日蓮立教初期の「法華真言並列」について
日蓮は建長5年の立教からしばらくは「法華真言未分」であった、というのが大方の論者のいわれるところですが、私としては「日蓮が立教当初から法華経最第一としたのは鮮明であるも、初期の文献には法華経と真言を並列させている。だが、法華経と真言の区別はついていたのだから、未分というよりも法華真言並列というべきではないか」と考えています。
ここでは、その「法華真言並列」がうかがわれる文書として、 「守護国家論」を確認してみましょう。
1.守護国家論にみえる法華真言並列
系年が1259年・正嘉3年・正元元年とされる「守護国家論」(真蹟曽存 定P97)では、大日経と法華経は同じ了義経の範疇として以下のように記しています。
問うて云はく、不了義経を捨てゝ了義経に就くとは、大円覚修多羅(だいえんがくしゅたら)了義経・大仏頂如来密因修証(だいぶっちょうにょらいみついんしゅしょう)了義経、是くの如き諸大乗経は皆了義経なり。依用(えゆう)と為すべきや。
答へて曰く、了義・不了義は所対に随って不同なり。二乗・菩薩等の所説の不了義経に対すれば一代の仏説は皆了義なり。仏説に就いて亦小乗経は不了義、大乗経は了義なり。大乗に就いて又四十余年の諸経は不了義経、法華・涅槃・大日経等は了義経なり。而るに円覚・大仏頂等の諸経は小乗及び歴劫修行の不了義経に対すれば了義経なり。法華経の如き了義には非ざるなり。
この頃の日蓮は「法華・涅槃・大日経等は了義経なり」との考えであり、「法華・真言並列」、即ち法華経と真言を並べているのであり、密教に対する本格的な批判は見当たりません。
法華・真言並列の記述は当書に散見されます。
① 法華真言の直道(定P89)
中昔(なかむかし)邪智の上人有りて末代の愚人の為に一切の宗義を破して選択集一巻を造る。名を鸞(らん)・綽(しゃく)・導の三師に仮りて一代を二門に分かち、実経を録して権経に入れ、法華真言の直道を閉ぢて浄土三部の隘路を開く。
② 法華・真言の結縁を留む(定P104)
日本国の源信僧都は亦叡山第十八代の座主慈慧大師の御弟子なり。多くの書を造れども皆法華を弘めんが為なり。而るに往生要集を造る意は(中略)
当に知るべし、往生要集の意は爾前最上の念仏を以て法華最下の功徳に対して、人をして法華経に入らしめんが為に造る所の書なり。故に往生要集の後に一乗要決を造りて自身の内証を述ぶる時、法華経を以て本意と為す。而るに源空並びに所化の衆此の義を知らざるが故に、法華・真言を以て三師並びに源信の所破の難聖雑並びに往生要集の序の顕密の中に入れて、三師並びに源信を法華・真言の謗法の人と作す。其の上日本国の一切の道俗を化し法華・真言に於て時機不相応の旨を習はしめ、在家出家の諸人に於て法華・真言の結縁を留む。豈仏の記し給ふ所の「悪世中比丘邪智心諂曲」の人に非ずや。亦、「則断一切世間仏種」の失を免るべきや。其の上山門・寺門・東寺・天台並びに日本国中法華・真言等を習ふ諸人を群賊・悪衆・悪見の人等に譬ふる源空が重罪、何れの劫にか其の苦果を経尽すべきや。
この文での日蓮の理解によると、「(親鸞が『七高祖』の内『第六祖』と定めた)天台の高僧・源信(恵心僧都 942年・天慶5年~1017年・寛仁元年)は念仏往生を説いて『往生要集』一部三巻を著したが、それは『法華経に入らしめんがために造るところの書』であり、いわば『法華一乗への導入の書』であった。彼の立場は、後に著した『一乗要決』での法華一乗にあったのであり、法華経こそが本意であった」としています。
続いて「ところが、法然房源空と弟子達はそれらを知ることもなく、『日本国の一切の道俗』に専修念仏を教え『法華・真言』は『時機不相応』として、『在家出家の諸人』への『法華・真言の結縁を留』めているのである。これは仏が説いた『悪世中比丘邪智心諂曲』の人であり『則断一切世間仏種の失』に当たるのである」とします。
文中、比叡山・園城寺・東寺等において、法華・真言等を習ふ大衆を「群賊・悪衆・悪見の人」とする源空を批判していますが、この頃の日蓮には、やはり、法然浄土教に対して天台復興・大乗仏教再興論者としての意識があったと考えられるのです。
尚、後文に源信(恵心僧都)の「往生要集」「一乗要決」のことが記されています。
源信僧都は永観二年(984年)甲申(きのえさる)の冬十一月往生要集を造り寛弘丙午(ひのえうま=1006年・寛弘3年)の冬十月の比、一乗要決を作る。其の中間二十余年。権を先にし実を後にす。(定P110)
③ 選択集の意は人をして法華・真言を捨てしめん(定P106)
釈迦・多宝・十方の諸仏・天親・天台・妙楽の意の如くんば源空は謗法の者なり。所詮選択集の意は人をして法華・真言を捨てしめんと定め書き了んぬ。謗法の義疑ひ無き者なり。
④ (源空の邪義により)国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作す(定P106)
而るを源空より已来、竜樹並びに三師の難行等の語を借りて法華・真言等を以て難・雑等の内に入れぬ。所化の弟子、師の失を知らず、此の邪義を以て正義なりと存じ此の国に流布せしむるが故に、国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作す。其の上世間を貪る天台・真言の学者、世情に随はんが為に法華・真言等に於て時機不相応の悪言を吐いて選択集の邪義を扶(たす)け、一旦の欲心に依って釈迦・多宝並びに十方の諸仏の御評定の令法久住於閻浮提広宣流布の誠言(じょうごん)を壊(やぶ)り、一切衆生に於て一切三世十方の諸仏の舌を切る罪を得せしむ。
⑤ 法華・真言を蔑にするところから天災地変が起きる(定P117)
