3 称名寺と清澄寺
称名寺には多くの清澄寺関連文書があることも、同寺と安房国寺院の深い関係、東京湾を挟んだ安房と鎌倉の結びつき、往来の活発さを語る物証であると思う。
以下、「金沢文庫古文書識語編」より
「授決円多羅義集唐決上」
嘉禎四年(1238)太歳戊戌十一月十四日
阿房国東北御庄清澄山 道善房
東面執筆是聖房 生年十七歳
後見人々是無誹謗
(識語編1・P43)
五輪九字明秘密釈
建長六年(1254)甲寅九月三日未時了
清澄山住人肥前公日吽生年廿七歳
為仏法興隆法界衆生成仏道也。
(識語編1・P222)
題未詳
文応弐(1261) 大才辛酉二月六日 清澄寺書了。 円意
(識語編3・P194)
求聞持口決
文永四年(1267)丁卯三月五日妙性書写了。
本云
同年二月於安州清澄寺書写了。
(識語編1・P125)
※妙性=妙性房審海であり、審海が称名寺の開山として入寺するのは文永4年9月と伝えるので、その七箇月前に清澄寺にいたことになる。小網寺の密教法具については、「金沢審海」の銘が刻まれているので、称名寺入寺以降、小網寺に授けたものだろうか。
聞持秘事
正安元年(1299)己亥八月十二日 右翰寂澄 春秋□五十八
清澄山
(識語編3・P63)
虚空蔵菩薩念誦法
正安 己亥八月十七日 右翰寂澄 五十八
清澄山
(識語編1・P200)
梵字
正応三年(1290)四月十四日於鎌倉
(朱)佐々目御房奉伝受了。
右朱点口伝也。加私之。 金剛資心
正安三年(1301)辛丑二月二日 於清澄寺書写了
金剛資寂
(識語編1・P251)
梵字
正安三年(1301)辛丑六月十六日 於清澄寺書写了。
金剛資寂澄
(識語編2・P99)
氏名未詳書状
無指事候之□□不
申入候、抑去年八月
下旬に日比宿願候天房州
清澄寺に参籠□下向
(金沢文庫古文書・闕名書状編P99)
4 清澄寺の宗派の変遷をめぐって
(1) 安房国の宗派
少年日蓮が学んだ清澄寺は梵鐘の鐘銘に、「房州千光山清澄寺者慈覚大師草創」と慈覚大師円仁による再興を伝え、山川智応氏の「日蓮聖人研究・1巻」によれば、「聖人滅後百十一年の明徳三年(1392)当時には、清澄寺が正しく此の弘賢法印を寺主別当として、真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していた事実は、頗る確実である」(P98)と、14世紀末には真言密教の道場となっていた、としている。その後、昭和24年(1949)、日蓮宗に改宗する前の宗派は真言宗智山派となっていた。
清澄寺と同じ安房国の養老寺、那古寺、小網寺は真言宗智山派で、安房一帯には智山派の寺院が多いようだ。旧安房国とされる鋸南町、館山市、鴨川市、南房総市内の主要寺院について、宗派別に列挙してみよう。
< 鋸南町 >
真言宗智山派
持福寺、大乗院、圓照院、往生寺、満藏寺、理性院、密蔵院、歓喜院、極楽寺等。
浄土宗
浄蓮寺、別願院、遺水寺等。
浄土真宗本願寺派
最誓寺。
真宗大谷派
福蔵寺。
臨済宗建長寺派
天寧寺、大智庵、法福寺、秀東寺等。
臨済宗円覚寺派
正法院。
曹洞宗
長林寺、在林寺、日本寺、光明寺、信福寺、昌竜寺、崇徳院等。
日蓮宗
久円寺、西之寺、下之寺、山本寺、妙典寺、妙顕寺、大行寺等。
妙本寺
< 館山市 >
真言宗智山派
