薩である」との直接的な表現はせず、日蓮の教示を信解する門下が、日蓮の書簡や万年救護御本尊の讃文を拝して初めて、その旨を理解できるような表現しかしていないことに注意を要すると思う。
「お師匠さまは上行菩薩としての自覚をお持ちなのか」と、一門が理解できるような間接的な表現、暗示の域に留まっている。ましてや「久遠仏の体現者」等とは言わない。
妙法曼荼羅本尊図顕という振舞とその相貌、書簡の端々から「久遠仏の体現者・日蓮」が読み解けるだけである。
*上行菩薩
文永12年2月16日
「新尼御前御返事(与東條新尼書)」(真蹟 定P864)
今此の御本尊は教主釈尊五百塵点劫より心中にをさめさせ給ひて、世に出現せさせ給ひても四十余年、其の後又法華経の中にも迹門はせすぎて、宝塔品より事をこりて寿量品に説き顕はし、神力品嘱累品に事極まりて候ひしが、金色世界の文殊師利(もんじゅしり)、兜史多(とした)天宮の弥勒(みろく)菩薩、補陀落(ふだらく)山の観世音、日月浄明徳仏(にちがつじょうみょうとくぶつ)の御弟子の薬王菩薩等の諸大士、我も我もと望み給ひしかども叶はず。
是等は智慧いみじく、才学ある人々とはひゞ(響)けども、いまだ日あさし、学も始めたり、末代の大難忍びがたかるべし。
我五百塵点劫より大地の底にかくしをきたる真の弟子あり、此にゆづ(譲)るべしとて、上行菩薩等を涌出品に召し出ださせ給ひて、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五字をゆづらせ給ひて、あなかしこあなかしこ、我が滅度の後正法一千年、像法一千年に弘通すべからず。
末法の始めに謗法の法師一閻浮提に充満して、諸天いかりをなし、彗星は一天にわたらせ、大地は大波のごとくをどらむ。大旱魃(かんばつ)・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉(ききん)・大兵乱(ひょうらん)等の無量の大災難並びをこり、一閻浮提の人々各々甲冑(かっちゅう)をきて弓杖(きゅうじょう)を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給はざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存ぜば、諸王は国を扶(たす)け万民は難をのがれん。
乃至後生の大火災を脱(のが)るべしと仏記しをかせ給ひぬ。
而るに日蓮上行菩薩にはあらねども、ほゞ兼ねてこれをしれるは、彼の菩薩の御計らひかと存じて此の二十余年が間此を申す。
*上行菩薩
文永12年3月10日
「曾谷入道殿許御書」(真蹟 定P895)
根本大師の記に云はく「代を語れば則ち像の終はり末の初め、地を尋ぬれば唐の東羯(かつ)の西、人を原(たず)ぬれば則ち五濁の生、闘諍の時なり。経に云はく、猶多怨嫉況滅度後と。此の言良(まこと)に以(ゆえ)有るが故に」云云。又云はく「正像稍(やや)過ぎ已(お)はって末法太(はなは)だ近きに有り。法華一乗の機、今正しく是其の時なり。何を以て知ることを得ん、安楽行品に末世法滅の時なり」云云。此の釈は語美しく心隠れたり。読む人之を解し難きか。伝教大師の語は我が時に似て心は末法を示したまふなり。大師出現の時は仏の滅後一千八百余年なり。大集経の文を以て之を勘ふるに、大師存生の時は第四の多造塔寺堅固の時に相当たる、全く第五の闘諍堅固の時に非ず。而るに余処の釈に「末法太有近(まっぽうたうごん)」の言あり。定んで知んぬ、闘諍堅固の筆は我が時を指すに非ざることを。
予、倩(つらつら)事の情(こころ)を案ずるに、大師、薬王菩薩として霊山会上に侍(じ)して、仏、上行菩薩出現の時を兼ねて之を記したまふ故に粗(ほぼ)之を喩(さと)すか。而るに予、地涌の一分には非ざれども、兼ねて此の事を知る。故に地涌の大士に前立(さきだ)ちて粗(ほぼ)五字を示す。例せば西王母(せいおうぼ)の先相には青鳥(せいちょう)、客人の来たるには鳱鵲(かんじゃく)の如し。
「伝教大師最澄が末法の到来を待ち望んだのは、最澄が薬王菩薩として霊山会上に連なった時に、教主釈尊が上行菩薩出現の末法の時をあらかじめ明らかにしていた故に、最澄は自身の時代は第四の多造塔寺堅固の時に当たっていて、全く後の五百歳・闘諍堅固之時には非ずとし、末法を待望したのであろう」と記して、「日蓮は地涌の菩薩の一分でもないけれども、かねてよりこのことは知っていた。故に地涌の菩薩出現に先立って妙法蓮華経の五字を末法の衆生に説示したのである」としている。
