「国主帰依の本尊」一考~久遠仏三界国主論
1日蓮は国主帰依の本尊としてどのようなものを考えていたのか?
日蓮の勘文=立正安国論(文応[ぶんおう]元年・1260年、7月16日)が受け入れられて、得宗・(前の第5代執権)北条時頼を始めとして、執権、連署、評定衆、引付衆などの幕府高官達が法華経受持に及んだ時、日蓮は何を本尊とするつもりだったのでしょうか?
この当時の日蓮の本尊観を知ることは、日蓮滅後の弟子達の分裂の一因となった「本尊問題」の一端の究明にもなると思われ、決して意味のないことではないと思います。
まず、「立正安国論」の意とするところは、「若し先づ国土を安んじて現当を祈らんと欲せば、速やかに情慮を廻(めぐ)らし怱(いそ)いで対治を加へよ」(定P225)であり、具体的には一切の災難の根源である謗法=念仏への供養の停止と帰依を断つことです。
主人の曰く、客明らかに経文を見て猶(なお)斯(こ)の言(ことば)を成(な)す。心の及ばざるか、理の通ぜざるか。全く仏子を禁むるに非ず、唯偏に謗法を悪(にく)むなり。夫(それ)釈迦の以前の仏教は其の罪を斬ると雖も、能仁(のうにん)の以後の経説は則ち其の施を止(とど)む。然れば則ち四海万邦一切の四衆、其の悪に施さずして皆此の善に帰せば、何なる難か並び起こり何なる災か競ひ来たらん。(定P224)
そして法然浄土教を禁断し、国主が法華経信仰に目覚め日蓮を登用し、「国中安穏・天下泰平」を願うことです。
主人の曰く、余は是(これ)頑愚(がんぐ)にして敢(あ)へて賢(けん)を存(そん)せず。唯経文に就いて聊(いささか)所存を述べん。抑(そもそも)治術(ちじゅつ)の旨、内外(ないげ)の間(かん)、其の文幾多ぞや。具(つぶさ)に挙ぐべきこと難し。但し仏道に入りてしばしば愚案を廻(めぐ)らすに、謗法の人を禁(いまし)めて正道(しょうどう)の侶(ともがら)を重んぜば、国中安穏にして天下泰平ならん。
(定P220)
更には為政者が法華経を信仰することによる日本国の仏国土化です。
汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰へんや。十方(じっぽう)は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば身は是安全にして、心は是禅定ならん。此の詞(ことば)此の言(ことば)信ずべく崇むべし。(定P226)
「立正安国」の実現は諸経に照らして一国の猶予も許されないことであり、権力者の我が身一身のみの安泰などは有り得ないと日蓮は諌めます。
他方の賊来たりて其の国を侵逼(しんぴつ)し、自界叛逆(じかいほんぎゃく)して其の地を掠領(りゃくりょう)せば、豈(あに)驚かざらんや豈騒がざらんや。国を失ひ家を滅せば何(いず)れの所にか世を遁(のが)れん。汝(なんじ)須(すべから)く一身の安堵を思はゞ先ず四表の静謐(せいひつ)を祈るべきものか。(定P225)
ここまで為政者に対して法華勧奨をしながら、「彼らが帰命すべき本尊を日蓮は考えていなかった」ということは考えられないのではないでしょうか。
2 北条一門の信仰
当時の北条一門の主要人物を概観してみましょう。
北条時頼は宝治2年(1248)、禅僧・道元を鎌倉に招いています。建長5年(1253)11月、南宋より渡来の禅僧・蘭渓道隆(らんけいどうりゅう・大覚禅師)を招き建長寺を創建。続いて同じ南宋の渡来僧・兀庵普寧(ごったんふねい)を招じて建長寺2世として師事、参禅してその教えを受けています。
ちなみに、建長寺では地蔵菩薩を本尊としていますが、兀庵普寧は「自己より下位たる地蔵菩薩の礼拝はなさず」としていたことが伝承されています。