圓光寺、善榮寺、長泉寺、観乗院、長福寺、秀満院、金蓮院、西光寺、金剛寺、善淨寺、國分寺、延命院、千葉院、寶藏院、豊前寺、福樂寺、寶幢院、金乗院、瀧音院、藥王院、総持院、自性院、福藏寺、持明院、観音院、長勝寺、大福寺、積藏院、遍智院、千祥寺、舎那院、遍照院、寶樹院、寶積院、來壽院、福壽院、藤榮寺、観音寺、安養寺、光明院、千灯院、高性寺、覺性院、塩藏寺、不動院遍照密寺、成願寺、千龍寺。
高野山真言宗
妙音院。
浄土宗
安楽寺、三福寺、浄閑寺、長泉寺、西行寺、蓮壽院、大円寺、大嚴院、金台寺、海雲寺。
浄土真宗本願寺派
宗真寺。
臨済宗建長寺派
玉竜院、釈迦寺。
臨済宗円覚寺派
智秀寺。
曹洞宗
源慶院、真浄院、願忠寺、東伝寺、福生寺、泉福寺、西方寺、竜淵寺、宝安寺、泉慶寺、慈恩院、真楽院、長光寺、智恩寺、紫雲寺、蓮蔵寺、西光寺、長勢院、大鑑院、春光寺、端竜院、東光院、竜樹院。
日蓮宗
蓮幸寺、栄洗寺、妙大寺、本蓮寺、法蓮寺、妙長寺、法性寺。
< 南房総市 >
天台宗
安楽寺、来福寺、高雲寺、迎接寺、善性寺、慈眼寺、普顕寺、石堂寺、常円寺、医王寺、西光寺、正運寺。
真言宗智山派
吉祥院、正塋寺、海福寺、紫雲寺、長福寺、東福院、千光寺、観乗院、石戸寺、法界寺、寶泉寺、金剛院、慈眼寺、積藏院、能藏院、永福寺、金仙寺、圓明院、正福寺、照明院、長性寺、盛徳寺、高徳院、地蔵院、小松寺、大滝寺、東漸寺、大聖院、住吉寺、東仙寺、観音寺、海雲寺、圓正寺、金剛院、観養院、徳藏院、圓藏院、圓乗院、西養寺、常光寺、眞勝寺、海光寺、金光寺、正覚寺、
成願寺、圓照寺、壽樂寺、普門院、福満寺、龍泉院、勝蔵寺、正壽院、福性院、圓鏡寺、青龍寺、大聖寺、眞野寺、東光寺、大徳院、金福寺、智恩院、寶藏院、藥王寺、智光寺、長福寺、勧修院、正覺院、蓮花院、極樂寺、宝珠院、東福院、宝積院、普門院、長泉寺、建福寺、眞言院、西福院、寶樹院、沼蓮寺、寶性院、威徳院。
浄土宗
善性寺、慶崇院、西方寺、長泉寺、護国寺、蓮台寺、量寿院、大勝院、正林寺、無量院、心行寺。
真宗大谷派
勝善寺。
臨済宗円覚寺派
栄福寺、宝鏡寺、興禅寺、常禅寺、長福寺、万福寺、満蔵寺、海禅寺。
臨済宗建長寺派
永興寺、慈雲寺、西光寺、自性院、海雲寺。
曹洞宗
福寿院、満願寺、杖珠院、雲竜寺、安勝院、光厳寺、善導寺、高照寺、福聚院、泉竜寺、瑞岩寺、天徳寺、智蔵寺、竜喜寺、延命寺、法慶院、長香寺。
日蓮宗
蓮重寺、顕本寺、法華寺、全昌寺、妙蓮寺、妙福寺、日宣寺、日運寺、妙達寺、善道寺、正文寺、普門寺。
日本山妙法寺大僧伽
古川小僧伽。
< 鴨川市 >
天台宗
萬福寺、西蓮寺、方広寺。
真言宗智山派
海福寺、自性院、薬王院、金剛院、観音寺、神藏寺、常秀院、小原寺、慈恩寺、東勝寺、道種院、小澤寺、勝蔵院、永泉院、龍性院、薬王院、照善寺、昭和院、蓮花院、淨照寺、勝福寺、成就院、瀧山寺、寶國寺、金乗院、林淨院、善能院、真福寺、圓明院、西徳寺、三嶋寺、常福院、悉地院、長福院、延命院、満光院、安養寺、花藏院。
浄土宗
心厳寺、阿弥陀寺
浄土真宗本願寺派
善覚寺、善竜寺、福田寺、本覚寺。
曹洞宗
永泉寺、泉福寺、東福寺、宝泉寺、長安寺、常応寺、長福寺、林秀院、長泉院、永明寺、竜泉寺、宝光寺、正因寺、宝昌院、宝寿寺、地済院、竜江寺、真福寺、地蔵院、西福寺、金光寺、長興院、古泉院、宝寿院、東善寺、慈願寺、神宮寺、西禅寺、大徳寺、長泉寺、天沢寺、安国寺。
