日蓮の眼に映ったもの~承久の乱と蒙古襲来前夜の密教の祈祷

 

承久の乱(承久3年・1221)では後鳥羽上皇(隠岐法皇)の宣旨により、比叡山座主を始め東寺長者、仁和寺の御室、園城寺の長吏等、諸宗の高僧らが真言の秘法による祈祷を行っていますが、これに関する日蓮の記述を確認してみましょう。

 

 

◇文永9(1272)7月「真言見聞」(金綱集6[日王本])身延山久遠寺蔵)

諸法は現量に如かず。承久の兵乱の時、関東には其の用意もなし。国主として調伏を企て、四十一人の貴僧に仰せて十五壇の秘法を行はる。其の中に守護経の法を紫宸殿にして御室始めて行はる。七日に満ぜし日、京方負け畢んぬ。亡国の現証に非ずや。是は僅かに今生の小事なり。権経邪法に依って悪道に堕ちん事浅猿(あさまし)かるべし。

 

 

◇文永12(1275)2(または建治3[1277]821)「神国王御書」(真蹟)

人王八十二代は隠岐法皇と申す。高倉の第三王子、文治元年丙午御即位。八十三代には阿波院、隠岐法皇の長子、建仁二年に位に継き給ふ。八十四代には佐渡院、隠岐法皇の第二王子、承久三年辛巳二月廿六日に王位につき給ひ、同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。此の二・三・四の三王は父子なり。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へるなり。

 

又承久の合戦の御時は天台座主慈円・仁和寺の御室・三井等の高僧等を相催し、日本国にわたれる所の大法秘法残りなく行なわれ給ふ。所謂承久三年辛巳四月十九日に十五壇の法を行なはる。天台座主は一字金輪法等。五月二日は仁和寺の御室、如法愛染明王法を紫宸殿にて行なひ給ふ。又六月八日御室、守護経法を行なひ給ふ。已上四十一人の高僧十五壇の大法。此の法を行なふ事は日本に第二度なり。権大夫殿は此の事を知り給ふ事なければ御調伏も行なひ給はず。又いかに行なひ給ふとも彼の法々彼の人々にはすぐべからず。仏法の御力と申し、王法の威力と申し、彼は国主なり、三界の諸王守護し給ふ。此は日本国の民なり、わづかに小鬼ぞまぼりけん。代々の所従、重々の家人なり。

 

 

◇建治元年(1275)610日「撰時抄」(真蹟)

日蓮は愚癡の者なれば経論もしらず。但此の夢をもって法華経に真言すぐれたりと申す人は、今生には国をほろぼし家を失ひ、後生にはあび地獄に入るべしとはしりて候。今現証あるべし。日本国と蒙古との合戦に一切の真言師の調伏を行なひ候へば、日本かちて候ならば真言はいみじかりけりとをもひ候ひなん。但し承久の合戦にそこばくの真言師のいのり候ひしが、調伏せられ給ひし権の大夫殿はかたせ給ひ、後鳥羽院は隠岐の国へ、御子の天子は佐渡の島々へ調伏しやりまいらせ候ひぬ。結句は野干のなきの己が身にをうなるやうに、還著於本人の経文にすこしもたがわず。叡山の三千人かまくらにせめられて、一同にしたがいはてぬ。

 

 

建治3(1277)「四条金吾殿御返事(八風抄)(真蹟断簡)

去ぬる承久三年辛巳(かのとみ)の五・六・七の三箇月が間、京夷の合戦ありき。時に、日本国第一の秘法どもをつくして、叡山・東寺・七大寺・園城寺等、天照太神・正八幡・山王等に一々に御いのりありき。其の中に日本第一の僧四十一人なり。

所謂前の座主慈円大僧正・東寺・御室・三井寺の常住院の僧正等は度々義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日にいくさにまけ、勢多迦が頸きられ、御室をもひ死に死しぬ。かゝる事の候へども、真言はいかなるとがともあやしめる人候はず。をよそ真言の大法をつくす事、明雲第一度、慈円第二度に日本国の王法ほろび候ひ畢んぬ。今度第三度になり候。当時の蒙古調伏此なり。かゝる事も候ぞ。此は秘事なり、人にいはずして心に存知させ給へ。

 

 

◇弘安元年(1278)9月「本尊問答抄」(日興本)