建長寺参山門(三門) 安永4年(1775)上棟
仏殿の地蔵菩薩坐像 室町時代作
法堂の千手観音坐像と釈迦苦行像
建長寺・梵鐘の銘文
『建長七年卯乙(きのとう)二月二十一日 本寺大檀那相模守平朝臣(たいらのあそん)時頼 謹勧(きんかん)千人同成大器 建長禅寺住持宋沙門道隆 謹題都勧進監寺僧琳長 大工大和権守(やまとごんのかみ)物部重光(もののべのしげみつ)』
鶴岡八幡宮近くにある道元禅師顕彰碑
北条時頼と子の時宗は、日蓮が「守護国家論」で「禅宗等の人云く『一代聖教は月を指す指・天地日月等も汝等(なんだち)が妄心より出でたり十方の浄土も執心の影像なり釈迦十方の仏陀は汝が覚心の所変・文字に執する者は株を守る愚人なり。我が達磨大師は文字を立てず方便を仮(か)らず一代聖教の外に仏・迦葉に印して此の法を伝う、法華経等は未だ真実を宣べず』」(定P133)と記した、禅宗の熱心な信奉者でした。
「立正安国論」提出時、かつ伊豆配流の時の第6代執権・北条長時は、建長3年(1251)に浄光明寺を創建して開山に真阿(真聖国師)を迎え、浄土、真言、華厳、律の四習兼学の寺としたことが伝えられています。長時は文永元年(1264)に死去、浄光明寺に葬られます。
浄光明寺 客殿
長時の父親・北条重時(第2代執権・北条義時の三男)は連署として北条時頼を補佐し、正元元年(1259)、極楽寺を藤沢より鎌倉に移して隠居、極楽寺殿と呼ばれています。弘長元年(1261)、同寺で没します。
建治3年(1277)11月20日の「兵衛志殿御返事」(定P1406 真蹟)には、「極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし、念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨(あだ)ませ給いしかば、我が身といい其の一門皆ほろびさせ給う。ただいまはへちご(越後)の守殿一人計りなり」とあり、念仏者に近い人物だったことがうかがわれます。尚、重時の死後、浄土宗であった極楽寺は真言律宗に改められ、良観に寄進されています。
極楽寺
「安国論御勘由来」を法鑑房に報じた文永5年(1268)は、第7代執権・北条政村(第2代執権・北条義時の五男)より第8代執権・北条時宗に代替わりした年です。時宗は父・時頼と親交のあった蘭渓道隆、兀庵普寧、同じ禅僧の大休正念(だいきゅうしょうねん)にも学んだと伝えられます。弘安5年(1282)には、元寇戦没者の追悼の為に宋の禅僧・無学祖元(むがくそげん)を招いて円覚寺を創建しています。
円覚寺の三門 「円覚興聖禅寺(えんがくこうしょうぜんじ)」の扁額 天明5年(1785)再建
仏殿 「大光明寶殿」の扁額(後光厳[ごこうごん]上皇)
これら北条各氏の仏教宗派は禅、真言、浄土、律等と多彩なものになっており、江戸時代に見られるような「家の宗教」というよりも、「個人としての宗教」であった中世の特色を示しているように思われます。
3 日蓮の宗教的世界観
一方、日蓮の宗教的世界観では釈迦仏=釈尊=久遠実成の釈尊、即ち久遠仏こそが三界の国主であり、一切衆生の師匠・親であるとして書簡に記しています。
建治元年(或いは建治3年)「神国王御書」(定P881 真蹟)
仏と申すは三界の国主、大梵王・第六天の魔王・帝釈・日月・四天・転輪聖王・諸王の師なり、主なり、親なり。三界の諸王は皆此の釈迦仏より分かち給ひて、諸国の総領・別領等の主となし給へり。故に梵釈等は此の仏を或は木像、或は画像等にあがめ給ふ。須臾も相背かば梵王の高台もくづれ、帝釈の喜見もやぶれ、輪王もかほり落ち給ふべし。