臨済宗妙心寺派
見星院
日蓮宗
妙蓮寺、誕生寺、清澄寺、日澄寺、日蓮寺、高生寺、多聞寺、蓮行寺、妙昌寺、釈迦寺、鏡忍寺、掛松寺、正法寺、妙満寺、長泉寺。
蓮生寺。
遠本寺
日本山妙法寺大僧伽
天津清澄中僧伽、天津小僧伽。
以上、安房国の寺院を列挙したのだが、一見して真言宗智山派寺院の多さが他を圧倒していることが分かる。次に多いのが曹洞宗で、これは、戦国時代に安房国を領し、房総半島を勢力圏とした里見氏との関係によるものだろうか。安房里見氏の初代国主とされる里見義通の父・里見義実の菩提寺が南房総市白浜町の曹洞宗・杖珠院(じょうじゅいん)で、ここに里見家三代の墓石がある。
杖珠院は文安元年(1444) 、里見義実の創建と伝える。館山市古茂口の曹洞宗・福生寺には、里見義通の子・里見義豊の正室である一渓院の墓石がある。館山市上真倉の曹洞宗・慈恩院には、里見義康の墓所がある。慈恩院は、元里見義康の持仏堂と伝える。里見義弘の菩提寺が館山市畑の曹洞宗・瑞龍院とされる。館山市安布里の曹洞宗・源慶院には、里見義弘の娘・佐与姫の墓所がある。
安房国における真言宗智山派の勢力拡大は、いつ頃なされたものだろうか。千葉県内の真言宗智山派の代表的寺院といえば、当時としては「下総国」になるが、智山派大本山の成田山新勝寺だろう。
天慶2年(939)、平将門の乱平定のため、朱雀天皇の命により東国へ派遣された真言僧・寛朝(延喜16年・916~長徳4年・998)が空海作とされる不動明王を奉じて天慶3年(940)、海路、上総国尾垂ケ浜に上陸。下総国公津ケ原で乱平定を祈願、護摩不動を修し成満。そこに堂舎が建立されたことを淵源としているようだ。寛朝は後に仁和寺別当、東寺長者に任じられている。
この新勝寺が一躍有名寺院となったのが江戸時代の出開帳で、歌舞伎役者・市川団十郎の成田不動信仰、その芝居などによって不動信仰が庶民の間に広まり、成田参詣が盛んとなった。智山派・総本山の智積院は、興教大師覚鑁を源とする根来山塔頭の学頭寺院であったものが、慶長6年(1601)、徳川家康の寄進により京都・東山の地に再興されたと伝える。
清澄寺においても真言僧を通しての、徳川将軍家との関わりがあったようだ。次項で清澄寺の開創より真言宗智山派に到る変遷を概観してみよう。
(2) 清澄寺・不思議法師から天台宗、真言宗智山派へ
①東条御廚
清澄寺の起源は、伝承によれば「上古神武天皇の御宇、天富命を祀りし霊場なる故に、今寺の本堂の紋、三つ玉を用ふ」と伝える。続いて、岩村義運氏の著作である 「安房国清澄寺縁起」(1930)によれば、「光仁天皇の宝亀(ほうき)二年(771)、一人の旅僧何地よりか飄然として此の山に来たり一大柏樹を以って、虚空蔵菩薩の尊像を謹刻し、一宇を此處に建立し、日夜礼拝供養怠らず」(P3)と、不思議法師が虚空蔵菩薩像を彫刻、祭祀したとする。次に「不思議法師開創当時の清澄寺は、極めて微々たる山寺に過ぎざりしが、其の後六十余年を経て、仁明天皇の御宇、承和三年(836)慈覚大師東国巡錫の砌、清澄に登りし處、聞きしに優る仙境に讃嘆禁ぜず、之れ仏法相応の霊地なりとし、錫を止めて興隆に力を盡(つく)し、自ら一草堂に籠りて、虚空蔵菩薩求聞持法を厳修して其成満を祈り、遂に僧坊を建つる十有二、祠殿を造る二十有五、房総第一の巨刹、天台有数の大寺となり、清澄寺の名、漸(ようや)く世に知らるるに至れり」(P6)と、慈覚大師円仁による再興を伝えている。