文永11年12月の「万年救護本尊」では、拝する人をして「日蓮は上行菩薩」と信解せしめる讃文を顕したものの、わずか三ヶ月後には直接的な表現は避けて自己を「地涌の菩薩の一分でもない」「地涌の菩薩の出現に先立って妙法を説示した」とするのである。
*法華経の行者・大聖人
建治元年4月
「法蓮抄」(真蹟曽存 定P934、P3013、P3041)
是程に貴き教主釈尊を一時二時ならず、一日二日ならず、一劫が間掌を合はせ両眼を仏の御顔にあて、頭(こうべ)を低(た)れて他事を捨て、頭の火を消さんと欲するが如く、渇して水ををもひ飢ゑて食を思ふがごとく、間(ひま)無く供養し奉る功徳よりも、戯論(けろん)に一言継母の継子をほむるが如く、心ざしなくとも末代の法華経の行者を讃(ほ)め供養せん功徳は、彼の三業相応の信心にて、一劫が間生身の仏を供養し奉るには、百千万億倍すぐべしと説き給ひて候。
これを妙楽大師は福過十号とは書かれて候なり。十号と申すは仏の十の御名(みな)なり。十号を供養せんよりも、末代の法華経の行者を供養せん功徳は勝るとかゝれたり。妙楽大師は法華経の一切経に勝れたる事を二十あつむる其の一なり。
中略
夫(それ)天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知んぬべし、国主に失ありと云ふ事を。鏡にうかべたれば之を諍(あらそ)ふべからず。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当に知るべし大禍ありと云ふ事を。仁王経には小難は無量なり、中難は二十九、大難は七とあり。此の経をば一には仁王と名づけ、二には天地鏡と名づく。此の国土を天地鏡に移して見るに明白なり。又此の経文に云はく「聖人去らん時は七難必ず起こる」等云云。当に知るべし、此の国に大聖人有りと。又知んぬべし、彼の聖人を国主信ぜずと云ふ事を。
*法華経の行者・日本国の人々の父母、主君、明師
建治元年5月8日
「一谷入道御書」(真蹟 定P989、P3013、P3041)
前に申しつるが如く、此の国の者は一人もなく三逆罪の者なり。是は梵王(ぼんのう)・帝釈・日月・四天の、彼の蒙古国の大王の身に入らせ給ひて責め給ふなり。日蓮は愚かなれども、釈迦仏の御使ひ・法華経の行者なりとなのり候を、用ひざらんだにも不思議なるべし。其の失(とが)に依って国破れなんとす。
中略
況(いわ)んや或は国々を追ひ、或は引っぱり、或は打擲(ちょうちゃく)し、或は流罪し、或は弟子を殺し、或は所領を取る。現の父母の使ひをかくせん人々よ(善)かるべしや。日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。是を背かん事よ。念仏を申さん人々は無間地獄に堕ちん事決定なるべし。たのもしたのもし。
*上行菩薩
建治元年6月
「撰時抄」(真蹟 定P1003)
大集経の白法隠没の時に次いで、法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか。彼の大集経は仏説の中の権大乗ぞかし。生死をはなるゝ道には、法華経の結縁なき者のためには未顕真実なれども、六道・四生・三世の事を記し給ひけるは寸分もたがわざりけるにや。何に況んや法華経は釈尊は要当説真実となのらせ給ひ、多宝仏は真実なりと御判をそへ、十方の諸仏は広長舌を梵天につけて誠諦(じょうたい)と指し示し、釈尊は重ねて無虚妄の舌を色究竟に付けさせ給ひて、後五百歳に一切の仏法の滅せん時、上行菩薩に妙法蓮華経の五字をもたしめて謗法一闡提の白癩病の輩の良薬とせんと、梵・帝・日・月・四天・竜神等に仰せつけられし金言虚妄なるべしや。大地は反覆(はんぷく)すとも、高山は頽落(たいらく)すとも、春の後に夏は来たらずとも、日は東へかへるとも、月は地に落つるとも此の事は一定なるべし。