人王八十二代隠岐法王と申す王有しき。去ぬる承久三年太歳辛巳五月十五日、伊賀太郎判官光末を打ち捕りまします。鎌倉の義時をうち給はんとてのかどでなり。やがて五畿七道の兵を召して、相州鎌倉の権大夫義時を打ち給はむとし給ふところに、かへりて義時にまけ給ひぬ。結句我が身は隠岐国にながされ、太子二人は佐渡国、阿波国にながされ給ふ。公卿七人は忽ちにくびをはねられてき。

これはいかにとしてまけ給ひけるぞ。国王の身として、民の如くなる義時を打ち給はんは鷹の雉をとり、猫の鼠を食むにてこそ有るべきに、これはねこのねずみにくらはれ、鷹の雉にとられたるやうなり。しかのみならず調伏の力を尽くせり。所謂天台の座主慈円僧正、真言の長者仁和寺の御室、園城寺の長吏、総じて七大寺十五大寺、智慧戒行は日月の如く、秘法は弘法・慈覚等の三大師の心中の深密の大法・十五壇の秘法なり。五月十九日より六月の十四日にいたるまで、あせをながし、なづきをくだきて行なひき。最後には御室、紫宸殿にして日本国にわたりていまだ三度までも行なはぬ大法、六月八日始めて之を行なふ程に、同じき十四日に関東の兵軍、宇治勢多をおしわたして、洛陽に打ち入りて三院を生け取り奉り、九重に火を放ちて一時に焼失す、三院をば三国へ流罪し奉りぬ。

 

 

◇弘安元年(1278)「閻浮提中御書」(真蹟)

弘法大師後に望んで戯論と作す。東寺の一門上御室より下一切の東寺の門家は法華経を戯論と云ふ。叡山の座主並びに三千の大衆□日本国山寺一同に云はく、□□□□大日経等云云。智証大師の云はく、法華尚及ばず等云云。園城の長吏並びに一国の末流等云はく、法華経は真言経に及ばずと云云。此の三師を用ふる国主終に皇法尽き了んぬ。明雲座主の義仲に殺されし、承久に御室思ひ死にせし是なり。

 

 

◇弘安2(1279)10月「滝泉寺申状」(真蹟)

又風聞の如くんば、高僧等を崛請して蒙古国を調伏す云云。其の状を見聞するに、去る元暦承久の両帝、叡山の座主・東寺・御室・七大寺・園城寺等の検校、長吏等の諸の真言師を請ひ、内裏之紫宸殿にして呪詛し奉る。故源右将軍竝びに故平右虎牙の日記也。此の法を修するの仁は之を行へば必ず身を滅ぼし、強いて之を持てば定めて主を失ふ也。然れば則ち安徳天皇は西海に沈没し、叡山の明雲は死流の失に当り、後鳥羽法皇は夷島に放ち捨てられ、東寺・御室は高山に自ら死し、北嶺の座主は改易の恥辱に値ふ。現罰眼を遮れり。後賢之を畏る。聖人山中の御悲しみは是れ也。

 

 

◇弘安4(1281)88日「光日上人御返事」(真蹟曽存)

去ぬる承久の合戦に、隠岐の法皇の御前にして京の二位殿なんどと申せし何もしらぬ女房等の集まりて、王を勧め奉り、戦を起こして義時に責められ、あはて給ひしが如し。今御覧ぜよ。法華経誹謗の科と云ひ、日蓮をいやしみし罰と申し、経と仏と僧との三宝誹謗の大科によて、現生には此の国に修羅道を移し、後生には無間地獄へ行き給ふべし。此又偏に弘法・慈覚・智証等の三大師の法華経誹謗の科と、達磨・善導・律僧等の一乗誹謗の科と、此等の人々を結構せさせ給ふ国主の科と、国を思ひ生処を忍びて兼ねて勘へ告げ示すを用ひずして還って怨をなす大科、先例を思へば、呉王夫差(ふさ)の、伍子胥(ごししょ)が諫めを用ひずして越王勾践(こうせん)にほろぼされ、殷(いん)の紂王(ちゅうおう)が、比干(ひかん)が言をあなづりて周の武王に責められしが如し。

 

 

◇弘安4(1281)1022日「富城入道殿御返事(弘安の役の事)(門下代筆)

去ぬる承久年中に隠岐の法皇、義時を失はしめんが為の調伏を山の座主・東寺・御室・七寺・園城に仰せ付けらる。仍って同じき三年の五月十五日、鎌倉殿の御代官・伊賀太郎判官光末を六波羅に於て失はしめ畢んぬ。

