「日蓮滅後の寺院教学としての日蓮本仏論」から「新たなる日蓮本仏信仰」へ
1「釈尊=釈迦族の王族であるガウタマ・シッダールタ」と現代の和合僧
現代の和合僧は「釈尊=ガウタマ・シッダールタ」に対しては、万人尊敬の慈悲を説き、一人ひとりの生命、宇宙を貫く永遠普遍の法に目覚めた人・ブッダとして尊敬。
2 「釈尊=妙法蓮華経如来寿量品第十六の久遠実成の釈尊・久遠の本仏」と日蓮
日蓮は鎌倉時代当時の学問的理解として、ガウタマ・シッダールタが妙法蓮華経(法華経)を説いたとしながらも、教理的・信仰的には妙法蓮華経如来寿量品第十六の久遠実成の釈尊=久遠の本仏を尊信し、「釈迦・釈迦仏・釈迦牟尼仏・釈尊如来・釈尊・世尊・大覚世尊」と多様に表現して、弟子檀越にも尊信すべきことを説き続けた。それは立教から晩年に至るまで続いている。
教理的・信仰的には、日蓮は弟子檀越を久遠の本仏のもとへと導く、上行菩薩の使命を全うした「久遠仏直参信仰の導師」であった。
同時に、特に文永8年の法難以降にあっては、多くの妙法曼荼羅本尊図顕という行いと「一念三千を識らざる者には、仏、大慈悲を起こし、五字の内にこの珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けしめたもう」(観心本尊抄)、「日本の仏法」(諫暁八幡抄)等の教説により、表に出さずとも日蓮の内面には「我常在此娑婆世界説法教化」たる「久遠の本仏の体現者」としての自覚が横溢していたことがうかがわれる。
しかしながら、やはりそのような自覚は存命中には明言することなく、自らの仏法上の位置付けは「万年救護本尊」に見られるように、上行菩薩を宣言するにとどまっている。
3 日蓮滅後の寺院教学としての日蓮本仏論
日蓮を本仏とする解釈論、即ち日蓮本仏論は、日蓮入滅より相当な時間を経過して後の寺院教学といえるものであり、しかも日蓮の存在を特別視、神話の彼方の根本仏のように絶対的な存在に祀り上げ、その絶対者からの唯授一人の血脈相承を創作することによる日蓮の御内証なるものの継承者への、「法主絶対、法主無謬、法主への信伏随従、法主信仰」につながるものであった。 また日蓮滅後に造られたであろうにも関わらず、日蓮出世の本懐とされた板本尊への参拝を促す補強材料ともなる日蓮本仏論であった。しかも板本尊に参拝しなければ成仏はかなわないという、己義にまで通じてしまった。
4 現代の和合僧による日蓮の仏法上の位置付け
現代の和合僧は上記のような、結果として僧侶崇敬、寺院参詣のための材料となっている「寺院教学としての日蓮本仏論」とは決別。 「万人を成仏させる宇宙と生命を貫く根源の法たる南無妙法蓮華経」を体現した日蓮を、末法という苦悩の渦巻く混乱の時代の本仏として位置付け尊崇している。