天台沙門と称した日蓮が「文永の役」を契機に、凄まじいまでの台密・天台批判に転じているが、その見事なる意識・思考の切り替えに続くのは今、まさにこの時

 

「教学要綱」や男子部教学室の『「教学要綱」は創価ルネサンスの集大成』を読んで反発したり批判されている方は、『意識・思考の切り替え』を急がれた方がいいと思います。

 

平成3(1991)に、和合僧たる創価学会が寺院教学を根幹とする一宗派から破門なるものをされた段階で、「板本尊絶対信仰」「血脈信仰」「法主信仰」=「神話に満ちた寺信心」という寺院教学の正体が露呈されており、それから33年も経っているのですから、「寺院教学の神話の正体」と向き合う時間は十分すぎるほどありました。

 

和合僧は巨大教団であり多様性を包摂しているので、その教義の見直し展開には慎重を期して時間が必要なことは当然です。一方、この間、「板本尊絶対信仰」「血脈信仰」「法主信仰」等の寺院教学を旨とする宗派からの批判内容はおぞましいものとなり、和合僧授与の御本尊に対して「猊下の開眼なきニセ本尊」「魔神の札」「ニセ本尊礼拝は精神に悪影響」「大量コピーニセ本尊は悪鬼の住処」等、聞くに耐えない醜悪なレベルにまで達しております。

その背景には、「神話に満ちた寺信心」が信仰的な骨格・柱となっており、それが確信にまで高められているわけですから、和合僧が「神話に満ちた寺信心」を批判しながら決別するのは当然すぎるくらいに当然のことといえるでしょう。

 

ここで日蓮という原点に立ち返ってみれば、日蓮一代の弘教展開には、その『意識・思考の切り替え』の素早さ、見事さには驚くものがあるといえます。

 

「立正安国論」提出時の日蓮は「天台沙門」と名乗り(玉澤妙法華寺蔵・「立正安国論」日興写本)天台僧たる立ち位置でしたが、第一次蒙古襲来(文永の役)を契機に凄まじいまでの台密・天台批判に転じて(文永111120日「曽谷入道殿御書」[真蹟]より)、それは最晩年まで続きました。日蓮の天台批判と時を同じくして、富士川流域の天台寺院・四十九院の供僧職であった日興の法華勧奨、妙法弘通は勢いを増し、日興を通して日蓮に連なる一門の活動が活発化しています。

 

天台寺院の人々に育まれながらも、師匠の天台批判と心を合わせるようにして天台寺院、高僧らと相対するようになった日興。ここに見事な師弟の呼吸を感じますが、日興の奮闘は四十九院、滝泉寺、実相寺等の富士川流域の人々を結集し、「富士日蓮法華衆」ともいうべき一団がかたち作られるようになります。これが後の「弘安2年の熱原法難」へと至るわけですが、では、他の日蓮一弟子と天台の関わりはどのようなものだったのでしょうか?

 

鎌倉にあった日昭、日朗や房総の日向、身延と下総を往来したであろう日頂も然り、彼らには師匠の天台批判に連なるような、また日興のごとき本格的な天台勢との対決というものはなく、日興以外の一弟子達には「立正安国論」提出時の師匠の名乗りたる「天台沙門日蓮」が生き続けたのではないかと思われます。故に師匠亡き後の「申状」に、天台沙門日昭、天台沙門日朗との名乗りが記されたのではないでしょうか。

 

日昭、日朗等、日興以外の一弟子にしてみれば師匠と同じく天台沙門と名乗っただけであり、何ら問題意識はなかったことでしょう。ここにおいて、師匠と呼吸を合わせての『意識・思考の切り替え』の大切さというものが学べますし、それは今日の私達にも当てはまるものが多々あるのではないでしょうか。

 

 

並べてみましょう。

「お師匠様も天台沙門と称して立正安国論を提出したのだから、我らも天台沙門と名乗って何がおかしい!」

「創価3代が日寛教学、日興門流の教学に依拠してきたのだから、我らも日興門流教学を用いるのは当然だ!」

 

 

前者は「蒙古襲来を契機とする師匠日蓮の批判対象の切り替え、台密・天台批判の激しい高まり」が抜けて飛ばされており、後者は「その門流教学の解釈論に依り創価学会を破門し、脱会者作りを行い、創価の御本尊を、口を極めて批判してきた。多くの会員を苦しめてきた」という最も重要なことが抜けています。

 

「教学要綱は3代の指導と違うではないか!日興門流の教学に帰れ!戻れ!教学要綱を撤回せよ!」等と同じところに留まって停滞しているのではなく、「日蓮が如く」に『意識・思考の切り替え』をしっかりと行い、新たなる展開を期していくところに「未来を創る弟子の道」があるのではないでしょうか。

 

2024.11.2