神と申すは又国々の国主等の崩去し給へるを生身のごとくあがめ給う。此又国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時もそむかば国安穏なるべからず。此を崇むれば国は三災を消し七難を払ひ、人は病なく長寿を持ち、後生には人天と三乗と仏となり給ふべし。
*意訳
仏というのは三界の国主であり、大梵天王、第六天の魔王、帝釈天王、日月天、四天王、転輪聖王及び諸王の師であり主であり親なのである。三界の諸王は皆、久遠仏(釈迦仏)より分けいただいて諸国の総領・別領の主となったのである。故に大梵天王、帝釈天等は久遠仏(釈迦仏)をあるいは木像、あるいは画像として崇めているのである。もしわずかでも久遠仏(釈迦仏)に背くならば、大梵天王の高台は崩れ、帝釈天王の喜見城も破れ、転輪聖王の宝冠も地に落ちてしまうことであろう。
神というものは、国々の国主等が崩御されたのを生身の如くに崇め奉っているものである。神もまた現在の国王や人々の父母であり、主君であり、師匠なのである。片時でも神に背くことがあるならば、国は安穏とはならないのである。神を尊崇するならば、国は三災を消し、七難を打ち払い、人々は病に侵されることなく長寿となり、後生には人界、天界、三乗(声聞・縁覚・菩薩)、仏となることであろう。
日本の朝廷やそれを凌ぐ権勢をふるった鎌倉幕府の執権、高官と雖も、三界の国主たる久遠仏(釈迦仏)より「分かち給」わって、「諸国の総領・別領等の主」となっている。即ち世俗的権威は宗教的法威に劣り、世俗的権力は宗教的法力に従い、世俗的階層は宗教的世界に内在されてしまう、というものが日蓮の宗教的世界観といえるでしょうか。
日蓮的には、宗教的思考が世俗的思考を超越しているのです。
このような世界観、宗教的思考であれば、鎌倉幕府の膝元での日蓮の激しい法華勧奨の活動も、臆しためらうことなき国主への勘文の提出も日蓮にとっては至極当然のことであり、また、その後の受難というものも日蓮の将来展望では既定路線、「法華経伝道者たるの証明として必要なもの」としていたように見られるのです。
日蓮が権力に対する時、謗法諸宗禁断・法華受持勧奨という権力者の宗教観の覚醒と同時に、「三界の国主たる久遠仏より分かち賜って、今、日本国の為政者としてそこにある」という一国の指導者としての社会観の覚醒、宗教的使命を自覚することによる善政を促す意が含まれていたのではないでしょうか。
※注
◇三界=欲界、色界、無色界のこと
① 欲界=種々の欲望が渦巻きそれに捉われた有情世界。地獄界、餓鬼界、畜生界、修羅界、人界、天界の一部である六欲天をいう。
< 欲界・六欲天 >
地居天=
・四大王衆天(六欲天の初天で帝釈天の外将 須弥山の中腹・由犍陀羅山にある四頭を欲界六欲天の最下・四天王・四大王衆天といい、その主が四天王とされる。東方持国天王、南方増長天王、西方広目天王、北方多聞天王)
・忉利天(六欲天の第二天 須弥山山頂、閻浮提の上8万由旬に位置し帝釈天の住処 三十三天とも)
空居天=
・夜摩天(六欲天の第三天 時に随い快楽を受ける処 焔摩天とも)
・兜率天(六欲天の第四天 須弥山山頂12由旬の処 覩史多天とも)
・化楽天(六欲天の第五天 自己の対境・五境を変化して娯楽の境地とする天 楽変化天とも)
・他化自在天(六欲天の第六天で最高位 欲界の天主大魔王たる第六天魔王波旬[悪魔]の住処)
② 色界=種々の欲望から離れたが色(物質的制約)に捉われている有情の世界。天界の一部である四禅天をさす。
< 色界・四禅天 >
初禅天=
・梵衆天(大梵天王の領地する天衆)
・梵輔天(大梵天王の輔相の臣下たる天)
・大梵天(色界四禅天の中の初禅天に住し色界及び娑婆世界を統領している天)
第二禅天=
・少光天(身体から光明を放つ天)
