日蓮が「仏教」よりも「仏法」を多用したのは何故か?

 

 

日蓮真蹟遺文中の「仏教」の記述 83

            「仏法」の記述447回→日蓮は「仏教」の5倍以上「仏法」を用いている。

 

 

◇日蓮は「一切衆生が仏に成る法」「一切衆生を仏にさせる法」を探究し、覚知し、弘通した人であった。

故に「法」というものを重んじ、「仏法」を多用したのではないか。

 

 

◇青年日蓮が修学研鑽で得たもの

「法華経が最高の経典である、南無妙法蓮華経を唱えることによる成仏」

法華経最第一という真実と唱題成仏の「法」

 

阿弥陀如来、薬師如来、大日如来や観音菩薩などではなく=爾前権教によるのではなく、久遠実成の釈尊=久遠の本仏のもとへと還る、即ち釈尊出世の本懐とされた法華経信仰に目覚め、南無妙法蓮華経を唱えることにより、みんなが仏と成(ひら)く、更にブッダ・自己の真実に目覚めた人となる、それを現代の言葉でいえば「うつろいゆく縁に動かされない揺るぎなき強き自己の確立」「崩れざる幸福境涯の確立」というものを目指す信仰であり、そのための実践「法」を創唱。

 

 

◇少年日蓮の願い「日本第一の智者となし給え」

善無畏三蔵抄 文永7年(1270) 49歳 義浄房・浄顕房

日蓮は安房国東条郷清澄山の住人なり。幼少の時より虚空蔵菩薩に願を立てて云わく「日本第一の智者となし給え」と云々。虚空蔵菩薩、眼前に高僧とならせ給いて、明星のごとくなる智慧の宝珠を授けさせ給いき。そのしるしにや、日本国の八宗ならびに禅宗・念仏宗等の大綱、ほぼ伺い侍りぬ。

 

 

何のために日本第一の智者となるのか?・・・・・「一切衆生皆成仏道」

そのための法は何か?

一切衆生が仏となるための法は何か?

一切衆生を仏にする法は何か?

⇒少年日蓮より青年日蓮時代の一大テーマ

 

 

その願いと生き方は法華経如来寿量品第十六『毎に自ら是の念を作さく、何を以ってか衆生をして、無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめんと』

いかにして末法の衆生を無上道へと導くかという、久遠仏の常の願いを身で読むものであった。

 

 

◇大いなる開悟と妙法弘通の実践

日蓮が得た答えは、南無妙法蓮華経を繰り返し唱えるというものであった。

専修唱題による成仏(自己の真実に目覚める、崩れざる幸福境涯)

信仰者一人一人が法を会得、実践することにより仏と成(ひら)

それは導師と共に実践する「法」であった=仏になる法

導師のもとにひざまずき、本尊にすがるという信仰=「仏の教えに頭を垂れて仏にお任せする信仰」とは対極のものであった。

 

仏と衆生の間の取次者のもとで教えを受けるという意味での「仏教」よりも、一切衆生が仏になるための「法」が肝要である、即ち「仏法」である。

導師も信奉者も皆が実践、皆が仏に。

 

 

 

《 大いなる開悟と妙法弘通の実践 》

 

開目抄上 文永9年(12722

日本国にこれをしれる者、ただ日蓮一人なり。

 

諫暁八幡抄 弘安3年(128012

今、日蓮は、去ぬる建長五年癸丑(みずのとうし)四月二十八日より今弘安三年太歳庚辰(かのえたつ)十二月にいたるまで、二十八年が間、また他事なし。ただ妙法蓮華経の七字五字を日本国の一切衆生の口に入れんとはげむばかりなり。これ即ち、母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり。

 

 

 

《 日蓮仏法・衆生が仏に成る法、衆生を仏にする法》

 

・日妙聖人御書  文永9年(1272525

「今此三界(こんしさんがい)、皆是我有(かいぜがう)、其中衆生(ごちゅうしゅじょう)、悉是吾子(しつぜごし)・ 法華経譬喩品第三」(今この三界は、皆これ我が有なり。その中の衆生は、ことごとくこれ吾が子なり)これなり。

我等具縛(ぐばく)の凡夫忽(たちま)ちに教主釈尊と功徳ひとし。彼の功徳を全体うけとる故なり。経に云はく「如我等無異」等云云。法華経を心得る者は釈尊と斉等なりと申す文なり。

譬へば父母和合して子をうむ。子の身は全体父母の身なり。誰か是を諍(あらそ)ふべき。牛王(ごおう)の子は牛王なり。いまだ師子王とならず。師子王の子は師子王となる。いまだ人王天王等とならず。

今法華経の行者は「其中衆生、悉是吾子」と申して教主釈尊の御子なり。教主釈尊のごとく法王とならん事難(かた)かるべからず。但し不孝の者は父母の跡をつがず

 

 

・法蓮抄 建治元年(1275)4

今、法華経と申すは、一切衆生を仏になす秘術まします御経(おんきょう)なり。いわゆる、地獄の一人、餓鬼の一人、乃至九界の一人を仏になせば、一切衆生皆仏になるべきことわり顕(あらわ)る。譬えば、竹の節を一つ破()りぬれば、余の節また破るるがごとし。囲碁と申すあそびにしちょうということあり。一つの石死しぬれば、多くの石死しぬ。法華経もまたかくのごとし。金(かね)と申すものは木草(きくさ)を失う用(ゆう)を備え、水は一切の火をけす徳あり。法華経もまた一切衆生を仏になす用おわします。

 

 

・白米一俵御書(はくまいいっぴょうごしょ) (事理供養御書)

建治年間

たゞし仏になり候事は、凡夫は志ざしと申す文字(もんじ)を心へて仏になり候なり。志ざしと申すはなに事ぞと、委細(いさい)にかんがへて候へば、観心の法門なり。観心の法門と申すはなに()事ぞとたづ()ね候へば、たゞ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が、身のかわ()をはぐにて候ぞ。う()へたるよ()に、これはな()しては、けう(今日)の命をつぐべき物もなきに、たゞひとつ候ごれう(御料)を仏にまいらせ候が、身命を仏にまいらせ候にて候ぞ。

 

 

《 日蓮の仏法は日本の仏法へ 》

 

弘安312月「諌暁八幡抄」 真蹟

天竺国をば月氏国と申す、仏の出現し給ふべき名也。扶桑国をば日本国と申す、あに聖人出で給はざらむ。月は西より東へ向へり。月氏の仏法の東へ流るべき相也。日は東より出づ。日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり。

 

 

意訳

天竺国を月氏国(インド)という、釈尊(その教理的実体は妙法蓮華経如来寿量品第十六に説示される久遠実成の仏、即ち久遠の本仏・久遠仏)が出現した国名である。扶桑国とは日本国という、どうして聖人が出現しないことがあろうか。月が西から東に向かうのは、月氏国(インド)発祥の仏法が東へと流布する相である。日が東から出るのは、日本の仏法が月氏国(インド)へ還るという瑞相である。

 

 

一切衆生を「仏にする法」「仏に成る法」である「日蓮の仏法」が、「日本の仏法」へ。

 

2024.7.7