是くの如き悪書(源空の選択集のこと)国中に充満するが故に、法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽(ねが)はず、偶(たまたま)行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず、一向念仏者、法華等の結縁を作すをば往生の障りと成ると云ふ、故に捨離の意を生ず。此の故に諸天妙法を聞くことを得ず。法味を嘗(な)めざれば威光勢力有ること無く、四天王並びに眷属此の国を捨て、日本国守護の善神も捨離し已(お)はんぬ。故に正嘉元年に大地大いに震ひ、同二年に春の大雨に苗を失ひ、夏の大旱魃に草木を枯らし、秋の大風に果実を失ひ、飢渇(けかち)忽(たちま)ち起こりて万民を逃脱せしむること金光明経の文の如し。豈選択集の失に非ずや。仏語虚しからざる故に悪法の流布有りて既に国に三災起これり。而るに此の悪義を対治せずんば仏の所説の三悪を脱るべけんや。
当時の、多くの民を苦しめていた続発する自然災害について、日蓮は「源空の専修念仏、選択集の教えが充満し、衆生は日本国の法華・真言等を聴聞せず、尊重せずとなり、一国守護の諸天善神は法味に飢えて国を捨て去ってしまう。その為に、大地震が起き、春に大雨が降り、夏には大旱魃となり、秋に大風も吹いて飢饉により万民が死の淵に追いやられることとなる。故に源空の悪義を退治しなければならない」とするのです。
ここでも法華と真言を並列表記して捉えており、特に念仏を重んじて法華・真言両経を蔑にするところから天災地変が盛んになるとしているところに、この時の「法華・真言並列」の思想が如実に表れているといえるでしょう。
この後の「末代の凡夫の為の善知識を明か」(定P119)す箇所に於いて、それは人ではなく、「所謂法華・涅槃是なり」(定P123、以下も同頁)と即ち経典であるとしていますが、「人を以て善知識と為す」という「常の習ひ」に対して、「法を以て知識と為す」「経巻を以て善知識と為す」という法・経典を中心、善知識とする「依法不依人」が日蓮の修学研鑽、「法門申しはじめ」、弘法、その後の受難という一生を貫く精神的支え、多くの場面での思考の基軸となっているように見られるのです。
「一人として答へをする人なし」(善無畏三蔵抄)、「人はおしへず」(本尊問答抄)と頼るべき人が少なかった修学期、日蓮は経典をむさぼるように読破したのでしょう。その時に支えとなり、灯明となり、弘法への具体的行動を促したものは経典を通しての久遠仏(信仰観念世界に存在する久遠実成の釈尊)との対話でした。十数年に亘る、人知れぬ、日蓮と久遠仏(文では釈尊)との直接の対話がなされていたのではないでしょうか。「依法不依人」にこそ日蓮の原点があり、「法門申しはじめ」に至る思考の基軸となり、この言葉により命に及ぶ難すらも「値難は法華経の予言どおりのこと」となり、「法華経身読」の法悦にまで日蓮の内面世界は昇華されていったように思うのです。
日蓮にとっては「普賢菩薩勧発品第二十八」に記された「若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写すること有らん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり。仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり」との文により「法華経は釈迦牟尼仏」となるのであり、法華経読誦による久遠仏との対話が何回となく繰り返されたことでしょう。
故に「法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り」(定P123)、対して「此の経を信ずる者の前には滅後たりと雖も仏の在世なり」(同)と、「法華経信仰」により二千二百余年という時空間を越えての久遠仏(文では釈迦牟尼仏、仏)との邂逅が実現する、と教示したのではないでしょうか。
このように立教初期の日蓮の法華経信仰というものは、「法華経による久遠仏(文では釈迦牟尼仏、仏等)直参信仰」ともいえ、その骨格は「依法不依人」であるといえるでしょう。
2.「日蓮に法華真言未分(並列)はない」との指摘に対して
① 守護国家論の文末より
【 四十余年未顕真実 】
「守護国家論」の文末は以下のようになっています。
無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ。涅槃経に云はく「如来は虚妄の言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因って法利を得ると知れば、宜しきに随って方便して則ち為に之を説きたまふ」と。又云はく「了義経に依って不了義経に依らざれ」已上。是くの如きの文一に非ず。皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す。是皆人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為なり。而るに何の恃(たの)み有りて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや。今権教の情執を捨てゝ偏に実経を信ず。故に経に就いて信を立つと云ふなり。問うて云はく、善導和尚も人に就いて信を立て、行に就いて信を立つ。何の差別有らんや。答へて曰く、彼は阿弥陀経等の三部に依って之を立て、一代の経に於て了義経・不了義経を分かたずして之を立つ。故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ。
(定P135)
これを解釈して、
「四十余年の諸経」は、本来は「人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為」に説かれたものであり、それらは「未顕真実」の経典であり、そのような爾前権経に執着するのは「虚妄・方便・不了義経・魔説」に従うこととなってしまうのである。日蓮に「法華真言未分(並列)」などというものはなく、この時点でも真言を四十余年未顕真実の経典に含めて破折されているのである。
との指摘があります。
要は、
「四十余年未顕真実」「虚妄・方便・不了義経・魔説」とされる中に真言も含まれており、この時期に日蓮は真言を破折しているのだ。
との見方です。
さて、いかがでしょうか。
【 法華涅槃、法華真言 】
日蓮が文末で主張したことは「法華経最第一また涅槃経にも依るべし」ということであり、このような教説は文末のみならず、当書の随所に見受けられるものです。