・無量光天(身体から無量の光明を放つ天)
・光音天・極光浄天(口中より浄光を放ち音声となす天)
第三禅天=
・少浄天(意識清浄、喜びに満ちる[楽受]天 身長16由旬 寿命16劫)
・無量浄天(意識清浄、無量の喜びに満ちる[楽受]天 身長32由旬 寿命32劫)
・遍浄天(浄光が遍く周り、快楽と清浄も遍く周る天 身長64由旬 寿命64劫)
第四禅天=
・無雲天(雲上の無雲処にいる天)
・福生天(福徳により生ずる天 身長250由旬 寿命250劫)
・広果天(心想なき有情である天)
・無煩天(欲界、色界の苦楽を超越した煩いなき天)
・無熱天(依処なく清涼自在、熱き煩いなき天)
・善現天(善妙の果報が現れる天)
・善見天(自由自在に十方を見渡すこと障碍なき天)
・色究竟天(欲望と物質の存在なき精神世界・無色界の手前、清浄なる物質・肉体の存在する色界の最上位の天)
③ 無色界=欲望と物質的制約から離れた精神世界であり天界のうち四空処天をさす。
<無色界・四空処天 >
・空無辺処天=無色界の下から一番目、物質的存在のない空間における無限性の三昧の境地
・識無辺処天=下から二番目、認識作用における無辺性について三昧の境地
・無所有処天=下から三番目、いかなるものの存在もない三昧の境地
・非想非非想処天=天界のうち最高の天、有頂天とも
◇帝釈天王=ヴェーダ神話上の最高神で雷神、欲界第二忉利天の主、須弥山の頂の喜見城に住す、他の三十二天を統領する
◇日月天=日天子は日宮殿[太陽]に住む天人、月天子は月を宮殿とする天人
◇転輪聖王=七宝・三十二相を備える人界の王で天から輪宝を感得。これを転じながら障害を砕き、四方を調伏していくという武力によらず、正法により一閻浮提を統治するインド古来の伝説上の理想の王
◇梵王の高台=初禅天の第二・梵輔天にある高台閣であり大梵天王の住処
4 娑婆世界・久遠仏の御所領、一切衆生は久遠仏の御子
建治元年(1275)5月8日「一谷入道御書」(定P992 真蹟)
娑婆世界は五百塵点劫より已来(このかた)教主釈尊の御所領なり。大地・虚空・山海・草木一分も他仏の有(う)ならず。又一切衆生は釈尊の御子(みこ)なり。譬へば成劫(じょうこう)の始め一人の梵王下りて六道の衆生をば生みて候ひしぞかし。梵王の一切衆生の親たるが如く、釈迦仏も又一切衆生の親なり。又此の国の一切衆生のためには教主釈尊は明師(みょうし)にておはするぞかし。父母を知るも師の恩なり。黒白(こくびゃく)を弁(わきま)ふるも釈尊の恩なり。
*意訳
鎌倉幕府が支配しているかのような日本の国土も、実は「娑婆世界」の一部にすぎず、その娑婆世界というものは「五百塵点劫」という長遠の彼方より今に至るまで、「久遠仏(教主釈尊)の御所領」である。「大地・虚空・山海・草木一分」も他仏のものではなく、また「一切衆生は久遠仏(釈尊)の御子」なのである。それを譬えれば、世の始まりの時に一人の大梵天王が天より降り来たって六道の衆生を生んだ、という経典と同じものである。大梵天王が一切衆生の親たるが如く、久遠仏(釈迦仏)もまた一切衆生の親である。日本国の一切衆生のためには、教主たる久遠仏(釈尊)は明師なのである。父母への報恩、孝養を知るのも師たる久遠仏(釈尊)の教えによる恩である。物事の善悪、分別を弁えられるようになるのも師匠久遠仏(釈尊)の恩である。
※注
◇成劫(じょうこう)=世の誕生から破壊に至るまでの仏教上の四つの段階の始めをいう。
成劫=世界(国土)、生物の形成期
住劫=世界が存続、生物が営みをなす期間
壊劫=世界、生物が崩壊していく期間
空劫=世界、生物が無くなり空となる期間
