「教学要綱」批判の根拠となる寺院教学・門流教学は創作話の山であり夢物語である

 

第二次宗門問題発生時より今日に至るまで、「創価学会から見た日蓮正宗」「日蓮正宗から見た創価学会」を以下に、簡潔にまとめます。

 

創価学会から見た日蓮正宗

牧口、戸田、池田の三代会長をはじめ全学会員が50年の長きに亘り、日蓮正宗へ外護の赤誠を尽くしてきた。戦時中の国家権力による学会弾圧、牧口初代会長の獄死、戸田会長の出獄から始まる再建と75万世帯の達成。池田会長誕生よりの劇的な会員世帯増加、言論問題、国立戒壇の撤廃、池田会長の発願による正本堂建立と妙信講問題。続いての、一部活動家僧侶による学会批判への対応と池田会長の辞任。

この間の三代会長と創価学会の功績、また艱難辛苦は言葉で言い表せないほどのものがある。

ところが、日顕管長が池田名誉会長と創価学会に対して批判的な姿勢となり、平成2年末、突如として池田名誉会長の法華講総講頭を罷免し、話し合いを拒み、翌年には大功労者たる池田名誉会長と創価学会を破門にした。平成3年初頭より信徒達は脱会者つくりに励むなど、それまでの、学会の宗門外護に対する背信行為を次々と行い、破和合僧、仏法破壊を重ねた。

創価学会を破門する前後の宗門・僧侶や信徒の言動は、「日蓮正宗は法主・血脈信仰の権威を以て信徒を従えさせようとする宗教になった」と確信させるのに十分なものがあり、創価学会は破門等に惑わされずに、それを契機として、日蓮大聖人直結・御書根本を旨とする大聖人正統の和合僧となったのである。

平成5年からは御本尊の下付を始めることができ、日蓮大聖人の御遺命たる一閻浮提広宣流布・立正安国を目指して、日蓮大聖人直結・御書根本の正道を歩んでいるのだ。会則の教義条項改正も成り、会憲、社会憲章も制定し、名実共に釈尊・日蓮大聖人正統の在家仏教教団として、世界宗教へと大きく飛躍する時を迎えているのだ。

 

 

日蓮正宗から見た創価学会

創価学会は日蓮正宗の一信徒団体の立場を逸脱し、自分達がさも中心であるかの言動を始めた。平成に入った頃に、正信会破折に事寄せて展開された、池田名誉会長の本部幹部会等における猊下・僧侶に対する批判がそれである。

平成2年12月に池田名誉会長が総講頭を罷免されたのは当然であり、それに対し、機関誌を使っての凄まじいばかりの日蓮正宗・御法主上人猊下誹謗を始め悪態の限りを尽くし、結果破門されたのも至極であろう。

日蓮大聖人は唯授一人血脈相承を日興上人になされ、仏法の一切を附属し、その後師弟相対して今日まで、日蓮大聖人の仏法は唯一富士大石寺にのみ継承されてきたのだ。現代の門下は御法主上人猊下へ信伏随従してはじめて血脈の法水が通い、その利益に潤うことができるのだ。

破門された創価学会に日蓮大聖人の血脈法水は通わず、ましてや誹謗中傷の限りを尽くす邪教・創価学会に仏罰が続出するのは因果応報であろう。

日蓮大聖人の御法門の一切は、御法主上人猊下お一人のみの御内証にあるのであり、故に教義・本尊に関する権能もそこに存するのである。創価学会が勝手に下付している日寛上人書写の本尊は、日寛上人が血脈法水の上から認められ一僧侶に授与されたものであり、それを猊下の許可・開眼なく配布するのはニセ本尊流布となるのであり、日本国亡国の因ともなる仏法上の恐るべき悪行である。ましてや近年では、教義を改変し、いよいよその邪教化には拍車がかかっており、血脈なき創価学会は一新興宗教であり邪宗教化が止まらなくなっているのだ。

 

 

一読しても分かるように、日蓮正宗には強固なる正統意識があります。

このような日蓮正宗の高みから見下すが如き、傲然ともいえる「本家、嫡流、正統意識」というのはどこから湧いてくるものなのでしょうか?

 

ズバリ、「板本尊信仰・血脈信仰」といえるでしょう。

 

では、その実態はどのようなものでしょうか?

 

板本尊(本門戒壇の大御本尊)信仰・・・何時、どこで、誰が板本尊を造立したのか。

日蓮直造との証拠、それをうかがわせるような根拠はどこにもなく、日蓮滅後数百年の時が経ってから喧伝されるようになった日蓮系一寺院の自称・日蓮出世の本懐たる板本尊です。

もちろん日蓮出世の本懐たる証拠もありません。

ただ、その相貌は、「観心本尊抄」の本尊相貌段に連なる「南無妙法蓮華経の御本尊」ですから、いわゆる偽作などではなく、御本尊であることには変わりありません。

証拠も根拠も示せない現在は、板本尊は御本尊ではあるが、日蓮が造立に関わったとはいえないということです。

(創価学会では板本尊(本門戒壇の大御本尊)を「弘安二年の御本尊」と呼称変更して、「受持の対象にしない」としており、板本尊が何時造立されたか等の立ち入ったことには触れていません)

 

血脈信仰・・・・日蓮真蹟実在なしが決定的であり、以下、結論のみ記します。

 