此の事一定ならば、闘諍堅固の時、日本国の王臣と並びに万民等が、仏の御使ひとして南無妙法蓮華経を流布せんとするを、或は罵詈し、或は悪口し、或は流罪し、或は打擲し、弟子眷属等を種々の難にあわする人々いかでか安穏にては候べき。これをば愚癡の者は呪詛(じゅそ)すとをもいぬべし。法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。而るを上一人より下万民にいたるまであだをなすをば日月いかでか彼等の頂を照らし給ふべき。
日蓮は「久遠仏が末法の仏法滅尽を慮り、上行菩薩に妙法蓮華経の五字を付属して謗法一闡提の病深き衆生の良薬としようとしたことを、梵帝・日月・四天・龍神等に言われた金言は虚妄なのであろうか」として、「たとえ大地が反転することがあったとしても、高山がくずれたとしても、春の後に夏が来なくとも、日が東に沈んだとしても、月が地に落ちたとしても、久遠仏より上行菩薩への妙法蓮華経の付属は間違いのないことなのである」とする。
そして「それが一定ならば、末法となった闘諍堅固の時に日本国の王臣万民が『仏の使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとする者』に対して罵詈、悪口を浴びせ、流罪に処し、殴打したり弟子・眷属に様々な弾圧を加える人々がどうして安穏でいられることがあろうか」とする。
続いて「法華経を広める者は日本の一切衆生の父母」なのであり、章安大師は「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」としている。故に「日蓮は当帝の父母」「念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君」なのであるとしている。
・久遠仏より妙法蓮華経の付属を受けた上行菩薩
・その付属の法体である南無妙法蓮華経を流布せんとする者である日蓮
・日蓮は罵詈、悪口を浴び、流罪に処せられ、打擲され、弟子・眷属に様々な弾圧を加えられた
・この時、南無妙法蓮華経を流布せんとしているのは日蓮であり、他に題目流布の導師はいない
文意としては、日蓮は自己をして「久遠仏より妙法蓮華経の付属を受けた上行菩薩」と間接的に表現している。また、弘経者の「親の徳」、自己の「主師親の三徳」を明示していることは、他の遺文等でも文の表で繰り返し「久遠仏の使者」であると自己規定していることを踏まえると、「現在、久遠仏の教説を真に明示して衆生を導いているのは我れ一人のみであり、故に久遠仏の主師親の三徳を身に体する仏勅使・導師なのである」との宗教的確信の開陳であり、自負心の顕れともいえるのではないだろうか。
*閻浮第一の法華経の行者
「撰時抄」
もし経文のごとくならば日本国に仏法わた(渡)て七百余年、伝教大師と日蓮とが外は一人も法華経の行者はなきぞかし。いかにいかにとをも(思)うところに、頭破作七分口則閉塞のなかりけるは道理にて候ひけるなり。此等は浅き罰なり。但一人二人等のことなり。日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此をそしり此をあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふ(振)りゆ(揺)るがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。
此等をみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすゝめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合はせ、四海に肩をならぶべきや。
*法華経の行者
建治元年6月16日
「国府尼御前御書」(真蹟 定P1062)
法華経第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫(こう)の中に於て合掌して我が前に在って無数(むしゅ)の偈(げ)を以て讃(ほ)めん。是の讃仏(さんぶつ)に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復(また)彼に過ぎん」等云云。
文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりとと(説)かれて候。まこと(実)しからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。