◇一人の梵王下りて=「阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)=倶舎論」(世親=天親著)に大梵天王が天より娑婆世界に降り来たって、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上の六道の衆生を生んだことが説かれる。
◇世親=インドの仏教僧でインド名ヴァスバンドゥ、四世紀~五世紀の人。兄・無着(アサンガ)の勧めで部派仏教の説一切有部より大乗仏教に転じ、瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)の教学の大成者となる。「阿毘達磨倶舎論」は説一切有部時代のものでその教義を体系化した論書。唯識学派時代には「唯識二十論」「唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)」を著す。浄土三部経の一つ「無量寿経」をもとに「無量寿経優婆提舎願生偈(むりょうじゅきょう うばだいしゃ がんしょうげ)=浄土論・往生論ともいう」を著し、浄土真宗では七高祖の第二祖とし、天親菩薩とも呼ぶ。
日蓮は「撰時抄」で妙法蓮華経を一閻浮提に流布させるべきことについて「今日本国に弥陀称名を四衆の口口に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり」(定P1007)と記し、南無阿弥陀仏が日本国に流布している様相の如くに妙法蓮華経を弘法すべきことを説きます。
更に同抄に「此の名号を弘通する人は、慧心は往生要集をつくる、日本国三分が一は一同の弥陀念仏者。永観は十因と往生講の式をつくる、扶桑三分が二分は一同の念仏者。法然せんちやく(選択)をつくる、本朝一同の念仏者。而(し)かれば今の弥陀の名号を唱ふる人々は一人が弟子にはあらず。此の念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり。権大乗経の題目の広宣流布するは、実大乗経の題目の流布せんずる序にあらずや。心あらん人は此れをすい(推)しぬべし。権経流布せば実経流布すべし。権経の題目流布せば実経の題目も又流布すべし。」(定P1047)と記し、南無阿弥陀仏の日本国に流布している様相を「権大乗経の題目の広宣流布」として、それは「実大乗経の題目」南無妙法蓮華経の広宣流布する序であると、日蓮的理解を記しています。
日蓮が「広宣流布」というほどに南無阿弥陀仏は日本国に広まっていたのであり、そのことは浄土思想の蔓延を意味するものでしょう。
日蓮当時には、諸行往生の立場にある「観想念仏」の天台浄土教等ではなく、法然の説く「専修念仏」の実践が世に遍く流布していました。
「撰時抄」には「設ひ法然が弟子とならぬ人々も、弥陀念仏は他仏ににるべくもなく口ずさみとし、心よせにをもひければ、日本国皆一同に法然房の弟子と見へけり。此の五十年が間、一天四海一人もなく法然が弟子となる。法然が弟子となりぬれば、日本国一人もなく謗法の者となりぬ」(定P1032)と法然浄土教の隆盛が記されています。
法然が説く「専修念仏」とは、あらゆる人は南無阿弥陀仏と唱えれば(称名念仏)西方極楽浄土への往生が叶う、それは臨終の時に決定されるというものであり、この教えの流布は即ち、西方の遥か彼方にあるとされる阿弥陀如来が治める極楽浄土への待望、渇仰というものが国に満ちていたことを意味します。