鎌倉時代の元暦元年(1184)5月3日にいたり、源頼朝は清澄寺の在する東条郷を、伊勢神宮の外宮に寄進している。
「吾妻鏡」
元暦元年(1184)5月3日
外宮の御分は安房国東条の御厨、会賀の次郎大夫生倫に付けられをはんぬ。一品房を奉行として、両通の御寄進状を遣わす。~
寄進 伊勢太神宮御厨一処
在 安房国東条 四至旧の如し。
右志は、朝家安穏の為に奉り、私願を成就せんが為、殊に忠丹を抽んで寄進状件の如し。寿永三年五月三日 正四位下前の右兵衛佐源朝臣
これは日蓮遺文にも記されている。
「新尼御前御返事」文永12年(1275)2月16日 真蹟曽存
而るを安房の国東条の郷は辺国なれども日本国の中心のごとし。其の故は天照太神跡を垂れ給へり。昔は伊勢の国に跡を垂れさせ給いてこそありしかども、国王は八幡加茂等を御帰依深くありて、天照太神の御帰依浅かりしかば、太神瞋りおぼせし時、源右将軍と申せし人、御起請文をもつてあをか(会加)の小大夫に仰せつけて頂戴し、伊勢の外宮にしのびをさめしかば、太神の御心に叶はせ給いけるかの故に、日本を手ににぎる将軍となり給いぬ。此の人東条の郡を天照太神の御栖と定めさせ給う。されば此の太神は伊勢の国にはをはしまさず、安房の国東条の郡にすませ給うか、(定P868)
「聖人御難事」弘安2年(1279)10月1日 真蹟
去ぬる建長五年太歳癸丑四月二十八日に、安房の国長狭郡の内東条の郷、今は郡也。天照太神の御くりや(厨)、右大将家の立て始め給いし日本第二のみくりや、今は日本第一なり。此の郡の内清澄寺と申す寺の諸仏坊の持仏堂の南面にして、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年太歳己卯なり。(定P1672)
そして、伊勢神宮の外宮から派遣されてきた新来の領家が東条の御厨を掌握、徴税するにあたり、古くからある清澄寺の徴税システムを利用、見返りに寺領の保証、御厨としての特権を清澄寺が利用することを認めたであろうことは、山中講一郎氏が「日蓮伝再考」(P222 2004年 平安出版)で指摘されている。
寺伝によれば、源頼朝は清澄寺を深く尊信。北条政子はその意を体して、頼朝追善のために大輪蔵を建立して一切経を収めた、と伝える。
②山林修行の霊場
くだって、日蓮の時代の清澄寺は、「虚空蔵菩薩求聞持法」を修する、山林修行の霊場として喧伝されていた。
「阿闍梨寂澄自筆納経札」(早稲田大学所蔵文書)
房州 清澄山
奉納
六十六部如法経内一部
右、当山者、慈覚開山之勝地
聞持感応之霊場也、仍任
上人素意六十六部内一部
奉納如件、
弘安三年(1280)五月晦日 院主阿闍梨寂澄
※六十六部如法経
法華経六十六部を書写して、一国に一部ずつ納経してまわる六十六部回国が、回国聖・経聖(持経者)によって行われた。
< 参考 >
ときがわ町 慈光寺山門跡の板碑群
※逆修
自身の成仏を願い、生前に自らの死後の供養をすること。
③修学道場
当時の清澄寺の学問環境については、安房国の一地方寺院の域を超えたものだったことが日蓮遺文よりうかがえる。
嘉禎4年(1238)「授決円多羅義集唐決」書写本・真蹟 日蓮17歳
(同書奥書)
嘉禎四年 太歳戊戌 十一月十四
阿房国東北御庄清澄山 道善房
東面執筆是聖房 生年十七才