其の上妙楽大師と申す人、此の経文を重ねてやわ(和)らげて云はく「若し毀謗(きぼう)せん者は頭(こうべ)七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。
釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。
又濁世に法華経の行者のあらんを留難(るなん)をなさん人々は頭七分にわ(破)るべしと云云。
*法華経の行者
建治元年7月2日
「南条殿御返事」(真蹟 定P1078、P3042)
在世の月は今も月、在世の花は今も花、むかしの功徳は今の功徳なり。その上、上一人より下万民までににくまれて、山中にう(餓)えし(死)にゆべき法華経の行者なり。これをふびんとをぼして山河をこえわたり、をくりたびて候御心ざしは、麦にはあらず金(こがね)なり、金にはあらず法華経の文字なり。
*上行菩薩
建治元年7月12日
「高橋入道殿御返事(加島書)」(真蹟 定P1083)
我等が慈父大覚世尊は、人寿百歳の時中天竺(ちゅうてんじく)に出現しましまして、一切衆生のために一代聖教をとき給ふ。仏在世の一切衆生は過去の宿習有って仏に縁あつかりしかば、すでに得道成りぬ。我が滅後の衆生をばいかんがせんとなげき給ひしかば、八万聖教を文字となして、一代聖教の中に小乗経をば迦葉尊者にゆづり、大乗経並びに法華経・涅槃等をば文殊師利菩薩にゆづり給ふ。
但(ただ)し八万聖教の肝心・法華経の眼目たる妙法蓮華経の五字をば迦葉・阿難等にもゆづり給はず、又文殊・普賢・観音・弥勒・地蔵・竜樹等の大菩薩にもさづ(授)け給はず。此等の大菩薩等ののぞ(望)み申せしかども仏ゆるし給はず。大地の底より上行菩薩と申せし老人を召しいだして、多宝仏・十方の諸仏の御前にして、釈迦如来七宝(しっぽう)の塔中にして、妙法蓮華経の五字を上行菩薩にゆづり給ふ。
中略
其の故は我が滅後の一切衆生は皆我が子なり、いづれも平等に不便にをもうなり。しかれども医師(くすし)の習ひ、病に随ひて薬をさづくる事なれば、我が滅後五百年が間は迦葉・阿難等に小乗経の薬をもって一切衆生にあたへよ。次の五百年が間は文殊師利菩薩・弥勒菩薩・竜樹菩薩・天親菩薩等、華厳経・大日経・般若経等の薬を一切衆生にさづけよ。
我が滅後一千年すぎて像法の時には薬王菩薩・観世音(かんぜおん)菩薩等、法華経の題目を除いて余の法門の薬を一切衆生にさづけよ。
末法に入りなば迦葉・阿難等、文殊・弥勒菩薩等、薬王・観音等のゆづられしところの小乗経・大乗経並びに法華経は、文字はありとも衆生の病の薬とはなるべからず。所謂(いわゆる)病は重し薬はあさし。其の時上行菩薩出現して妙法蓮華経の五字を一閻浮提の一切衆生にさづくべし。
其の時一切衆生此の菩薩をかたき(敵)とせん。所謂さる(猿)のいぬ(犬)をみるがごとく、鬼神の人をあだ(怨)むがごとく、過去の不軽菩薩の一切衆生にの(罵)りあだ(怨)まれしのみならず、杖木瓦礫(じょうもくがりゃく)にせめられし、覚徳比丘が殺害に及ばれしがごとくなるべし。
*法華経の行者
建治元年7月26日
「高橋殿御返事」(日興本 定P1093)
瓜(うり)一籠、さゝげ(豇豆)ひげこ(髭籠)、えだまめ(枝豆)、ねいも(根芋)、かうのうり(瓜)給(た)び候ひ了んぬ。
付法蔵(ふほうぞう)経と申す経には、いさご(沙)のもち(餅)ゐを仏に供養しまいらせしわら(童)は、百年と申せしに一閻浮提(いちえんぶだい)の四分が一の王となる。所謂(いわゆる)阿育大王これなり。法華経の法師品には「而於一劫中(においっこうちゅう)」と申して、一劫が間釈迦仏を種々に供養せる人の功徳と、末代の法華経の行者を須臾(しゅゆ)も供養せる功徳とたくら(比)べ候に「其の福復(また)彼に過ぐ」と申して、法華経の行者を供養する功徳はすぐ(勝)れたり。
これを妙楽大師釈して云はく「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と云云。
されば仏を供養する功徳よりもすぐれて候なれば、仏にならせ給はん事は疑ひなし。
*法華経の行者
建治2年1月19日
