日蓮~法華経の行者、上行菩薩、末法の教主

1 法華経の行者と上行菩薩、末法の教主

 

文永元年(1264)1111日、日蓮は安房の国東条松原で地頭・東条景信らの襲撃を受け額に傷を負い、弟子らも死傷という惨事になります。翌1213日、駿河の国の檀越・南条兵衛七郎に報じた「南条兵衛七郎殿御書」(真蹟断片)では、法難の模様を記しています。

 

念仏者は数千万、かたうど(方人)多く候なり。日蓮は唯一人、かたうど(方人)一人これなし。いまゝでもいきて候はふかしぎ(不可思議)なり。今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして、申酉(さるとり)の時、数百人の念仏等にま()ちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものゝ要にあふものわづかに三四人なり。い()るや()はふ()るあめ()のごとし、う()つたち(大刀)はいなづま()のごとし。弟子一人は当座にう()ちと()られ、二人は大事のて()にて候。自身もき()られ、打たれ、結句にて候ひし程に、いかゞ候ひけん、う()ちも()らされていま()ゝでい()きてはべり。いよいよ法華経こそ信心まさりて候へ。(P326)

 

文中、日蓮は自らを「法華経の行者」と称することについて以下のように記します。

「法華経の故にあや()またるゝ人は一人もな」(P327)く、経文を「唯日蓮一人こそよ()」んだ故に、「日蓮は日本第一の法華経の行者也」と。

 

それから7年が過ぎ、文永8(1271)912日の竜口の虎口を脱して佐渡に配流されて以降、「法華経の行者」との自称に加え、直接的な表現は避けながらも自己をして「上行菩薩」であると譬えたり、謙譲しながら暗示する表現が増えるようになります。

 

その心は、自己独創の曼荼羅本尊を顕し門下に授与したというその行いからして、末法の教主というべきでしょう。仏菩薩像を礼拝させるのではなく、自らが顕した本尊に礼拝させるのですから、図顕するその人こそ、万人成仏の本尊を顕すに相応しい人、即ち教え主・教主だったのです。

 

観心本尊抄で「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ(P720)と記しながら、自らがその仏の行いをなしたことが、日蓮をして「日蓮は末法の教主である」と自覚していたことがうかがわれるのではないでしょうか。

 

しかしながら、忍難弘通の日蓮に供をした門下といえども、その信仰、法門理解は様々であり、信解の浅深があるのは当然であるといえるでしょう。

 

そのような機根を踏まえれば、日蓮自らが直に末法の教主として教示することはなく、門下の法門理解に応じた表現である「法華経の行者」「上行菩薩」を多用したことは理の当然ではないでしょうか。

 

 

2 再誕・化身伝説~偉人、宗教者の場合

 

日蓮以前の時代を見れば、他に抜きんでた偉人、祖師、聖者等を仏菩薩の垂迹とする思想が定着していました。

 

「和漢王代記」(P2351 建治2[1276] 真蹟断片)に「厩戸王子―四天王寺を造る」「聖徳太子は用明の御子也」「上宮太子守屋を切り四十九院を立つ。南岳大師の後身也。救世観音の垂迹也。」とあるように、聖徳太子は一説では中国・南岳大師慧思(515577・中国天台宗二祖、智顗の師)の後身とされ、観音菩薩の垂迹と広く崇められていました。

 

弘法大師空海は大日如来の化身、新義真言宗の祖・覚鑁(かくばん)は阿弥陀仏の化身とされました。法然房源空は「立正安国論」で「法然聖人は幼少にして天台山に昇り(中略) 或は勢至の化身と号し、或は善導の再誕と仰ぐ(P217)と旅客が語るように、阿弥陀仏の脇に立つ勢至菩薩の化身であり、中国の善導の再誕とも仰がれます。弟子の親鸞は同じく阿弥陀の脇士、観音菩薩の化身と崇められます。

 

天台法華宗では、伝教大師最澄は薬師如来の垂迹であり、天台大師智顗の後身とされていました。

 

 

3 再誕・化身伝説 鎌倉幕府執権の場合

 

神話世界の人物が再誕することもあります。

「古事記」「日本書紀」に出てくる武内宿禰(たけうちのすくね)は、古墳時代の12代景行、13代成務、14代仲哀、15代応神、16代仁徳の5代の天皇に仕えたとされる人物です。

 

父は8代孝元天皇の皇孫で屋主忍男武雄心命(やぬしおしおたけおごころのみこと)、木国造(紀伊国造)の女・影媛を母とします。年齢は280295306312360歳のいずれかといわれる異常な長命です。実在、非実在様々な説があるようですが、人間がそんなに生きられるわけはありませんので、実在としても一つの職にあった者が同名を継承したか、または父子が同名を継承したものでしょう。

 

景行天皇の時には棟梁之臣(とうりょうのおみ)、成務天皇の時代からは大臣(おおおみ)として国政を補佐したとされます。蘇我、紀、巨勢、平群、葛城等、中央豪族の祖ともされていますが、一人の人物としての武内宿禰はやはり伝説上の人というべきでしょう。

 