「願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習を捨てゝ、法華涅槃の現文に依り、肇公(じょうこう)・慧心の日本記を恃(たの)みて法華修行の安心を企てよ」(定P129)
「法華涅槃を信ずる行者は余処を求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土なり」(定P129)
「智儼(ちごん)・嘉祥(かじょう)・慈恩・善導等を引いて徳を立て難ずと雖も法華涅槃に違する人師に於ては用ふべからず。依法不依人の金言を仰ぐが故なり」(定P134)
「四十余年の間は教主も権仏・始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず。今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之を証明したまふ。故に之を信ずべし」(定P135)
一方では「法華・涅槃・大日経等は了義経なり」として、法然房源空が「選択本願念仏集」を著し、専修念仏を勧奨したことによる罪を糾弾しながら、法華と真言を同列に記すのです。
「法華真言の直道を閉ぢて浄土三部の隘路を開く」(定P89)
「法華・真言の結縁を留む」(定P104)
「山門(比叡山)・寺門(園城寺)・東寺(東密)・天台並びに日本国中法華・真言等を習ふ諸人を群賊・悪衆・悪見の人等に譬ふる」(定P104)
「人をして法華・真言を捨てしめん」(定P106)
「国中の万民悉く法華・真言等に於て時機不相応の想ひを作(した)」(定P106)
「(人々は)法華・真言等国に在りと雖も聴聞せんことを楽(ねが)はず」となった。(定P117)
「偶(たまたま)行ずる人有りと雖も尊重を生ぜず」(定P117)
これらを見ると、文末の記述を以て「日蓮は真言を破折している」と結論してしまえば、文中での「法華真言並列表記」の解釈のしようがなくなってしまいます。ここでは、慎重に「法華真言の結縁」などと記した「当時の日蓮の思考」を読み解いていくことが必要になると思います。
そこで、論者提示の該文だけではなく、その前から読み進めてみましょう。
【 「四十余年未顕真実」引用は阿弥陀経の釈尊一代教説上の位置を示したもの 】
まず結論ですが、前から読むと、浄土教の依経たる浄土三部経「無量寿経・観無量寿経・阿弥陀経」の内、特に阿弥陀経を挙げて法華経と対比させ、結果、阿弥陀経を捨てて法華経に信を立てるべきことを説示する文脈となっています。故に「無量義経に四十余年の諸経を挙げて未顕真実と云ふ」「四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す」とされていても、それは阿弥陀経に向けられた指摘と理解できるのです。
この段落は「問うて云はく、釈迦如来の所説を他仏之を証するを実説と称せば何ぞ阿弥陀経を信ぜざるや。答へて云はく、阿弥陀経に於ては法華経の如き証明無きが故に之を信ぜず」との問答から始まります。
「四十余年の間は教主も権仏・始覚の仏なり。仏権なるが故に所説も亦権なり。故に四十余年の権仏の説は之を信ずべからず」と、四十余年の範疇にある阿弥陀経に依ってはいけないと教示。対して「今の法華涅槃は久遠実成の円仏の実説なり。十界互具の実言なり。亦多宝十方の諸仏来たりて之を証明したまふ。故に之を信ずべし」と法華経・涅槃経への信を勧奨。
続いて「阿弥陀経の説は無量義経の未顕真実の語に壊れ了んぬ。全く釈迦一仏の語にして諸仏の証明には非ざるなり」と諸仏の証明のない阿弥陀経は、無量義経の四十余年未顕真実との語で破折されてしまうと記述。
その次が経典に対する信仰を教示するものであり、「皆四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す」と阿弥陀経はこれらに分類されることを指摘して、「是皆人をして其の経を捨てゝ法華涅槃に入らしめんが為なり」と釈尊四十余年の教説には化導の次第があり、四十余年未顕真実の範疇にある阿弥陀経を捨てて法華経、涅槃経への信を説くのです。
「而るに何の恃み有りて妄語の経を留めて行儀を企て得道を期するや」ここまで明らかであるのに、何故に阿弥陀経により成仏得道を期するのか、と指摘。次に「経に就いて信を立つと云ふ」ということは「権教の情執を捨てゝ偏に実経を信ず」べきことであると示します。
最後に問いを設けて「善導和尚も人に就いて信を立て、行に就いて信を立つ。何の差別有らんや」と「信を立てる」ということならば、「中国浄土教の善導も人について信を立て、行について信を立てている、法華経と何の差別があるのか、違いなどない」と疑問を提示。それに対しては「彼は阿弥陀経等の三部に依って之を立て」善導は阿弥陀経等の浄土三部経によって信を立てているのであり、「一代の経に於て了義経・不了義経を分かたずして之を立つ」と釈迦一代の教説について「了義経・不了義経」の立て分けをしていないのである、と指摘。
そして「故に法華涅槃の義に対して之を難ずる時は其の義壊れ了んぬ」と、釈尊一代教説の第一たる実経、法華経・涅槃経に対して、浄土教の人が阿弥陀経などを依経として論難しても、かえって経典の位置付けが露見してしまうのである、と教示するのです。
このように論者指摘の箇所は「阿弥陀経対法華経・涅槃経」問答であり、阿弥陀経の釈尊一代教説上の位置を示すために「四十余年未顕真実」「四十余年の自説の諸経を虚妄・方便・不了義経・魔説と称す」としていることを認識すべきでしょう。
該文は真言を直接、指し示したものではなく、浄土教指弾の為の論の組み立てとなっているのであり、「四十余年」云々と記した日蓮の脳裏では「四十余年=浄土教」となっていたのです。故に冒頭よりの「法華真言並列」はそのまま生かされており、「守護国家論」執筆時の日蓮の思想は「法華真言並列」であったといえるでしょう。
【 「守護国家論」執筆の目的は法然浄土教批判 】
そもそも日蓮が「守護国家論」を著述した動機は、同書に記されているように相次ぐ天災地変にありました。