(以下、朝廷方敗北に至るまでを詳細に記述している)

 

 

 

以上、承久の乱に関する記述を見ましたが、「神国王御書」に

仏法の御力と申し、王法の威力と申し、彼は国主なり、三界の諸王守護し給ふ。此(武士のこと)は日本国の民なり、わづかに小鬼ぞまぼりけん。代々の所従、重々の家人なり」

「而るに日蓮此の事(承久の乱における朝廷側の敗北)を疑ひしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道并びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開き見し勘へ見て候へば、故の候ひけるぞ」

とあるところから、若き日の日蓮は承久の乱を学習することにより、武士(わずかに小鬼が守る日本国の民」「所従」「家人)が君主たる天子(三界の諸王が守護する国主)を倒し処罰してしまったことに驚き疑問を抱き、長年、その答えを求めていたことがうかがわれます。

 

そして、文応元年(1260)に提出した「立正安国論」の諫めが用いられることなく、自身に迫害の牙が向けられる過程で他国侵逼難は文永5(1268)に「西方大蒙古国より我が朝を襲ふべきの由牒状」(安国論奥書)として現実に近づき、朝廷、幕府は諸社寺に異国調伏を命じることになります。

密教による祈祷です。

 

ことここに至り、日蓮は若き日の修学研鑽のきっかけとなった承久の乱にまつわる長年の疑問を、現下の情勢と重ねることにより氷解します。

 

承久3(1221)、鎌倉方調伏の宣旨を下した後鳥羽上皇ら朝廷側と、文永5(1268)以降、蒙古の影に動揺し異国調伏を命じた朝廷、鎌倉幕府は、密教による祈祷に頼るところで軌を一にしていたのです。

 

その時、日蓮が掴み得たものは日本国の天災地変、差し迫る外国勢力による侵略という国家の存亡に関わる二つの事象を、根本から解決する術となるものでした。それが、この文永中期より本格的に始まる東密批判、そして身延入山以降の台密批判となっていくのではないでしょうか。

 

日蓮は承久の乱に関する長年の疑問への答えを「亡国の悪法」たる真言、密教に見出し、以来、密教を批判し続け、それは東密より台密へと至るようになります。

 

このような東密、台密の悪法の根源を見抜くのがいかに難いことか、そのため、いかに多くの僧俗が誑惑(おうわく)されていたことか、日蓮は建治3(1277)823日の「富木殿御書」(真蹟)に「今日本国の八宗並びに浄土・禅宗等の四衆、上は主上・上皇より、下は臣下・万民に至るまで、皆一人も無く弘法・慈覚・智証の三大師の末孫の檀越なり」と記すのです。

 

空海入滅(835年・承和2)以来442年、円仁入滅(864年・貞観6)以来413年という長期間、日本国の人々は「法華経は已今当の諸経の中の第一なり。然りと雖も大日経に相対すれば戯論の法なり」()という空海・円仁・円珍ら三師の教えを信じきたってしまった。

 

佐渡期から身延期にかけ、日本国が亡国の淵にある根本原因を究明した日蓮は東密、台密に「その因有り」として徹底した批判を加えます。その表現の一端が同書の「今日本国の諸人、悪象・悪馬・悪牛・悪狗・毒蛇・悪刺・懸岸・険崖・暴水・悪人・悪国・悪城・悪舍・悪妻・悪子・悪所従等よりも此等に超過し、恐怖すべきこと百千万億倍なるは持戒邪見の高僧等なり」()との痛烈な文言となったのでしょう。

 

続けて自問を設けながら敢えて答えを書かずに、「此等の意を以て之を案ずるに、我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ」()と記述します。

 

空海・円仁・円珍らの悪義がいかに根深く容易には認識し得ないものか、だからこそ真剣なる究明を成さねばならないと強調したところに、密教批判にかける日蓮の熱意が感じられるのです。

 

繰り返しますが、日蓮は「承久の乱」で朝廷側が配流、処罰された真因に「密教の祈祷」ありとしました。今度は日本国が大陸の蒙古の動きに脅えるという事態に、「立正安国論」提出時の一凶たる念仏に加え、東密、そして台密を的として批判を展開します。

 

同時に、それら密教にとって替わるもの、日本国の万民が信ずべきものとして妙法蓮華経の広宣流布の必要を訴え、更に日蓮独自の発案たる妙法曼荼羅の図顕を開始して新たなる展開をしていくのです。

 

2022.11.20