日蓮滅後の門下の動向をめぐって 3

1483年・文明15年 (滅後202年 大石寺12世日鎮)

 

73日 南条日住「有師百二十一ヶ条(化儀抄)」を著す。

 

 

1484年・文明16年 (滅後203年 大石寺12世日鎮)

 

17日 左京日教は「穆作抄」(むかさしょう)を著しました。

八、三箇の秘法の事                               

本門の教主は御本尊にて御座すなり、是に能具所具あり当代の法主の所にて習ふ可きなり、名字初心の信行観の事と口伝すべきなり、当家の血脈の大事・一切の法門を是の土代と定め御書等を拝見し奉る可し、其の儀なくんば言行不相応なり  (富要2-257)

 

三十、血脈断不断の事

当家の宗旨とは血脈相承肝心なり~此の門家には、日蓮聖人より以来の附法・血脈一宗の法頭・疑ひなきなり、信の宗旨とは是れが肝要なり、

四十五、本尊書写の事  富士門跡には貫主一人より外は書き奉らず云云(-287) 

 

 

 

1487年・長享元年 (滅後206年 大石寺12世日鎮)

 

1116日 左京日教は「四信五品抄見聞」を著しました。

 

 

1488年・長享2年 (滅後207年 大石寺12世日鎮)

 

111日 左京日教「五段荒量」を著す。

 

611日 左京日教「類聚翰集私」を著す。

大石寺関係としては、初めての「二箇相承書」全文記述でしょうか。

私に云はく此の御仏法を聖人・白蓮に御付属の御判右に在り。

釈尊五十余年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり・弘安五年九月十三日、日蓮在御判、血脈次第日蓮日興、甲斐の国波木井郷・山中に於いて之を図す。

 

 

日興一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ事の戒法とは是れなり、中んづく我が門弟等此の状を守るべきなり、弘安五年十月十三日  日蓮在御判。(富要2-314)

 

同書 (-309 )

第四 諸宗先ず本尊を定むる事

日蓮聖人御入滅有るとき補処を定む、其の次ぎ其の次ぎに仏法相属して当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり、此の法主に値ひ奉るは聖人の生まれ代りて出世したまふ故に生身の聖人に値遇結縁して師弟相対の題目を同声に唱へ奉り信心異他なく尋便来帰咸使見之す、何ぞ末代の我等三十二相八十種好の仏に値ひ奉るべき、当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ

 

 

1489年・延徳元年 (滅後208年 大石寺12世日鎮)

 

114日   左京日教「六人立義破立抄私記」を著す。

ここでも「二箇相承書」の全文が記述されます。

 

 

1501年・文亀元年(滅後220年 大石寺12世日鎮)

 

71日  身延・日朝御義日仁談「本尊相承事」。 

 

同年  尊舜は「二帖抄見聞」を著す。

 

 

1514年・永正11年(滅後233年 大石寺12世日鎮)

 

71日 越後本成寺日現寂 56歳  

日現の著「五人所破抄斥」では、「二箇相承書」が全文引用されています。

 

日現申す、前の御相承(九月十三日)は身延相承、後は(十月十三日)池上相承と云云。御判形現形也。
されども一向御正筆に非ず偽書謀判也。又日興の手跡にもあらず、蔵人阿日代と云う人の筆に似たりと承り及也(日蓮宗宗学全書7182

 

 

1522年・大永2年(滅後241年 大石寺12世日鎮)

 

大石寺12世日鎮により小御影堂が建立されます。

富士年表・・・日鎮大石寺御影堂・総門等を建立し結構を整う(聖749

 

 

 

1536年・天文5年 (滅後255年 大石寺13世日院)

 

727日 天文法華の乱により京都・住本寺と上行院は焼失。

 

 

1539年・天文8年(滅後258年 大石寺13世日院)

 

6月 伯耆国米子城主・吉川治部少輔元長の元に日禅授与本尊が伝来。

「本門寺並直末寺院縁起」より

 

 

1544年・天文13年 (滅後263年・大石寺13世日院)

 

1225日「日興跡条々事」関連。(富要5-33

 

「日興上人大石寺御置き文」    祖師伝中に記述

1544年・天文131225日 小泉久遠寺の貫首・日義が妙本寺にある「譲り状」を写す

1559年・永禄2118日  日辰が日義書写本を写す。

1560年・永禄3717日  日辰は清書する

 