此の経文を見るに、世間の安穏を祈らんに而も国に三災起こらば悪法流布する故なりと知るべし。而るに当世は随分国土の安穏を祈ると雖も、去ぬる正嘉元年には大地大いに動じ、同二年に大雨・大風・苗実を失へり。定めて国を喪すの悪法・此の国に有るかと勘ふるなり。(定P116)
吾妻鏡に「戌尅、大地震。有音、神社佛閣一宇而無全。山岳頽崩、人屋顛倒、築地皆悉破損、所々地裂、水涌出。中下馬橋邊、地裂破、自其中、火炎燃出、色青」と記録されることとなった正嘉元年(1257)の大地震。翌正嘉2年(1258)8月の大風雨により諸国の田園が損亡し大飢饉となったこと。これら相次ぐ自然災害の根本原因として「国を喪すの悪法此の国に有る」と考え、それこそが法然浄土教であるとして根底から批判したのが「守護国家論」なのです。
日蓮はそのことを、序文で以下のように記しています。
予此の事を歎く間、一巻の書を造りて選択集の謗法の縁起を顕はし、名づけて守護国家論と号す。願はくは一切の道俗、一時の世事を止めて永劫の善苗を種ゑよ。今経論を以て邪正を直す、信謗は仏説に任せ敢へて自義を存すること無し。
「守護国家論」という「一巻の書を造」ったのは「選択集の謗法の縁起を顕は」す為なのであり、それは同時に、法然浄土教を捨てて帰すべき正法・法華経に依ってこそ衆生救済と国土の安穏が保たれることを明かすことでもありました。
問うて云はく、諸経滅尽の後特(ひと)り法華経留まるべき証文如何。答へて云はく、法華経の法師品に釈尊自ら流通せしめて云はく、「我が所説の経典無量千万億にして已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり」云云。文の意は一代五十年の已今当の三説に於て最第一の経なり。八万聖教の中に殊に未来に留めんと欲して説きたまひしなり。(定P102)
そして日本国は法華経流布の国であるとするのです。
問うて云はく、日本国は法華・涅槃有縁の地なりや否や。答へて云はく、法華経第八に云はく「如来の滅後に於て閻浮提の内に広く流布せしめ断絶せざらしむ」と。七の巻に云はく「広宣流布して閻浮提に於て断絶せしむること無けん」と。涅槃経第九に云はく「此の大乗経典大涅槃経も亦復是くの如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし」已上経文。三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の処と定む。南方の諸国の中に於ては日本国は殊に法華経の流布すべき処なり。
中略
願はくは日本国の今世の道俗選択集の久習を捨てゝ、法華涅槃の現文に依り、肇公(じょうこう)・慧心(えしん)の日本記を恃(たの)みて法華修行の安心を企てよ。(定P128)
このように本書執筆の目的は法然浄土教批判、法華経の受持勧奨であり、文末の「四十余年」が指し示すのは「国を喪すの悪法」即ち浄土教と理解できます。更にわざわざ真言を文の表に出して「法華真言の直道」「法華・真言の結縁」としたところに、日蓮の「法華真言並列」の思想が明瞭に出ているといえるでしょう。
以上、正元元年(1259)当時の日蓮の釈尊一代教説に対する認識は「法華経最第一、涅槃経に依る」べきではあるが、真言=密教は別物、別格だった、一目置いていたと言えます。
尚、「守護国家論」は正嘉3年・正元元年(1259)の系年とされていますが、翌文応元年(1260)の「立正安国論」では、日蓮は念仏に対して「天台法華宗復興」「大乗仏教再興」の立場を鮮明にしており、安国論前年の「守護国家論」において「法華真言並列」「法華真言併存」であったとしても、なんら不思議はないといえるでしょう。
② 本尊問答抄より
【 法華真言並列について・修学期の真言認識 】
続いては、「本尊問答抄を読めば、日蓮は修学時代から真言を破折せんとしていたのであり、法華真言未分(並列)ということはない」との指摘があります。
真言宗と申すは一向に大妄語にて候が、深く其の根源をかく(隠)して候へば浅機の人あらは(顕)しがたし。一向に誑惑せられて数年を経て候。先づ天竺に真言宗と申す宗なし。然るにありと云云。其の証拠を尋ぬべきなり。所詮大日経こゝにわたれり。法華経に引き向かへて其の勝劣を見るの処に、大日経は法華経より七重下劣の経なり。証拠は彼の経此の経に分明なり此に之を引かず。(定P1581)
ここでは、「真言宗というのは大妄語の宗であり、その邪義の根源を深く隠しているので機の浅い人は容易には顕し難く、数年間は完全に誑惑されていた」云々と、真言の邪義の根の深さを指摘しています。
この文の前文では「然るに日蓮は東海道十五箇国の内、第十二に相当たる安房国長狹郡東条郷片海の海人が子なり。生年十二、同じき郷の内清澄寺と申す山にまかりのぼりて、遠国なるうへ、寺とはなづけて候へども修学の人なし。然るに随分諸国を修行して学問し候ひしほどに我が身は不肖なり。人はおしへず、十宗の元起勝劣たやすくわきまへがたきところに、たまたま仏・菩薩に祈請して、一切の経論を勘へて十宗に合はせたるに」(定P1580)と自身の誕生、清澄登山、出家、修学を回想しており、続いて「倶舎宗は」「成実宗は」「律宗は」「法相宗は」「三論宗も」「華厳宗は」「浄土宗と申すも」と諸宗の誤れる所以を順に記しています。次に該文の「真言宗と申すは」と真言批判へと続くのです。
ただ、これらを以て「修学期から真言破折」云々というのはどうでしょうか。
もし、その指摘の通りならば、先に記したような正嘉3年・正元元年(1259)の「守護国家論」での法華真言並列の記述、正元2年(1260)2月の「災難対治抄」での大乗仏教衰微への嘆き、(同年に改元して)文応元年(1260)7月の「立正安国論」での法然浄土教に対する比叡山=大乗仏教復興の主張というものも書かれないことになるでしょう。
事実は、青年期には「天台宗・台密の僧である日蓮」でした。
日蓮は修学、「法門申しはじめ」、法華経の弘教、題目の弘法、受難を経ながら蒙古襲来前夜に至り密教批判へと舵を切っていくのであり、該文は弘安元年(1278)の書状中での記述であることを踏まえれば、青年時代の回想と後年、日蓮の内面で定着した「真言宗と申すは一向に大妄語」との批判的認識が重なり合い、かくなる表現になったと考えられるのではないでしょうか。
