「教学要綱」に対する批判について 1

 

①「教学要綱」では、日蓮を釈尊の使いに貶めている!

 

釈尊の使いたることは日蓮自らが明言しています。

 

撰時抄

仏の御使いとして南無妙法蓮華経を流布せんとする(日蓮)

 

神国王御書

教主釈尊・多宝・十方の仏の御使いとして、世間には一分の失なき者(日蓮)

 

北条時宗への御状

日蓮が申すこと御用いなくんば、定めて後悔これ有るべし。日蓮は法華経の御使いなり。

 

種々御振舞御書

日蓮御勘気をかぼらば、仏の御使いを用いぬになるべし。

 

日蓮は幼若の者なれども、法華経を弘むれば釈迦仏の御使いぞかし。 

 

 

②日蓮を上行菩薩どまりに貶めている!

 

日蓮は自らを上行菩薩としています。

 

万年救護本尊讃文 意訳

大覚世尊(釈尊)が入滅された後、二千二百二十余年が経歴するが、月漢日(インド、中国、日本)の三ケ国に未だなかった大本尊である。日蓮以前、月漢日の諸師は、或いはこの大本尊を知って弘めず、或いはこれを知らなかった。
我が慈父=釈尊=久遠の本仏は仏智を以て大本尊を隠し留め、末法の為にこれを残されたのである。後五百歳の末法の時、上行菩薩(日蓮のこと)が世に出現して、初めてこの大本尊を弘宣するのである。
  

 

 

法宝を南無妙法蓮華経という法のみにして、御本尊がないのはおかしい!

 

法華経の肝心が南無妙法蓮華経である故に、南無妙法蓮華経を法宝というとき、そこには法華経も包摂されています。

同時に、南無妙法蓮華経をかたちとして顕したのが御本尊である故、そこには御本尊も包摂されているといえるでしょう。

 

 

南無妙法蓮華経が法宝であるというのは人法一箇の否定になる!

 

日蓮遺文には人法一箇という記述はなく、特にこだわるべき用語とはいえません。

私達は御本尊の南無妙法蓮華経と日蓮を見つめながら拝しているのであり、その信仰姿勢だけで十分ではないでしょうか。 

 

 

日蓮を仏として敬った日興を僧宝から外し、僧宝を創価学会とするのはおかしい!

 

⇒SOKAnetの教学入門(教義)には、

『大聖人御入滅後、日興上人はただ一人、大聖人の不惜身命の広宣流布の精神と行動を受け継がれました』とあり、改めて僧宝を明示しなくとも日蓮仏法的に、日興は模範的存在として位置付けており、それで十分というべきでしょう。

  

また、日興の書状などに師匠日蓮を「仏」と表現する箇所もありますが、それらは故人となった師匠を敬う一表現と読み解けるものであり、久遠実成の釈尊(久遠の本仏)と同列または本仏が久遠実成の釈尊(久遠の本仏)から師匠日蓮に替わったという記述、即ち「日蓮本仏思想、または日蓮本仏論」とは、とても読めないのではないでしょうか。

 

2024.7.7