後見人々是無誹謗
(定P2875)
「清澄寺大衆中」建治2年(1276) 真蹟曽存 平賀本
抑(そもそも)参詣を企(くわだ)て候へば、伊勢公の御房に十住心論・秘蔵宝鑰・二教論等の真言の疏(しょ)を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春(とうしゅん)・輔正記(ふしょうき)なんどや候らん。円智房の御弟子に、観智房の持ちて候なる宗要集か(貸)した(給)び候へ。それのみならず、ふみ(文)の候由も人々申し候ひしなり。早々に返すべきのよし申させ給へ。今年は殊に仏法の邪正たゞさるべき年か。(定P1132)
・東密、いずれも空海の著であり真言教学の基本的な書物
十住心論⇒「秘密曼陀羅十住心論」十巻 真言密教の体系書
秘蔵宝鑰⇒「秘蔵宝鑰」(ひぞうほうやく) 十住心論の要綱をまとめ示した書
二教論⇒「弁顕密二教論」二巻 顕教と密教を対比、密教の勝れる所以を示した書
・天台の書
止観⇒「摩訶止観」十巻 天台大師智顗の著
東春⇒「天台法華疏義纉」 唐代の天台僧・智度の著
輔正記⇒「法華天台文句輔正記」 唐代の天台僧・道暹の著
日蓮自身も密教の重書を書写して、清澄寺に持ち帰っている。
建長3年(1251)11月24日、日蓮(30歳)は京都五条坊門富小路にて「五輪九字明秘密釈」(定P2875)を書写し、建長6年(1254)9月3日、「清澄山住人」の肥前公日吽は日蓮筆の「五輪九字明秘密釈」を書写している。
五輪九字明秘密釈
建長六年(1254)甲寅九月三日未時了
清澄山住人肥前公日吽生年廿七歳
為仏法興隆法界衆生成仏道也。
(金沢文庫古文書識語編1・P222)
④寺主 弘賢
明徳3年(1392)に鋳造された清澄寺の梵鐘には「当寺主 前大僧正法印大和尚 弘賢」の名が刻まれる。源頼朝によって建立された鶴岡八幡宮寺の社務職を記した「鶴岡八幡宮寺社務職次第」によれば、弘賢は鶴岡八幡宮寺第20代別当であり真言・東寺流の出身。
文和4年(1355)、31歳の時より応永17年(1410)の86歳に至るまでの56年間、関東管領足利基氏、氏満、満兼、持氏の四代を経て鶴岡八幡宮寺別当として在職。他に十数箇所の別当を兼務していて、相模箱根山・走湯山の二所権現、足利氏の菩提寺・下野足利の鑁阿寺、月輪寺、松岡八幡宮、大門寺、勝無量寺、赤御堂、鶏足寺、大岩寺、越後国国付寺、安房国清澄寺、平泉寺、雪下新宮、熊野堂、柳営六天宮等の別当職にもなっていた。今日まで伝わる梵鐘が鋳造された明徳三年(1392)弘賢の寺主別当時代には、清澄寺は真言宗醍醐三宝院流親快方(或いは地蔵院流)の法脈に属していたと推測されるのである。
「鶴岡八幡宮寺社務職次第」
二十 東
弘賢
左衛門督ノ法印 三十一。西南院。治五十六年。加子七郎ノ息。前ノ大僧正頼仲ノ入室灌頂。無品親王遍智院聖尊ノ重受。醍醐ノ寺務法印ノ弘顕法印ノ重受。貞雅法印西院流ノ受法印可。文和四年乙未六月頼仲存日之譲之旨京都安堵御判到来 年三十一。東寺二ノ長者。康安二壬寅五月任権僧正。応安三六転正。至徳四年丁卯六月転大僧正。関東護持奉行。走湯山別当。月輪寺。松岡八幡宮。大門寺。勝無量寺。鑁阿寺。赤御堂。鶏足寺。大岩寺。越後国国付寺。安房国清澄寺。箱根山。(越前)平泉寺。雪下新宮。熊野堂。柳営六天宮。此数ヶ所ノ別当職兼之。当社仮殿御遷宮事。明徳三壬申十二月二十一日同正御遷宮。応永元年甲戍十二月十四日。此時上下宮金物以下御装束等。悉被新調之。惣奉行ヲ上椙中務入道禅助。委細在別記。進止供僧十六口。被成外方事。応永七庚辰八月二十三日、以社家吹学。可為公方供僧之旨御教書。十六人仁各被申與了。随分御興隆此事哉。奉行清式部入道是清。応永十七年庚寅五月四日結講(誦か)印明。如睡帰寂 八十五。