修学期から「法門申しはじめ」以降、暫くは日蓮の念頭に密教批判がなかったということは、文応元年(1260)に系年される中山法華経寺蔵の「立正安国論」(定P209・奥書には「文永六年太歳己已十二月八日写之」とある・定P443)は法然浄土教批判に重きが置かれていて本格的な東密(真言)批判はなく、建治・弘安の交(1278頃)に系年される「立正安国論・広本」(建治の広本)に東密批判が書き加えられていることからも裏付けられます。
「立正安国論・広本」の第五問答では、法然浄土教を批判する過程で「具に事の心を案ずるに、慈恩・弘法の三乗真実一乗方便・望後作戯論の邪義にも超過し、光宅・法蔵の涅槃正見法華邪見・寂場本教鷲峰末教の悪見にも勝出せり。大慢婆羅門の蘇生か、無垢論師の再誕か。毒蛇を恐怖し、悪賊を遠離せよ。破仏法の因縁・破国の因縁の金言これなり」(定P1466)と慈恩(中国唐代の僧・法相宗を起こす)の「三乗真実一乗方便論」と共に弘法に対しても望後作戯論と批判。更に光宅寺法雲(中国梁代の学僧)の「涅槃正見法華邪見論」や、法蔵(中国唐代の華厳宗第三祖)の「華厳本教法華未教論」に対しても批判を加えながら、続いて専修念仏の法然浄土教を糾弾しています。
第九問答の問い(旅客の了解)では「法水の浅深」の後に、「顕密の浅深」(定P1474)「真言・法華の勝劣を分別」(同)即ち法華経と真言の勝劣を究める旨が記され、「一乗の元意を開発」(同)法華経弘通の意が強調されています。この執筆年の異なる「立正安国論」と「立正安国論・広本」での記述の変化により、日蓮の東密に対する認識は次第に変化し批判的になっていくことがうかがえます。
振り返れば、「本尊問答抄」の以下の文のように、日蓮自身も修学期は「数十万の寺社」の中の一寺院の僧だったのであり、自ら経験しているが故のリアルな表現ではないでしょうか。
然れば日本国中に数十万の寺社あり。皆真言宗なり。たまたま法華宗を並ぶとも真言は主の如く法華は所従なり。若しは兼学の人も心中は一同に真言なり。座主・長吏・検校・別当、一向に真言たるうへ、上に好むところ下皆したがふ事なれば一人ももれず真言師なり。されば日本国、或は口には法華最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。或は身口意共に最第二・三なり。(定P1580)
このような「口には法華最第一とはよめども・・・」の修行者が多い中にあって、日蓮は「立正安国論」の進呈以降、鎌倉の草庵を襲撃され続いては伊豆へ配流、そして文永元年(1264)11月には生地の安房の国、東条松原で地頭・東条景信一行に襲撃される難、即ち法華経弘通故の難を蒙ることによって、
「いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。第四の巻に云はく『而も此の経は如来の現在すら猶怨嫉多し況んや滅度の後をや』と。第五の巻に云はく『一切世間怨多くして信じ難し』等云云。日本国に法華経よみ学する人これ多し。人のめをねらひ、ぬすみ等にて打ちはらるゝ人は多けれども、法華経の故にあやまたるゝ人は一人もなし。されば日本国の持経者はいまだ此の経文にはあわせ給はず。唯日蓮一人こそよみはべれ。『我身命を愛せず但無上道を惜しむ』是なり。されば日蓮は日本第一の法華経の行者なり。」(定P327 南条兵衛七郎殿御書 真蹟断片)
と「持経者」から「行者」としての自覚を持つに至るのです。
3. 「災難興起由来」「災難対治抄」
1259年・正元元年の「守護国家論」の翌年、1260年・正元2年2月の「災難興起由来」(真蹟)は国土の災難発生の原因を論じて退治謗法、帰依法華経を説く論旨から「立正安国論」の草案ともされていますが、そこにおいても法華真言を並列表記しています。
日蓮は文中「疑って云はく、若し爾らば何ぞ選択集を信ずる謗法の者の中に此の難に値はざる者之有りや」(定P160)と、法然浄土教信奉者でも国土の天災地変に遭遇することなく無事でいるのはいかなることか、と問いを設けます。この設問に対しては、「答へて曰く、業力の不定なり。現世に謗法を作し今世に報ひ有る者あり」(同)と業力の不定というものがあり、現世の謗法により今世で報いを受ける者もいるとして法華経、仁王経、涅槃経の文を挙げると共に、生滅を繰り返す過程で順次、業の報いを受けていくと説きます。
次に「疑って云はく、若し爾らば法華真言等の諸大乗経を信ずる者何ぞ此の難に値へるや」(同)として、法華経真言等の諸大乗経典を信奉する者が何故に災難に遭遇するのか、との問いを設けます。ここで日蓮は「法華真言等の諸大乗経」として一括表現していることに注意を要します。即ち「守護国家論」に見られるように法然浄土教に対すれば、法華も真言も併存しているものなのです。
答えとしては金光明経、法華経、摩訶止観を引用して「法華真言等を行ずる者も未だ位深からず」で「先生の謗法の罪未だ尽きず」であったり、信仰において無知、本義に異するところがある故に「此災難を免れ難きか」としています。
続く同月の 「災難対治抄」 (真蹟)にも上記と同じく「疑って云はく、若し爾らば法華真言等の諸大乗経を信ずる者は何ぞ此の難に値へるや」(定P169)との問いがあり、答えも同様に展開されていきます。そして「災難対治抄」では法然浄土教の専修念仏活発化の結果としての比叡山衰微、善神捨国を嘆き、天台の僧として比叡山復興を主張しています。
このように「守護国家論」「災難興起由来」「災難対治抄」は一連の展開となっており、これらの書に見られる諸経典を引用しながらの「天災地変の根本原因たる法然浄土教排斥、謗法退治」「正法帰依に依る国土安穏」の主張は、「比叡山復興」「大乗仏教再興」の思想を鮮明にした7月の「立正安国論」へと結実していきます。
4. 「唱法華題目抄」
「災難興起由来」「災難対治抄」と同年の「唱法華題目抄」(文応元年[1260]5月28日)では、「仏の遺言に依法不依人と説かせ給ひて候へば、経の如くに説かざるをば、何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か」(定P196)と「依法不依人」を強調しながら、優れたる教えである「了義経」に依るべきであり、劣る教えである「不了義経」に依ってはいけないことを「依了義経・不依不了義経と説かれて候へば愚癡の身にして一代聖教の前後浅深を弁へざらん程は了義経に付かせ給ひ候へ」(同)と説示しています。