駿州富士山大石寺釈日目の伝        

日興上人大石寺御置き文に云く。

一閻浮提の内諸山寺を半分と為して日目座主為る可し、其の半分は自余の大衆に之を配る可し、日興遺跡は新田宮内卿阿闍梨日目最前上奏の人と為れば大石寺の別当と定む、寺と云ひ御本尊と云ひ墓所と云ひ。又云く仏は水、日蓮聖人は木、日興は水、日目は木 

右此の御血脈等は御正本房州妙本寺に之有り。

天文十三年甲辰極月廿五日謹で之を抄書し奉る、日義判。

開山上人日目を以て座主と為す可きの由の付属の長篇の内詮要此くの如し、

余永禄二年己未正月十八日小泉久遠寺に於て之れを写し奉る、

時に重須日出上人併に寺僧本行坊日輝、丹後阿、讃岐阿、京都要法寺沙門日玉等熟ら此の書写を見らるゝ者なり、

今永禄三庚申年七月十七日、洛陽綾小路堀川要法寺に於いて之れを書写す。 日辰在判

 

 

1545年・天文14年 (滅後264年・ 大石寺13世日院)

 

4月  保田・日我は「申状見聞」に「身延池上の両相承」云云の名目を出す。

 

(富要4-81112)

1550年・天文19年 (滅後269年・ 大石寺13世日院)

 

319日 日辰は京都・住本寺と上行院を合併して要法寺を建立します。

 

 

1556年・弘治2年 (滅後275年 大石寺13世日院)

 

77日 京都要法寺・日辰、日耀に二箇相承書を写させる。(西山本門寺蔵)

 

◆日辰が重須にて、霊宝を拝見したとの「祖師伝・釈の日辰の伝」での記録。(富要5-56)

 

(日辰は)同二年六月廿三日日誉と倶に京師を出で七月四日冨士重須に至り日耀に謁す、同七日巳午の二刻霊宝を拝見し奉る、所謂二箇の御相承、本門寺の額、紺紙金泥の法華経一部、本尊十七鋪、安国論釈日蓮勘、天台沙門日蓮勘の文字無し皆悉く蓮祖の御筆跡なり。

同年七月廿二日帰洛し訓蒙抄、止観見聞抄を作る。

永禄元戊午年八月廿三日我れ日玉日住と京師を発し甲州に至り弘通し、九月廿八日甲州府中を出で十月朔日に冨士重須に登り住す、五十二歳同二年己未正月八九両日、日代自筆の五人所破抄を以て点画字勢に至るまで本の如く之れを写す、同十二日戌刻、日住が為に笈の戸を開き霊宝を拝見せしむ、日出自ら笈中より出し二箇の御相承、本門寺の額併に興師の惣付属日妙別付属を拝見せしむ、時に日辰日玉優婆塞一人なり、同日亥の刻日興自筆の一代五時の図を以つて本の如く之れを写す、同年二月三日此の一代五時の図を持って蓮祖御筆の一代五時の図と校合せしむ其本今所持す、同日八通御遺状等之を写す、去る正月廿日未の刻日興惣別付属二通御筆勢の如く之れを写す、重須に於いて都合五座の説法を作す。

 

同三月八日冨士重須を出で九日甲州に至り、四月八日甲州府中成田宗純の亭を発し同十八日濃州正興寺に至る、廿一日より一七日説法す、五月四日西美濃大石に至りて弘通す、七日帰りて造仏問答抄読誦問答二冊を作る、同年己未十一月十日法華三部に於いて六十箇条の論議を作る、同三年庚申七月二日論議抄六冊を作る、同月の三日初めて蓮興代目尊印大等の伝を書き以つて童蒙に示さんと欲す、同十九日申刻略ほ之れを書写し畢ぬ。

 

1559年・永禄2年 (滅後278年 大石寺13世日院)

 

112

京都要法寺日辰、日住、日玉らは再度、北山本門寺にて「二箇相承書」「本門寺額」等を拝見。日興の「一代五時図」を書写。(富要 5-56 )

 

118

日辰一行は小泉久遠寺にて「日興跡条々事」の原形?らしき文書(1544年・天文13年に小泉久遠寺・日義が保田妙本寺蔵の文書を書写したもの)を書写しました。(富要 5-33 )

 

120

日辰は再び「二箇相承書」を書写しました。(富要 5-56 )

 

226

「日興跡条々事」がほぼ、現在の文体となりました。

(この日に日辰が自著「祖師伝」に記述したものです)

 

要法寺日辰の書「祖師伝」中の記述。

(日辰が北山本門寺を訪れた時に、少年貫主・大納言が大石寺の僧を招き、その僧の持参した「日興跡条々事」を日辰が書写したもの)