⑤安房・上総の総氏寺
源頼朝によって伊勢神宮外宮に寄進された東条郷に位置する清澄寺は、室町幕府の時代では鶴岡八幡宮寺、相模箱根山・走湯山の二所権現、下野足利・鑁阿寺の別当が更に兼務するほどの寺格、地位となっていた。それ以降、清澄寺は安房・上総の総氏寺であったとして、山川智応氏は「安房国志」の「安房上総両国ノ氏寺ト称シ」を引用する。(「日蓮聖人研究」1巻P99)
「安房国志」
寺領地ハ慶長十五年(1610)、百六十六石、里見忠義ノ証判アリ。徳川幕府ニ至リテ、百七十七石寄付、蓋旧領安堵ナリ。凡本寺、其境高山ニアリ。幽𨗉(ゆうすい)比ナシ、古杉老樟、茂生天ヲ蔽(おお)フ。中ニモ樟(しょう)ノ大ナルモノ周リ貳拾尺、杉大ナルモノ周リ四拾貳尺。寛政中、住持明範、夙(つと)ニ山林繁殖ノ要務タルコトヲ察シ、寺中及門前人民ニ諭告シ大ニ種芸セシム。爾来寺中門前益力ヲ樹芸ニ用ヰ、此ニ於テ杉檜鬱々白日猶冥キニ至ル。旧俗安房上総両国ノ氏寺ト称シ、神符ヲ分配ス。維新後勧化配符ヲ禁ゼラレ、門前ノ寺戸一百、飢渇ニ迫ル。仍テ官ニ請ヒ、山林ヲ輪伐シ、戸障子板戸等ヲ造リ、房総及東京ニ販売シ、以テ糊口(ここう)ニ資スト云フ。
⑥徳川家と仲恩房頼勢
清澄寺と徳川将軍家との関わりについて、山川智応氏の「日蓮聖人研究・1巻」(1929)と、昭和24年(1949)2月、真言宗智山派より日蓮宗に改宗した時の住職、即ち真言宗智山派清澄寺第31世・岩村義運氏の著である「安房国清澄寺縁起」(1930)の二書によって、清澄寺が真言宗智山派となる経緯を追ってみよう。
京都智積院の学僧・仲恩房頼勢(らいせい)の学徳高きを聞いた徳川家康(天文11年・1543~元和2年・1616)は、頼勢を駿府に招待。頼勢は諸宗学僧との対論に臨んで、抜きんでた学識、弁論により他を圧倒。以降も、江戸、大坂、京都で21座の法論に臨み、他宗には頼勢に対抗できるものがいなかった。家康は感嘆し、「頼勢の望む恩賞を与える」と告げる。安房国・館山出身の頼勢は「元来、世俗の名利は念とする處に非ず。終生仏法興隆に身命を捧げて、仏恩に報ぜん事をのみ念とす。小衲は房州館山の産。郷国房州に清澄寺なる古刹あり。慈覚大師の中興する所、日蓮聖人の立教開宗せられし霊地なるも、今甚だしく荒廃して仏法中絶す。希くは此の一寺を賜はり、丹精の誠を籠めて寺門を興隆し、房総の鎮護として舊(旧)観に復せしめん。望む所は只之れのみ。他に欲する所なし」とこたえ、家康はその志を歓び、当時、一宗に所属せず、代官が管理していた清澄寺の住持を頼勢とするよう命じる。家康の命を受けて、二代将軍徳川秀忠(天正7年・1579~寛永9年・1632)が下知状を発する。
房州清澄寺の住持は、此仲恩房に仰付けられ候間、什物並に寺領之儀は、当午の物成より、相違なく御渡し致すべく、為之如此候、恐々謹言。
元和四戊午年(1618)八月十七日
本多上野介(花押)
土井大炊介(花押)
酒井雅楽頭(花押)
中村孫右衛門殿