次が一代の経典を「了義経」と「不了義経」に立て分ける展開となり、
「阿含小乗経は不了義経、華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経」
「四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経、法華経は了義経」
「涅槃経を法華経に対すれば、法華経は了義経、涅槃経は不了義経」
「大日経を法華経に対すれば、大日経は不了義経、法華経は了義経なり」
「故に四十余年の諸経並びに涅槃経を打ち捨てさせ給ひて、法華経を師匠と御憑み候へ」
と教示します。
文中「大日経は不了義経、法華経は了義経」としているのだから、日蓮はこの時点で「法華真言並列(未分)」ではなくなったのか?と考えるところですが、ここに書かれた各経典に対する「了義経」「不了義経」との適用は「法華経最第一」に導くための導入路、案内的なものであり、教理的解釈として絶対的・固定的になされているものではないといえるでしょう。
「唱法華題目抄」前後の御書を見ると「法華真言並列」は変わらずで、該文のような「了義経・不了義経」の適用もされていません。ここでは「了義経・不了義経」を各経典に順次当てはめ次第することによって、釈尊一代説教の経典内での「法華経」の位置を示したもの、「一応の経典区分」を行ったものといえるでしょう。
注意すべきは、「唱法華題目抄」の該文では諸経劣法華勝を示したものの、この頃の日蓮にとっては劣とした他経典も捨てるべきものではなく、法然浄土教隆盛に対抗する大乗仏教側に位置しており、意識としては顕密仏教側の復興論者としての日蓮だったということです。
当書の中では「阿含小乗経」上座部に対すれば、「華厳・方等・般若・浄土の観経等」の四十余年の経典は「了義経」となっても、今度は法華経に相対させれば「四十余年の諸経は不了義経」となってしまうのですが、約一箇月後の「立正安国論」(定P217)では、「仏堂零落して瓦松の煙老い、僧房荒廃して庭草の露深し。然りと雖も各護惜の心を捨てゝ、並びに建立の思ひを廃す。是を以て住持の聖僧行きて帰らず、守護の善神去りて来たること無し。是偏に法然の選択に依るなり」と、法然浄土教が流布したことによる比叡山の荒廃、伝統仏教(四十余年の諸経)の衰微を嘆いています。
専修念仏の声が世を覆い、続いて禅宗も隆盛し、法華真言=台密の比叡山への帰依の心が薄くなり、国中の法華真言の学者が棄て置かれて守護の善神が去ってしまったということは、文永5年(1268)4月5日の「安国論御勘由来」(定P423 真蹟)にも「然るに御鳥羽院の御宇、建仁年中に法然・大日とて二人の増上慢の者有り。悪鬼其の身に入りて国中の上下を狂惑し、代挙って念仏者と成り人毎に禅宗に趣く。存外に山門の御帰依浅薄となり、国中の法華真言の学者棄て置かせられ了んぬ。故に叡山守護の天照太神・正八幡宮・山王七社・国中守護の諸大善神、法味を喰はずして威光を失ひ、国土を捨て去り了んぬ。悪鬼便りを得て災難を致し、結句他国より此の国を破るべき先相と勘ふる所なり」と記されています。
これは文永5年(1268)当時の日蓮の思考では、比叡山への帰依の心が薄くなってはいけない。「法華真言の学者」は「棄て置か」れてはいけない、としていたことを意味するものでしょう。
このように「立正安国論」進呈時の日蓮は顕密仏教側を立ち位置とする「比叡山復興、大乗仏教再興論者」なのであり(それは多分に「諸宗兼学」の比叡山で修学したことにもよると思いますが)、安国論に先立つ「唱法華題目抄」での「四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経」との記述は、「法華経最第一」を鮮明にする為の一過程の表現だったといえるのではないでしょうか。そのことは後文に「法華経を依拠とすべきこと」を繰り返し説くことからもうかがえることでしょう。
法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ。諸経をば関白・大臣・公卿・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし。我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人、父母は他人よりも子をあはれむ者、日月は衆星より暗を照らす者、法華経は機に叶はずんば況んや余経は助け難しとおぼしめせ。又釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏菩薩は我等が慈悲の父母、此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとゞまれりとおぼしめせ。諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕はさずとおぼしめせ。法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り。而るを当世の学者、法華経をば一切経に勝れたりと讃めて、而も末代の機に叶はずと申すを皆信ずる事豈謗法の人に侍らずや。只一口におぼしめし切らせ給ひ候へ。(定P197)
次に「涅槃経」に目を移してみましょう。
当書で「打ち捨てさせ給ひ」とされた「涅槃経」については、前年の「守護国家論」では以下のように書かれています。
「此の如き等の文は、法華涅槃は無量百歳にも絶ゆ可からざる経なり」(定P103)
「此の文の如くんば法華涅槃を信ぜずして一闡提と作るは十方の土の如く、法華涅槃を信ずるは爪上の土の如し」(定P120)
「末代に於て真実の善知識有り、所謂法華涅槃是なり」(定P123)