 

日興上人日目に大石寺を付属するの御書に云く。

 

日興跡条々の事。

一 本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内に於て山寺等半分は日目嫡子分として管領せしむ可し残る所の半分は自余の大衆等之を領掌す可し。

 

一 日興が身に宛て給はる所の弘安二年の大御本尊日目に之を相伝す、本門寺に懸け奉る可し。

 

一 大石の寺は御堂と云ひ墓所と云ひ日目之を管領す修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つ可きなり。

 

右日目十五の才日興に値ひ法華を信じて以来七十三才の老躰に至るまで敢て遺失の儀無く、十七才にして日蓮聖人の所に詣て甲州身延山、御在生七年の間常随給仕す、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異るに依て此くの如く書き置く所なり。

元徳四年三月  日興在判。 

 

右一紙御付属状の案文は大石寺の使僧大納言将来の間、重須本門寺の新造の坊に於て之れを書写せしめ畢ぬ。

時に永祿二己未二月廿六日申刻、

日辰在判

(富要 5-31 )

 

 

1561年・永禄4年 (滅後280年 大石寺13世日院)

 

32日付 保田妙本寺14世日我の「観心本尊抄抜書」(富要 4-170 )に大石寺板本尊の記述。

 

「久遠寺の板本尊・今・大石寺にあり、大聖御存日の時の造立也~」

 

これは本門戒壇の大御本尊が世に出た初見か。

であれば、この時には本門戒壇の大御本尊は日蓮直造と伝えられていたことがうかがわれます。

 

 

1573年・天正元年 (滅後292年 大石寺貫主13世日院→14世日主)

 

この年、大石寺14世に日主が登座しました。

 

日主の書状に「本門戒壇御本尊」との呼称表現が使われており、大石寺貫主の手によるものとしては初めての文書でしょうか。

 

日興跡条々事示書

富士四ヶ寺之中に三ヶ寺者()、遺状を以て相承成され候。是は惣附属分也。大石寺者御本尊を以て遺状成され候、是則別附属唯授の一人の意也。大聖より本門戒壇御本尊、興師より正応の御本尊は法躰御附属、末法日蓮・日興・日目血脈付嘱の全体色も替らず其の儘なり  (歴全1-459)

 

出典は「主師雑録」であり、大石寺絵図など一部のみ公開されています。

 

1二箇相承

2本門寺額

3大石寺図絵

4戒壇本尊並譲座本尊授与書・主師示書

5日興跡条々事・主師示書

6本因百六箇之奥之御示書

7宗祖御遷化記録

8宗祖本弟子六人・日興弟子本六新六・日目弟子・重須新六

9仏天深秘之問答抄(日要作)・主師示書

 

上記の順番で類集、書写されています。

全体は冊子本、三十二丁の形態で表題等はありません。

「興風」17号、「武田氏の駿河侵攻と富士門徒」菅野憲道氏の論文では、末尾の花押形により、1582年・天正10年頃の書であると推定しています。

< 根拠 >

1580年・天正8年の「霊宝虫払日記」と「雑録」の花押形は明らかに異なっている。

1581年・天正9年前後に日主は花押形を変えている。

1582年・天正10年以降の、日主の本尊に見られる花押形と「雑録」の花押は同形。

 

 

 

1573年~1591年・天正年間以降に、日禅授与本尊が北山本門寺へ伝来する。

 

1579年・天正7年 (滅後298年 大石寺14世日主)

 

同年 北山本門寺は御影堂・本堂を再建しました。

北山本門寺は「宝物目録」に二箇相承を挙げました。

(富要9-20)

 

 

1581年・天正9年 (滅後300年 大石寺14世日主)

 

317日 西山衆徒と武田兵による、北山本門寺の重宝強奪事件。

 

同年 重須本門寺日殿は重宝返還を訴える。

 

本門寺日殿申し状の案 (富要 9-19 )

一通 日妙三堂本尊守護申すべき事、末代の為に日代を判証人として之を書写す我門弟等以後に於いて諍ふ事有るべからず、本門寺日妙に授与するなり

~天正九年辛巳林鐘十三日

 

富士山本門寺申状の案

一、当寺は開山日興より弟子日妙に本門寺の本尊等の授与三百年に及び顕然たる事、付たり八通の置状に超過の証文相承等数通之有り。

 

翌年、重須日殿は二箇相承返還を訴え憤死する。

 

 