この下知状により、館山出身の仲恩房頼勢は徳川将軍公認の清澄寺住持となる。続いて清澄寺を京都醍醐寺(真言宗醍醐寺派総本山)の末寺にすることになり、寛永4年(1627)正月、三宝院の宮よりの「令旨=寛永四年正月文書」が発せられる。ただし、法流=後継住持については頼勢の所存に任すとされ、智積院の学僧であった頼勢は嫡弟、法弟、法類を以て後継住持としたところから、その結果、清澄寺は真言宗智山派に属する寺院となったようだ。
房州千光山清澄寺は、仏法中絶すと雖も、大樹相国秀忠公の助命を蒙って、寺領二百石。頼勢法印を住持に任ぜらる。然る所当門諸寺務職の儀は、懇望により、永々醍醐の末山に加へらる。但し法流に於ては頼勢所存に任ずべし。
寛永11年(1634)5月、頼勢は嫡弟の空心房頼昌に付法状を授けて岩城国に赴き、同国・薬王寺13世となる。後に平府の吉祥院に隠退、慶安元年(1648)閏正月十日に73歳で亡くなる。
真言宗智山派としての清澄寺は頼勢を法流第一世とする。
・第二世の頼昌は頼勢の嫡弟、空心房と称して、寛永13年(1636)住職、同19年(1642)に没。
寛永11年(1634)5月、頼勢法印より頼昌への付法状
「将又当寺は、代々の住持一宗の相続に非ず。法流無沙汰なれば本末の次第なし。」
・第三世の勢譽は頼勢の法弟、舜政房と称して、寛永19年(1642)住職、寛文5年(1665)に没。
・第四世の慶宣は頼勢の法類、了智房と称して、宝永元年(1704)に没。
以来、法流は31世の岩村義運氏まで続き、同氏の代に日蓮宗となる。
真言宗智山派・清澄寺第一世の頼勢以前は、梵鐘の鐘銘により明徳3年(1392)当時は弘賢法印が清澄寺別当となっていたことが知れるのだが、嘉保3年(1096)、天文4年(1535)、天正16年(1588)と元禄7、8年頃(1694、1695)の四度の火災により古文書は消失してしまい、頼勢以前の住職名、世代共に明らかではないようだ。
尚、山川智応氏は頼勢の法脈系統を以下のように示されている。
(小野流)聖宝、観賢、淳裕、元杲、仁海、成尊、(醍醐流)義範、勝覚、(三実院流)定海、元海、実運、勝賢、成賢、(地蔵院流?)道教、(親快方)親快、親玄、房玄、親恵、弘顕、弘済、弘鑁、弘典、弘宣、俊雄、亮恵、亮淳、亮済、頼勢
即ち、頼勢法印の系統は、三十六流の一たる醍醐三宝院流親快方に属する。(或は親快の師の道教を以て、地蔵院流の祖とするときは、三宝院流地蔵院流の法脈に属する。寺の執事岩村義運氏からの報には、地蔵院流だとしてある。)
「日蓮聖人研究」1巻P103
以上、清澄寺の起源より真言宗智山派に到る経緯を概観したが、時の権力者の庇護下に入ることは寺院の地(寺領)の安堵のための必要条件となっていた時代、その地(国)に権力者の帰依を受ける、また権力との太いパイプを持つ寺院が出現・存在することは、周辺に在って荒廃、衰亡していた小寺院にとっては、その傘下に入ることを促しただろうか。小規模寺院にとっては大寺院の財力による恩恵、復興への期待を抱いたのではないだろうか。
遡れば、安房国には役小角(えんのおづの)、行基開創、慈覚大師円仁中興等、共通の縁起を有する寺院が多くある。
館山市出野尾にある小網寺(こあみじ)は、和銅3年(710)行基による開創と伝える。
館山市洲崎にあり御手洗山を背にする妙法山観音寺(通称・養老寺)は、養老元年(717)、役小角が開創し、行基が十一面観音を作り本尊とする、と伝える。