・唯授一人金口嫡々血脈相承⇒「宗祖御遷化記録」(日興筆)にあるように、日蓮は入滅前に一弟子六人を選定しており(六老僧)、和合僧による一門と法の継承、広宣流布を期していました。「特定の一人のみを選んで仏法の一切を授ける」などの相承は行っていません。

 

・歴代法主の内証に相伝される法体の血脈・金口の血脈⇒ありません

 

・二箇相承書(身延相承書・池上相承書)⇒偽書

 

・御本尊七箇相承⇒偽書

 

・本因妙抄⇒日蓮・日興滅後の書

 

・百六箇抄⇒日蓮・日興滅後の書

 

・十二箇条の法門⇒「表現がある」だけで中味・実態がありません

 

・日蓮本仏論⇒中古天台恵心流口伝法門と類似性

《 中古天台恵心流と大石寺・日寛による日蓮本仏説を対照 》

止観勝法華劣⇔文底勝文上
寿量品の内証⇔寿量品の文底
自受用報身・天台⇔自受用報身・日蓮
七箇の大事⇔七箇の大事
切紙相承⇔切紙相承
本因行の能化⇔本因妙の教主
嫡流一人秘すべし⇔唯授一人秘すべし
五百塵点最初⇔五百塵点当初

 

 

日蓮正宗の強固なる正統意識の背景には「板本尊信仰・血脈信仰」がありましたが、その証拠・根拠になると「日蓮真蹟は・・・・ない!」というのが実態であり、彼らは正統性と相承書なるものの実在を裏付けようとするために「解釈論」を延々と積み上げてはいますが、他の寺院の写本を使用せざるを得ない状態であり、真蹟を議論の俎上に載せての検討ができないため話の前提が成立しないというべきでしょう。

 

「日興門流の教学」という観点で見ても、日興滅後ほどなくして一番弟子ともいうべき人達が「広宣流布のときは戒壇に仏像を安置する」との構想を文書に残しており、他の弟子たちについても推して知るべしではないでしょうか。

 

令和5(2023)1118日に発行された「創価学会教学要綱」について、「教義が変わった」という向きもありますが、「教学要綱」は従来の教義を変更というよりも釈尊・日蓮という原点に還り、本来の仏教、日蓮仏法を鮮明にした待望の教典であり、新時代を創りゆく未来への原点たる教典といえるのではないでしょうか。

 

まさに、時の流れにはそれ自体に力が宿っているといえ、平成2年(1990)末の第二次宗門問題発生より33年間で会員諸氏の仏教に対する認識と理解は昇華され、本当は誰が作り上げたのか誰も答えられないが目に見えざる抑圧の力となり、多くの人々の信仰を縛り付け、思考に限界と停止をもたらすものとなっていた日蓮系一寺院教学との明確なる決別を求める声と機運は高まり、時代の民衆の求めに応じるようにして出来したのが「創価学会教学要綱」だと思います。

 

教理的原点回帰ですから700年という時空間を超えたものとなり、鎌倉時代という古きに還るようでいて何故か新鮮、一方、新しいようでいて実はそれが本来の姿であったといえるものであり、そこには、2200(日蓮が生きた鎌倉時代の学問的認識)の遥かなる時を超えて永遠の仏・久遠実成の釈尊に還り、古き経典・法華経より南無妙法蓮華経を繰り返し唱える専修唱題という新しき万人成仏の法を創唱した、久遠仏直参信仰の導師・日蓮と重なるものがあるのではないでしょうか。

 

自らの意志により立ち上がり、道なき道を切り開き、自己の真実に目覚める(成仏の)法・南無妙法蓮華経を高らかに唱えてきた和合僧の友は意気軒昂にして、その姿には末法五濁悪世を仏の住む常寂光土へと転じゆく庶民の逞しさを感じます。

 

「坊さん?何それ!何年前の話よ。坊さんに拝んでもらわなければ成仏できないとか、お山で大御本尊を拝まないと成仏できないとか、そんなのあるわけないでしょ。うちのお父さんは学会からいただいた御本尊様を一生懸命拝んでねえ、病気にも負けないで、みんなに感謝しながら安らかに旅立ったんだよ、笑顔でねぇ。」

座談会終了後のお茶のみ懇談タイムでの、年配の女性部の一言が寺信心(日蓮系一寺院教学)を根底からバッサリと破折しており、その光景が平成10年代に入ったばかりだったことを記憶しています。

 

問題発生から10年という早い段階で、和合僧総体の宗教革命は成っていたのです。

 

そこには一切の矢面に立たれて万の矢を一身に浴びる師匠の姿、いつも会員の幸福を願ってやまない師匠の奮闘があったことを忘れてはなりません。「和合僧が最も困難な時に会員を励まし続けた師匠の姿・振る舞い」こそは、私達和合僧が継承せねばねらない「永遠の記憶」だと思うのです。

 

釈尊と日蓮仏法への原点回帰は、日蓮系一寺院教学という結局は貫主への信伏随従と寺院参詣を促す材料と堕している中途成立の添加物をバッサリ切り落とすことになり、同時に私達和合僧が尊信すべき三宝も明らかとなりました。

 

 

大いなる世界宗教へと飛翔する原点の時代にめぐり合わせ、妙法弘通に励める喜び。これこそ「今生人界の思い出」といえるのではないでしょうか。

 

2024.9.23