1582年・天正10年 (滅後301年 大石寺14世日主)

 

1015日  西山日春、甲府総檀中へ書をおくり二箇相承返却方を促す。

(西山蔵・蓮華3-22

 

同年  保田・日我等は「二箇相承紛失証明」を記す。(富要9-22)

 

この頃、大石寺・日主の「雑録・日興跡条々事示書」記される。

 

 

 

1500年代後半から1600年代前半

身延山久遠寺貫主の板本尊  大白蓮華「堀上人に富士宗門史を聞く」

 

20世日重(にちじゅう) 元和9年(1623)寂、75

21世日乾(にちけん)  寛永12年(1635)寂、76

 

22世日遠(にちおん)  寛永19年(1642)寂、71

 

1608年・慶長13年 (滅後327年 大石寺16世日就)

 

1115日 慶長法難・・・徳川家康より常楽院日経と浄土宗綽道との法論が命ぜられました。しかし江戸城中での対論前夜、日経は暴漢に襲われ法論不能となり、幕府は法華宗を「負け」という、一方的な結果を押し付けます。

 

 

更に、日蓮宗諸寺院に「念仏無間の文証なきこと」の誓状を出させました。直後、身延の日遠は家康に抗議し、再法論を求めましたが家康は激怒し、駿河安倍川で磔刑が命令されます。この時、家康の側室「お万の方」は法難と受けとめ、日遠と共に殉教しようとしました。家康は「お万の方」の決意にたじろぎ、日遠の刑を取り消します。

1611年・慶長16年 (滅後330年 大石寺15世日昌)

 

1215日  重須・養運坊が駿府城にて「二箇相承書、本門寺棟札」を徳川家康に披露する。

(駿府政事録・駿国雑誌31 -中-74)

 

 

1617年・元和3年 (滅後336年 大石寺15世日昌)

 

424日 京都要法寺24世日陽の祖師伝への追加分

◆日陽は大石寺にて「日本第一の板御本尊(本門戒壇の大御本尊のことか)」、北山本門寺にて「二箇相承書」を拝見。

1560年・永禄3(滅後279)117日に、京都要法寺日辰によって著された「祖師伝」 を書写し、日陽が自伝を追加したもの。

 

釈の日陽・要法寺十八世~

(1617)四月廿四日・大石寺に着く、当住日昌上人は本来要法寺の住僧所化為るに依つて日賙性両師の下に同学累年の故恋志斜ならず、殊に要法寺に於て雲石両国宿坊の手筋の僧為るに依つて、御霊宝等残らず頂拝す、中にも日本第一の板御本尊、紫宸殿の大曼荼羅、病即消滅曼荼羅、其の外曼荼羅数幅~  (富要5-59)

 

大坊に帰り御霊宝頂拝す二ケ御相承是は日辰上人正筆御拝覧の時点画少しも違はず書写して今本寺に在り、本門寺額、紺紙金泥の法華経一部、曼荼羅十七幅、安国論皆御正筆なり、一々残らず頂拝す興師御遺骨等頂拝す、薄暮に及びて亦振舞夜半迄乱酒なり酒果てゝ本行坊に宿し、翌朝亦頻に抑留し、振舞果て大石寺に帰る。 (富要5-60)

 

 

1630年・寛永7年 (滅後349年 大石寺16世日就)

 

 

221日 身池対論

江戸城内にて受派の身延・日乾と不受派の池上・日樹らとの対論が行なわれます。結果は事前に出来上がっており、幕府と身延は結託し、不受派6名を流罪に処します。不受派の拠点・池上本門寺等は身延に与えられました。

1632年・寛永9年 (滅後351年 大石寺17世日精)

 

1115

現在の御影堂建立、建立された御影堂に本門戒壇の大御本尊を安置か。

 

・「富士年表」

敬台院殿日詔大石寺御影堂〔14間に13間〕を寄進(棟札・富要5322

 

・御影堂棟札

「寛永第九年壬申年霜月十五日造立之・・・本門戒壇本堂 日精在判」

(諸記録1-2)

 

・「家中抄・中」 日興が身に宛て給ふ所等とは、是れ板御本尊の事なり、今に当山に之れ有り、御堂とは板御本尊有る故なり (富要 5-188 )

 