「涅槃経に云く『法に依つて人に依らざれ智に依つて識に依らざれ』[已上]依法と云うは法華涅槃の常住の法なり。不依人とは法華涅槃に依らざる人なり。設い仏菩薩為りと雖も、法華涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況や法華涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てをや」(定P124)
「願わくば日本国の道俗選択集の久習を捨てて法華涅槃の現文に依り、肇公慧心の日本記を恃みて法華修行の安心を企てよ」(定P129)
「法華涅槃に違する人師に於ては用うべからず。依法不依人の金言を抑ぐが故なり」(定P134)
「涅槃経」と「法華経」は受持すべき法として、セットで「法華涅槃」と記されています。
ところが翌年の「唱法華題目抄」の文中では「涅槃経=不了義経、法華経=了義経」「涅槃経を打ち捨てさせ給ひて」となっているのですが、他の御書を確認すれば、法華経と涅槃経を共に強調する日蓮の主張はこの後も続いていくのです。
7月の「立正安国論」では、「法華・涅槃の経教は一代五時の肝心なり、其の禁実に重し誰か帰仰せざらんや」(定P223)とあります。
文永7年(1270)11月28日、大田金吾に報じた「金吾殿御返事(大師講書)」では、「いたづらに曠野にすてん身を、同じくは一乗法華のかたになげて、雪山童子・薬王菩薩の跡をお(追)ひ、仙予・有徳の名を後代に留めて、法華・涅槃経に説き入れられまいらせんと願ふところなり」(定P459 真蹟)と「法華経・涅槃経」を共に記しています。
弘安3年(1280)12月の「諌暁八幡抄」(定P1832 真蹟)では「阿含小乗経は乳味のごとし、方等大集経・阿弥陀経・深密経・楞伽経・大日経等は酪味のごとし、般若経等は生蘇味の如く、華厳経等は熟蘇味の如く、法華・涅槃経等は醍醐味の如し」と「法華涅槃経等」は「醍醐味」とされます。
「唱法華題目抄」では「涅槃経を打ち捨てさせ給ひて」と記しながら、実際は「法華涅槃の経教は一代五時の肝心なり」「醍醐味」なのです。
やはり該文は、「了義経・不了義経」を各経典に順次当てはめ次第させながら「法華経最第一」に導くための導入路、案内的なものだった、一応の経典区分であり絶対的なものではない、ということになるでしょう。
大日経・真言についても同じ「唱法華題目抄」の後文で記されており、法然浄土教興隆によって法華真言が衰微していく様を嘆いて「権経の人次第に国中に充満せば法華経随喜の心も留まり、国中に王なきが如く、人の神を失へるが如く、法華・真言の諸の山寺荒れて、諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てゝ去れば、悪鬼便りを得て乱れ入り、悪風吹いて五殻も成らしめず、疫病流行して人民をや亡ぼさんずらん」(定P199)と亡国に至る事態を憂いています。
文中「法華・真言の諸の山寺」が「荒れ」ることによって「諸天善神・竜神等一切の聖人国を捨てゝ去」り、代りに「悪鬼便りを得て乱れ入」るとしていることには注目でしょう。「法華・真言の諸の山寺」は「荒れ」てはいけないものだったのであり、「法華・真言の諸の山寺」を繁盛させることにより「諸天善神・竜神等一切の聖人」の一国守護の働きも活発化することになるのです。
これはまさに「天台宗・台密の僧」としての視点、思考といえるでしょう。
「諸行往生」「四宗兼学」の台密信仰世界は法華経、浄土三部経、大日経、金剛頂経などの様々な経典や律、禅、密教、浄土、法華などの教えのいずれかを学僧が信奉して「第一」としても、他の経典・教えは否定すべきものではなく、共に在るもの即ち「共存」するもの、「諸経包摂世界」ともいうべき信仰でした。
日蓮は竜口法難を経て佐渡期までは天台宗・台密に期待する記述をしており、真蹟御書での東密批判は文永6年(1269)の「法門可被申様之事」より、明確なる台密批判開始は文永11年(1274)11月20日付け「曾谷入道殿御書」であり、身延入山以降なのです。
これは、日蓮は自らを天台信仰圏に在る僧としていたことが認識されるもので、日蓮は「法華経最第一」を標榜しながらも、文永中期頃までは「法華真言並列」の台密信仰圏に近いところに位置していたことを示している、といえるでしょう。
繰り返しますが、「唱法華題目抄」文中で阿含小乗経、華厳・方等・般若・浄土の観経等=四十余年の諸経、涅槃経、大日経などは法華経に対すれば不了義経となり、諸経典を打ち捨てて、「法華経を師匠と御憑み候へ」としても、その日蓮の思考は「法華真言並列」である故、真言を投げ打つものではありませんでした。
「法門申しはじめ」より守備一環変わらぬ「日蓮にとっての法華経最第一」を鮮明にするために、「法華経以外の他経典は不了義経」としたとはいえ、日蓮の身も思考も台密信仰世界と共存していたのではないでしょうか。
そのことを誰よりも理解していたのが一弟子の日興ではないかと思われ、「富士一跡門徒存知の事」では「唱法華題目抄」について、
一、唱題目抄一巻。この書は、最初の御書なり。文応年中、常途の天台宗の義分をもって、しばらく爾前・法華の相違を註し給う。よって、文言・義理共にしかなり。
と、「最初の」=立教からしばらくの師匠(日蓮)は、「常途の天台宗の義分で教示していた」と解説しているのです。
以上、当書全文を読み前後の御書を踏まえれば、日蓮の「法華真言並列」は変わらないものだったといえるでしょう。
5 同時期の「断簡57」と「一代五時図」
正嘉3年・正元元年(1259)の「守護国家論」と、正元2年・文応元年(1260)の「唱法華題目抄」の頃、即ち「正元の頃」(1259年、1260年頃、昭和定本による。但し平成校定は「文永初期」とする)に系年される「断簡57」(真蹟)には以下のように書かれています。
後八年の大法法華・涅槃・大日経等をば通じて入れて上品上生の往生の業とするだにも不思議なるに、あまさえ称名念仏に対して法華経等の読誦は無間等の往生也なんど申して日本国中の上下万人を五十余年が程、謗法の者となして無間大城に堕しぬる罪はいくら程とかをぼす。(定P2499・校P2678)