今日にあっては神話・伝説世界の人物である武内宿禰ですが、中世人にとっては天皇に仕える忠臣として「実在した武内宿禰」であり、鎌倉時代、彼の再誕とされたのが鎌倉幕府2代執権である北条義時です。

 

伊賀守橘成季(たちばなのなりすえ)の編纂により、建長6(1254)10月頃に成立した説話集「古今著聞集」の巻一「神祇」には、武内宿禰が北条義時として再誕する話が収められています。

 

意訳

今となっては名を忘れてしまったが、ある人が八幡神社に参拝した時のことだ。

その方が一晩お籠りして祈願している時に夢心地となった。そんな時に、拝殿の扉が忽然と開かれ、今まで聞いたこともないような声が聞こえてきた。

「武内」

その声は尊く気高くも、語気鋭く叫ばれた。すると不思議なことに、どこにいたのだろうか、白髪の老翁が神前に進み出て畏まり座ったのだ。老翁の髪は身長と同じくらい、姿は僧形ではなく俗体である。老翁が神前で畏まっていると、再び声が響いた。

「今、まさに世は乱れようとしている。汝、しばらく時政の子となって乱れを鎮め、世を治めよ」

尊い声がこう命じられると老翁は、

「承りました」

と答えたが、そこで私は夢から覚めて我に返った。このような夢はただ事ではなく、察するに、北条義時は八幡神の命を受けられた武内宿禰の生まれ変わりでいらっしゃるのであろう。

 

というものですが、この話の源は、鎌倉幕府の覚えをよくしようとした八幡神社(石清水八幡宮か)によるものとも考えられますし、また幕府にとっては義時とそれに続く北条執権の正統性を示すものにもなります。更には承久の乱で事実上、朝敵となりながらも後鳥羽上皇とその軍勢を破った北条義時が、実は天皇に仕えた忠臣・武内宿禰の再誕であったということになれば、乱での戦いに正当性を持たせることにもなり、都合のいい話だったことでしょう。

 

鎌倉時代末期には、「北条義時は武内宿禰の再誕である」との伝説が広まっていたことがうかがい知れる資料として「平政連諌草(たいらのまさつらかんそう)」のあることが、細川重男氏の著作「北条氏と鎌倉幕府」(2011 講談社)で紹介されています(P84)

 

徳治3年・延慶元年(1308)、中原政連が9代執権・北条貞時を諌めるために内管領・長崎宗綱宛てに提出した書、「平政連諌草」の一説を細川氏の教示によって確認してみましょう。

 

なかんづく先祖右京兆員外大尹(うけいちょういんがいだいいん)は武内大神の再誕、前武州禅門(さきのぶしゅうぜんもん)は救世観音の転身、最明寺禅閣(さいみょうじぜんかく)は地蔵薩埵(じぞうさった)の応現

 

2代執権・北条義時の官名である右京権大夫(うきょうごんのだいぶ)の唐名が右京兆員外大尹で、彼は武内大神=武内宿禰の再誕。前武州禅門は3代執権・北条泰時(義時の長男)のことで、こちらは救世観音の転身。最明寺禅閣は5代執権・北条時頼(泰時の孫)のことで、彼も地蔵薩埵の応現とされています。

 

このような「再誕、化身、後身」伝説は鎌倉幕府の正統性と正当性を証するものとなり、人心掌握にも大いに役立ったことでしょう。これが宗教者の場合は、その人物の徳を高めることに一層貢献したに違いありません。

 

尚、細川氏の「北条氏と鎌倉幕府」では「中世神話創出の構造」と題して、武内宿禰再誕伝説の背景を詳細に考察されています。

 

 

4 そして日蓮

 

日蓮は「聖人垂迹、後身、化身の思想」を継承する一天台僧として修学研鑽に励み、やがて法華勧奨・妙法弘通を開始しています。法華経伝道の過程では、経文に説かれる受難の予言と我が身に起きた迫害の符号に、自らと経典中の菩薩に重なるものを見出したことでしょう。

 

その脳裏には上記思想もあったことと思われます。

日蓮にとって「法華経の行者」を、そして「上行菩薩」を意識し、重ね合わせるまでに至らせたのは法華経の経文、特に「勧持品二十行の偈」を身業読誦した、身口意の三業で法華経を読んだという自負心によるものだったのではないでしょうか。

 

本尊問答抄(日興本)

日本国、或は口には法華最第一とはよめども、心は最第二・最第三なり。或は身口意共に最第二・三なり。三業相応して最第一と読める法華経の行者は四百余年が間一人もなし。まして能持此経の行者はあるべしともおぼへず。(P1580)

 

佐渡期以降の日蓮は、末法に誕生した自立せし法華経の行者として「安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号()づく」(P743 顕仏未来記 真蹟曽存)としながらも、「上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字」(P816 法華取要抄 真蹟) を弘める者、即ち二千二百数十年間の諸師を飛び越えて釈尊=久遠の仏と共に在る「上行菩薩」を文の表に現わし、一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ(P720 観心本尊抄 )と、仏の振る舞いを末法の世に顕す教主として曼荼羅の図顕・授与を行い、自身の化導・教示・曼荼羅図顕により久遠仏の慈悲の体現者として、信仰の清流を通わせていくようになるのです。