・細井日達  昭和47年1月号「大白蓮華」

「身延の日興上人御在住の時の十間四面の堂には・・・戒壇の大御本尊を安置してあったことは明らかであります。その大御本尊を日興上人が大石寺の本堂に安置され、大聖人生身の御影は御影堂に安置せられましたが、その後、本山の陵夷により本堂御影堂が一堂となり、戒壇の大御本尊は御影とともに安置されてあったようであります。しかしその後、御宝蔵が大きく造立せられてから、大御本尊は御宝蔵にお移し申し、御影堂には日精上人の板本尊が安置せられたと思われます」

 

 

1656年・明暦2年 (滅後375年 大石寺20世日典)

 

同年 西山18代日順は、日耀写しの二箇相承の日辰奥書に重ねて奥書きする。

 

(西山本門寺蔵)

1662年・寛文2年 (滅後381年 大石寺20世日典)

 

日精、江戸下谷常在寺にて「家中抄」3巻を著す。

 

 

◆「家中抄」日禅伝 (富要 5-197 )

日興高祖の本尊を申し請ひ日禅に授与す此本尊今重須に在り伯耆曼茶羅と号する是なり

 

 

◆日妙伝

北山本門寺の「法華本門寺根源」棟札を批判する中で、 

次に本門寺根源の事、日蓮一大事の本尊有る処、寺中の根源なり若し爾らば、板本尊の在す処、本門寺の根源なり、若し重須に此の御筆有るが故にと云はば二ケの相承今他寺に在り彼の寺を指して本門寺と云はんや、愚案の至極、道を論ずるに足らず。(-220)

と記述しています。

 

「本門寺根源というならば、日蓮一大事の本尊が有る所は、寺の中の根源です。ならば、板本尊の存在する所こそ、本門寺の根源である。もし、重須に大聖人の真筆があるから法華本門寺根源というならば、二箇相承書は、今は他の寺に有り、かの寺を指して本門寺というのか、愚かな考えであり、論じるまでもない」

 

大石寺こそ、「日蓮大一大事」の板本尊が有る故に「本門寺の根源」としています。この時点で既に、大石寺では戒壇御本尊を「特別扱い」していることが認識できます。明確な意義付けは記述されていませんが。

 

 

◆三堂本尊も記述しています。

三堂本尊とは板本尊、生御影、垂迹堂本尊と云ふ事か、若し爾らば板本尊とは日興、日目已来相続して而も大石寺に有るなり、垂迹堂の本尊は是れ日目御相伝にして今房州妙本寺に在り天王鎮守の神ひと云ふは是なり(日濃の代に至つて井上河内の守に取らる)。

(-221 )

 

日精の言う板本尊とは戒壇御本尊のことで、この頃には「日興、日目已来相続して而も大石寺に有る」との伝承が定着していたのでしょう。

「垂迹堂の本尊」とは日目が相伝した「天王鎮守の神ひ」というそうで、保田妙本寺に有ったものの日濃の代に質入してしまい、井上河内の守に渡ってしまったようです。

 

日目伝

日目上人正慶二癸酉十一月の初めに富士を御立あつて奏聞の為に御上洛なり、若し帝都に於て御尋もやあらんとて大聖人の御自筆本尊十八幅、其の中万年救護の本尊並に日目授与の本尊時光授与の本尊天王鎮守の神ひ等あり、御伴には日尊日郷二人召し行かれ、

(-191 )

 

同伝

亦天王鎮守の神と申すは祖師御相伝の秘書当家代々の秘書なり、日興日目相続して房州妙本寺に之れ有るなり  (-184)

 

 

◆七面大明神祈念戒壇院本尊

日法伝 

或る時・日法・御影を造り奉らんと欲す・七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか・浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し・次に大聖の御影を造ること已上・三躰なり、其の一躰は纔に三寸なり・上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す・今の板本尊是れなり   (-244 )

 

 

◆御肉牙

日目伝 (-184 )

御牙歯脱け落つ・聖人此歯を以て日目に授けて曰く・我に似り問答能くせよとてたまはりける・御肉付きの御歯と申すは是なり、此の御歯・当山霊宝随一なり・広宣流布の日・光を放ちたまふべしと云へり

 

 

1682年・天和2年 (滅後401年 大石寺23世日啓)

 

1113日より「日目350年忌の説法」22世日俊 大石寺にて (歴代法主全書3-103)

 

日目上人三百五十年忌報謝の為に之を談ずるもの也、大石寺~

十四日~

此の三大秘法は何者ぞや、本門の本尊とは当寺戒壇の板本尊に非ずや~此の如く蓮祖御出世の本体三大秘法の御座す寺なる故に~

 

⇒大石寺貫主22世日俊が「戒壇板本尊は日蓮出世の本懐」と示しました。

 

 

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