ここでは、浄土教徒が釈尊一代教説中の第五「法華涅槃部」の経典である「法華経・涅槃経・大日経」を指して「上品上生の往生の業である」とするのは不思議なことであるのに、更に「称名念仏に対すれば法華経等の読誦では往生できない」と説教して、日本国中の上下万人を五十余年に亘り謗法者にしてしまい、結果それらの人々を無間大城へと堕した大罪はいか程であろうか、と念仏を破折しています。
文中、「後八年の大法法華・涅槃・大日経等」と記すところから、正元から文永初期の日蓮は、大日経・真言経典を釈尊一代教説・五時の最後、「法華涅槃部の経典」と位置付けていたことがうかがえます。
これは台密の義に則した経典分類であり、日蓮はそれを継承していました。
しかし一方では、昭和定本によれば系年、正元2年・文応元年(1260年、ただし平成校定は文永8年・1271年とする)の「一代五時図」(真蹟)には、「方等―金剛頂経・大日経・蘇悉地経―真言宗」(定P2282)とあって真言経典は方等部に置かれています。
となると、日蓮は同じ頃に真言経典の位置付けを、第三「方等部」、第五「法華涅槃部」としていることになり大変な矛盾となります。
ここで「一代五時図」の系年を「平成校定」の「文永8年(1271)」や、他の見解のように「筆跡からすれば文応ではなく文永年間」と位置付ければ、「日蓮は『法門申しはじめ』より文永初期までは大日経・真言経典を第五の法華涅槃部に位置付けていたのだが、文永中期、即ち5年(1268)の蒙古牒状到来の頃に至って再定義して真言経典を方等部とした」との説が成立することになります。であれば矛盾は解消され、話としては整理がついてすっきりしてしまうのですが、ここではあえてそれはせずに、「一代五時図」の系年は正元2年・文応元年(1260)のままで考えてみましょう。
私としては、むしろ、このような、一見、矛盾しているような表記に「日蓮的な両義併存」というものが感じられるのではないかと思うのです。
日蓮以前、台密では「釈尊一代教説中の大日経の位置付け」について、円仁、円珍に至って明確化されています。第5代天台座主・智証大師円珍は仁寿3年(853年)の入唐前(852年の秋)に「大毘蘆遮那経指帰(大日経指帰)」を著して、唐の天台山の広修(こうしゅ、771年~843年)・維鷁(いけん)から「大日経は方等部である」との教示を受けているとするも、その説を批判。円珍は大日経は一大円教であり法華経も及ばずとし、第五「法華涅槃時」を初善法華・中善涅槃・後善大日と三つに分類して、法華経・大日経共に最勝の教えなのだが諸経は大日経に帰伏する旨を教示しています。
国会図書館・デジタルコレクション 「智証大師全集・中巻」(1918~1919年 園城寺事務所)
以降、五大院安然により台密が大成される頃には「大日経は法華・涅槃部に属するもの」との教理解釈が定着。当然、日蓮はこれらの経緯を知っていたことでしょう。
系年・建治2年(1276)の「一代五時鶏図」(真蹟)に「方等部―大日経七巻・金剛頂経三巻・蘇悉地経三巻―真言宗」(定P2335)と記し、続いて真言三部経の位置付けについて「或は云く方等部。或は云く華厳部。或は云く般若部。或は云く法華部。或は云く涅槃経部。或は一代諸経の外」(同)と諸説あることを記述しています。
日蓮も比叡山で学習した僧として、伝統的な「後八年の大法法華・涅槃・大日経等」との解釈を継承して教示(断簡57)します。そして一方では弟子等への講義で、中国天台の人師の教示「方等―金剛頂経・大日経・蘇悉地経―真言宗」を「一代五時図」(定P2282)に記したのではないでしょうか。
【 諸宗融和の台密信仰 】
「諸宗融和」の台密信仰圏がどのようなものであったか、建治2年(1276年、または文永12年・1275年)1月11日の「清澄寺大衆中」(真蹟曽存)には「真言宗が影の身に随ふがごとく、山々寺々ごとに法華宗に真言宗をあひそひて、如法の法華経に十八道をそへ、懺法に阿弥陀経を加へ、天台宗の学者の潅頂をして真言宗を正とし法華経を傍とせし程に」(定P1133)と記しています。
※如法=如法経。特定の方式により主に法華経を写経すること。
※十八道=密教の行法で、十八種の印契を用い修する。
※懺法=法華懺法のことで法華三昧ともいう。法華経読誦により自己の罪障を懺悔する、真理に悟入する修法。平安時代末期の比叡山では法華三昧堂で法華懺法を行い、常行三昧堂では念仏が行われ、ともに盛んであった。
※潅頂=密教では、師匠が弟子の頭に水を灌ぎかけることにより仏位を継承させたことを示す儀式。様々な分類、作法がある。
「開目抄」(真蹟曽存)には「法華経と大日経はその体同一」「西方浄土を志して法華と念仏を受持」する等、諸経随伴が一般的だった当時の法華持経者の見解を記しています。
「当世も法華経をば皆信じたるやうなれども、法華経にてはなきなり。其の故は法華経と大日経と、法華経と華厳経と、法華経と阿弥陀経と一なるやうをとく人をば悦んで帰依し、別々なるなんど申す人をば用ひず。たとい用ゆれども本意なき事とをもへり。」(定P549)
また、「南条兵衛七郎殿御書」(文永元年[1264]12月13日 真蹟断片)では、日本国に天台・真言が広まって比丘・比丘尼・優婆塞(在家の男)・優婆夷(在家の女)の四衆は皆、法華経の機と定まっていた。善人も悪人も、有智・無智の者も皆法華経の五十展転の功徳を備えていたのに、この五十余年に法然の教えと浄土教の流布に依って一切衆生が惑わされ法華経を捨ててしまった、と記しています。
同書の文永元年[1264]12月の時点でも、日蓮は過去を振り返って法華真言の隆盛は法華経の機であったとして肯定的に記述し、その当時の功徳を説いているのです。
而るに日本国は天台・真言の二宗のひろまりて今に四百余歳、比丘・比丘尼・うばそく・うばひの四衆皆法華経の機と定まりぬ。善人悪人・有智無智、皆五十展転の功徳をそなふ。たとへば崑崙山に石なく、蓬莱山に毒のなきが如し。而るを此の五十余年に法然といふ大謗法の者いできたりて、一切衆生をすかして、珠に似たる石をのべて珠を投げさせ石をとらせたるなり。止観の五に云はく「瓦礫を貴んで明珠なりとす」と申すは是なり。一切衆生石をにぎりて珠とおもふ。念仏を申して法華経をすてたる是なり。此の事をば申せば還ってはらをたち、法華経の行者をのりて、ことに無間の業をますなり。(定P325)