「南条殿御返事(初春書)」(日興本 定P1137)
法華経にそら(虚)事あるならば、なに(何)事をか人信ずべき。かゝる御経に一華一香をも供養する人は、過去に十万億の仏を供養する人なり。又釈迦如来の末法に世のみだ(乱)れたらん時、王臣万民心を一にして一人の法華経の行者をあだ(怨)まん時、此の行者かんばち(旱魃)の少水に魚のす(栖)み、万人にかこ(囲)まれたる鹿のごとくならん時、一人ありてとぶら(訪)はん人は生身の教主釈尊を一劫が間、三業相応して供養しまいらせたらんよりなを(尚)功徳すぐ(勝)るべきよし(由)如来の金言分明なり。日は赫々たり、月は明々たり。法華経の文字はかくかくめいめいたり。めいめいかくかくたるあき(明)らかなる鏡にかを(顔)をうかべ、す(清)める水に月のうかべるがごとし。
*日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者
建治2年3月27日
「富木尼御前御書」(真蹟 定P1147)
(日本が蒙古による侵略の脅威に晒され、九州に向かう武士、残される妻子、民の嘆きが深いのは)
これひとへに、失もなくて日本国の一切衆生の父母となる法華経の行者日蓮をゆへもなく、或はの(罵)り、或は打ち、或はこうぢ(巷路)をわたし、ものにくる(狂)いしが、十羅刹のせめをかほ(被)りてなれる事なり。又々これより百千万億倍たへがたき事どもいで来たるべし。
*上行菩薩
建治3年6月
「下山御消息」(真蹟 定P1312、P3016、P3043)
像法一千年が内に入りぬれば月氏の仏法漸く漢土・日本に渡り来る。世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲り給ふ。これは又地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序のため也。所謂迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是れ也。今の時は世すでに上行菩薩の御出現の時剋に相当れり。
而るに余愚眼を以てこれを見るに、先相すでにあらはれたる歟。
「正法一千年の次、像法一千年に入ってから仏法はインドより中国、日本へと伝来した。釈尊は眼前にいた薬王菩薩等、迹化他方の大菩薩達に、法華経の前半分となる迹門の十四品を譲り与えた。これは地涌の大菩薩が末法の初めに出現して『法華経の本門・寿量品の肝心となる南無妙法蓮華経の五字』を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせる先序のためであった」として、「迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等」であった。そして末法今時は世を見れば「既に上行菩薩が出現する時刻に当たっている」とする。続いて上行菩薩出現の「先相」は「既に顕れている」とし、今現在、現実のこの国土世間において上行菩薩が出現していることを暗示するのである。
*三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師
建治3年6月25日
「頼基陳状(三位房龍象房問答記)(龍象問答抄)」(定P1346)
又仰せ下さるゝ状に云はく、極楽寺の長老は世尊の出世と仰ぎ奉ると。
此の条難かむ(勘)の次第に覚え候。其の故は、日蓮聖人は御経にとかれてましますが如くば、久成如来の御使ひ、上行菩薩の垂迹、法華本門の行者、五五百歳の大導師にて御坐候聖人を、頸をはねらるべき由の申し状を書きて、殺罪に申し行なはれ候ひしが、いかゞ候ひけむ、死罪を止めて佐渡の島まで遠流せられ候ひしは、良観上人の所行に候はずや。其の訴状は別紙にこれ有り。抑(そもそも)生草(いきぐさ)をだに伐(き)るべからずと六斎日夜の説法に給はれながら、法華の正法を弘むる僧を断罪に行なはるべき旨申し立てらるゝは、自語相違に候はずや如何。此の僧豈(あに)天魔の入れる僧に候はずや。
中略
頼基が今更何につけて疎縁に思ひまいらせ候べき。後生までも随従しまいらせて、頼基成仏し候はゞ君をもすくひまいらせ、君成仏しましまさば頼基もたすけられまいらせむとこそ存じ候へ。其れに付ひて諸僧の説法を聴聞仕りて、何れか成仏の法とうかゞひ候処に、日蓮聖人の御房は三界の主、一切衆生の父母、釈迦如来の御使ひ上行菩薩にて御坐候ひける事の法華経に説かれてましましけるを信じまいらせたるに候。