館山市那古の那古寺は養老元年(717)に開創、行基が千手観世音菩薩を刻むと伝える。承和14年(847)に慈覚大師円仁が再興、正治年間(1199~1201)に真言密教の道場となる、と伝える。
南房総市千倉町の小松寺は、文武天皇代(683~707)に役小角が小堂を建てたことを起源とし、天長8年(831)、慈覚大師・円仁が堂塔を立て替え、山王権現を祀った、また山岳修行の霊地であったと伝えている。
清澄寺の起源より、その後の宗派の変遷という一例から他を推すれば、安房の多くの寺院は台密等の「聖」による仏像彫刻、それを安置する祠や堂舎の建立を起源とし、地域に根付く過程で「役小角」「行基」「円仁」等の「聖人信仰」の物語が創られ喧伝されていった。そして時代の変遷、領主の交替、宗教勢力の変化により、寺院の宗派も変転を重ねてきた、といえるだろうか。
真言宗智山派・成田山新勝寺の隆盛、清澄寺住職の真言僧と徳川家のパイプが安房国、房総の宗教地図にどのような影響を及ぼしたのか、これについては今後もさらに考えていきたいと思う。
⑦清澄寺梵鐘・道禅・三嶋神社鰐口・天正寺
清澄寺の古鐘は「明徳三(1392)季 壬申 八月 日」に作られたもので、鋳造した人物については銘文に「大工 武州塚田 道禪(禅)」とあるところから、武州塚田の道禅であることが分かる。
この武州塚田とは現在の埼玉県大里郡寄居町大字赤浜小字塚田にあたり、同地の三嶋神社の鰐口には「武蔵国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永二年(1395)乙亥三月廿七日」とある。
塚田の地には南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した塚田鋳物師集団がいて、中でも「道禅」が代表的人物だったようだ。尚、塚田の他にも、武蔵国では児玉町(現在は本庄市児玉町)の金屋鋳物師、狭山市の柏原鋳物師、岩槻市(現在はさいたま市岩槻区)の渋江鋳物師、坂戸市の金井鋳物師、鳩山町の小用鋳物師などが知られている。
埼玉県などの資料によると、三嶋神社の鰐口を鋳造したのは様式・技法から「道禅」かその「工房」ではないかと推定される。これにより武州塚田の鋳物師・道禅と安房国清澄寺のつながりが認識されるのだが、塚田の地から荒川を渡り、対岸にあるのが曹洞宗天正寺(寄居町大字桜沢)だ。
天正寺の縁起では、宝亀3年(772)に不思議法師が訪れ、安房国清澄寺の虚空蔵菩薩と同一木を以て虚空蔵菩薩を刻み安置したことに由来する、としている。山号を清澄山、寺号を天照寺と称し、その後天台宗になる。元亀年中(1570年~1573年)に火災により本堂を焼失。1573年・天正元年に本堂を再建、寺名を天正寺に改める。この時に宗旨替えとなり現在の曹洞宗となった、とする。ということは、塚田の鋳物師・道禅が活躍した時代には、天正寺は天台宗天照寺だったということになる。
さて、清澄寺を興した台密系と思われる同じ「聖」が武蔵国を訪れて、天照寺の基礎を築いたものだろうか。それとも、道禅などの鋳物師によって清澄寺の寺伝が当地に伝えられ、それを天照寺が摂り入れたものだろうか。寺院縁起と歴史の登場人物との関係等、探り考えるほどに興味の尽きない論点だと思う。