日蓮の一弟子・日興の本尊を拝して
日蓮一弟子の日興・・・
10代で日蓮の門弟となり、20代で師匠の佐渡配流にお供して、30代で富士日蓮法華衆を誕生せしめた妙法弘通に奮闘、それが「熱原の法難」となり師匠の出世の本懐へと至る。
40半ばで身延を離山し、大石寺を創建して50代で重須に移り、以後、後進の育成に心血を注ぐ。
京丹後市の文化財である常徳寺(日蓮本宗)所蔵・日興書写本尊の顕示年月日は正安二年(1300)十月、日興54歳の時ですが、重須開創の永仁6年(1298)から2年後に顕された曼荼羅本尊になります。
日興の弟子・日尊が開基した伊豆の実成寺にある、正安二二年(←実際の書き込み=四年・1302)の日興本尊と常徳寺の本尊は、首題を始めとした曼荼羅の相貌座配の書体が細身になっており、実によく似ています。
冒頭に触れましたように、日興は師匠と艱難辛苦を共にして師の後半生に仕え、妙法弘通故に育ての親とも言える天台宗(台密)四十九院から追放され、即ち師の存命中に「師匠が止暇断眠で考えよとされた、正法が邪教化する所以の実体ともいえる台密」との攻防戦を行い、師亡き後の一弟子・一門の教義解釈の対立・分裂を乗り越え、「いづくにても聖人の御義を相継ぎ進まいらせて世に立て候はん」(原殿御返事)と身延を離山し、大石寺を開創。
その後、ようやくにして重須に腰を落ち着け、令法久住、門下の育成に専念できるようになりましたが、そのような安心感と落ち着きが、「正安二年(1300)」と「正安二二年(四年・1302」の二つの本尊の細やかな筆遣いから感じられますし、流れるような書体からは師の後半生を共にした激闘で心身の疲労が重なるも、「妙法の慈悲の流れは絶やしてはいけない」との弟子の思いが込められているようにも拝されます。
それから僅か6年、伊豆・実成寺所蔵・徳治三年(1308)の本尊を拝しますと、まるで別人のような曼荼羅であることに驚かされます。そのことは延慶3年(1310)に書写された、佐渡本光寺(日蓮宗)所蔵の曼荼羅本尊からもうかがえると思います。
首題は大きく太くなり、四天王も力強い護りとなり、筆遣いの逞しさからは令法久住の盤石と共に、師匠の大願たる法華弘通、一閻浮提広宣流布・立正安国を成し遂げんとの雄渾の気みなぎるものを感じさせます。
日興にとっては、師匠が示した広宣流布は単なるスローガンではなく、真実の相として弟子が成し遂げるものであった。それが日蓮図顕本尊への『本門寺に懸け奉り万年の重宝たるべきものなり』との添え書き、(師匠の本尊を)『広宣流布の時、本化国主御尋有らん期まで深く敬重し奉る可し』(富士一跡門徒存知の事)という教誡、『日蓮聖人の弟子』としての国主諌暁、更には師匠の曼荼羅本尊を書写するという姿勢を以て顕した本尊の筆遣い等から、読み取れるのではないでしょうか。
そこには、身延の草庵で日蓮の法華経講義を受け、その教説を駿河の国富士川流域の一門に語り妙法弘通に励んだ若き日の躍動と誓願、「日蓮をこい(恋)しくをはしせば、常に出ずる日、ゆうべにいづる月ををが(拝)ませ給え。いつとなく日月にかげ(影)をう(浮)かぶる身なり。又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん」(国府尼御前御書 建治元年・1275年6月16日)と師匠が門下を包むように励ました慈悲を、我が身に体現して流れ通わせようとの心が込められていたことでしょう。
さて、生老病死は誰人も免れぬ理(ことわり)。
日興は元弘三年(正慶2年・1333)2月7日に遷化しますが、『御筆止御本尊』と呼ばれる日興の本尊が大石寺に伝来しています。 日興の臨終数日前の正慶2年(1333)1月27日付けのこの本尊の相貌は、筆遣いが枯れているとのこと。
師匠の在世・滅後に関わらず師と共にあり、自らのいのち終わるまで「師匠の本尊」書写を続けた日興。「日蓮仏法の広宣流布とは人に何かをやらせるのではなく、自らがどこまで人のために尽くせるかにかかっているのだ」と、日興の一代を拝して心から思うのです。
2024.4.20