中略
良観房が讒訴(ざんそ)に依りて釈迦如来の御使ひ日蓮聖人を流罪し奉りしかば、聖人の申し給ひしが如く百日が内に合戦出来して、若干(そこばく)の武者滅亡せし中に、名越の公達(きんだち)横死(おうし)にあはせ給ひぬ。是偏に良観房が失ひ奉りたるに候はずや。
*法華経の行者
建治4年2月13日
「松野殿御返事」(真蹟 定P1441)
然るに予は凡夫にて候へども、かゝるべき事を仏兼ねて説きを(置)かせ給ひて候を、国主に申しきかせ進(まい)らせ候ひぬ。其れにつけて御用(おんもち)ひは無くして弥(いよいよ)怨をなせしかば力及ばず、此の国既に謗法と成りぬ。法華経の敵(かたき)に成り候へば三世十方の仏神の敵と成れり。御心にも推(すい)せさせ給ひ候へ。日蓮何なる大科有りとも法華経の行者なるべし。
*聖人、法華経の行者
弘安元年6月25日
「日女御前御返事(品々供養事)」(真蹟 定P1508、P3045)
今日本国の者去年今年の疫病と、去ぬる正嘉の疫病とは人王始まりて九十余代に並びなき疫病なり。聖人の国にあるをあだむゆへと見えたり。師子を吼(ほ)ゆる犬は膓(はらわた)切れ、日月をのむ修羅は頭の破れ候なるはこれなり。
日本国の一切衆生すでに三分が二はや(病)みぬ。又半分は死しぬ。今一分は身はや(病)まざれども心はや(病)みぬ。又頭も顕(けん)にも冥(みょう)にも破(われ)ぬらん。
罰に四あり。総罰・別罰・冥罰・顕罰なり。聖人をあだめば総罰一国にわたる。又四天下、又六欲・四禅にわたる。賢人をあだめば但敵人等なり。今日本国の疫病は総罰なり。定んで聖人の国にあるをあだむか。山は玉をいだけば草木か(枯)れず。国に聖人あれば其の国やぶれず。山の草木のか(枯)れぬは玉のある故とも愚者はしらず。国のやぶるゝは聖人をあだむ故とも愚人は弁へざるか。
中略
日蓮つ(詰)めて云く、代に大禍(だいか)なくば古(いにしえ)にすぎたる疫病・飢饉・大兵乱はいかに。召(めし)も決せずして法華経の行者を二度まで大科に行ひしはいかに、不便(ふびん)不便。而るに女人の御身として法華経の御命をつがせ給ふは、釈迦・多宝・十方の諸仏の御父母の御命をつがせ給ふなり。此の功徳をもてる人一閻浮提の内にあるべしや。
*法華経の行者
弘安元年7月28日
「千日尼御前御返事」(真蹟 定P1538)
此の経文は一切経に勝れたり。地走る者の王たり、師子王のごとし。空飛ぶ者の王たり、鷲のごとし。南無阿弥陀仏経等はきじ(雉)のごとし、兎のごとし。鷲につかまれては涙をながし、師子にせめられては腹わたをたつ。念仏者・律僧・禅僧・真言師等又かくのごとし。法華経の行者に値(あ)ひぬれば、いろを失ひ魂をけすなり。
*上行菩薩
弘安元年9月
「本尊問答抄」(日興本 定P1573)
此の御本尊は世尊説きおかせ給ひてのち、二千二百三十余年が間、一閻浮提の内にいまだひろめたる人候はず。漢土の天台・日本の伝教はほゞ(粗)し(知)ろしめして、いさゝかもひろ(弘)めさせ給はず。当時こそひろ(弘)まらせ給ふべき時にあたりて候へ。経には上行・無辺行等こそいでてひろ(弘)めさせ給ふべしと見えて候へども、いまだ見えさせ給はず。日蓮は其の人には候はねどもほゞ心へて候へば、地涌の菩薩のいでさせ給ふまでの口ずさみに、あらあら申して況滅度後のほこさき(矛先)に当たり候なり。願はくは此の功徳を以て父母と師匠と一切衆生に回向し奉らんと祈請仕り候。其の旨をし(知)らせまい(進)らせむがために御本尊を書きをくりまいらせ候に、他事をすてゝ此の御本尊の御前にして一向に後世をもいの(祈)らせ給ひ候へ。又これへ申さんと存じ候。いかに御房たちはからい申させ給へ
*法華経の行者
弘安3年5月29日
「新田殿御書」(真蹟 定P1752)
使ひの御志限り無き者か。経は法華経、顕密第一の大法なり。仏は釈迦仏、諸仏第一の上仏なり。行者は法華経の行者に相似(あいに)たり。三事既に相応せり。檀那の一願(いちがん)必ず成就せんか。
*法華経の行者
弘安5年2月28日
「法華証明抄(死活抄)」 (真蹟 定P1910)
冒頭「法華経の行者日蓮花押」
2023.12.16