民衆は「所化の衆、此の邪義を知らざるが故に、源空を以て一切智人と号し、或は勢至菩薩、或は善導の化身なりと云う」(正元元年[1259] 守護国家論 定P119 真蹟曽存)と法然房源空を崇め、更に「阿弥陀仏の化身とひびかせ給ふ善導和尚の云く十即十生・百即百生乃至千中無一(せんちゅうむいち)と。勢至菩薩の化身とあをがれ給ふ法然上人、此の釈を料簡して云く末代に念仏の外の法華経等を雑(まじ)ふる念仏においては千中無一、一向に念仏せば十即十生(じっそくじっしょう)と云云」(文永9年[1272] 四條金吾殿御返事・梵音声書、定P663 日興本)との善導と法然の教えを信ずることについては、「日本国の有智・無智仰ぎて此の義を信じて、今まで五十余年一人も疑ひを加へず」(同)というものでした。
ということは、仏菩薩というものは現実の娑婆世界で出会うというよりも、彼岸(ひがん)世界で邂逅すべきものという見方が大方でもあったでしょうか。もちろん、この当時には本覚思想あり、即身成仏の教えあり、仏・菩薩と凡夫の関係を説く多様な思想がありましたが、上記「撰時抄」の「権大乗経の題目の広宣流布」に依っての一つの認識として。
そのような称名念仏蔓延の日本国で、「彼岸の仏の元へ到る」という仏教の思想の大勢に対抗するように、日蓮は「一谷入道御書」などで「此岸(しがん)に仏は存在し、娑婆世界は仏の御所領である」としたのです。これは「此岸(しがん)より彼岸(ひがん)への往詣」から「此岸即彼岸」的思考への転換、彼岸世界の此岸への移入という「此岸世界の彼岸化」ともいえるでしょうか。また日蓮によって、当時の人々の仏菩薩観を一変させる、「仏身観再生」の試みが開始されたともいえるのではないでしょうか。
◇「永観は十因と往生講の式をつくる」
永観
長元6年(1033)~天永2年(1111)
洛東禅林寺の深観(じんかん)に師事して出家。東大寺で三論、法相、華厳を学び東大寺三論宗の別所光明山に籠居。後に禅林寺東南院に移り浄土教の実践化、特に称名念仏を唱え民間への念仏勧奨に励み、病人救済などの慈善事業を行います。康和2年(1100)に東大寺別当職に。永観は「往生拾因=十因」と「往生講式」を撰述して、「往生拾因」の称名念仏は後の源空に影響を与えることになります。
◇諸行往生=念仏以外の教えによっても往生できるという思想、法然の弟子長西等の説。
◇観想念仏=阿弥陀如来や極楽浄土の世界を心に思い浮かべる(観想する)。
◇此の念仏と申すは双観経・観経・阿弥陀経の題名なり
双観経=無量寿経
観経=観無量寿経
上記二つに阿弥陀経を合わせて浄土三部経。
5 久遠仏三界国主論
建治3年(1277)6月の「下山御消息」(真蹟断片)では、阿弥陀経等、四十余年の諸経は法華経以前の方便であり、阿弥陀如来の十方西方への来迎を真実と思ってはいけないことなどを説き、「釈迦仏の本土は実には裟婆世界なり」(定P1337)であり、その久遠仏(釈迦仏)が法華行者を守護する様を「此の土に居住して法華経の行者を守護せん事、臣下が主上を仰ぎ奉らんが如く、父母の一子を愛するが如くならん」(同)と記しています。日蓮的理解では、久遠仏(釈迦仏)は娑婆世界を本土とする国主、領主(神国王御書)であり守護の働きもなすのです。
法華経如来寿量品第十六の「我常に此の娑婆世界に在って説法教化す」の経文と合わせ考える時、日蓮の観念には久遠仏が三界の国主としての振舞いを示しており、現実の日本国の為政者達はその仏の所従であることを忘れた人々と映っていたことでしょう。
これまで見てきたように、久遠仏が「娑婆世界」の国主・師匠・親であり、「娑婆世界」そのものは久遠仏の「御所領なり」、「一切衆生は釈尊(久遠仏)の御子なり」というのが日蓮の思想でした。
「神国王御書」「一谷入道御書」「下山御消息」はいわゆる「佐後」の書ですが、上記のような「久遠仏(文の表には釈迦と記す)三界国主論」ともいうべき思想は法華経譬喩品第三の偈文、
「今此の三界は皆是れ我が有なり」との「主の徳」
「其の中の衆生は悉く是れ吾が子なり」との「親の徳」
「而も今此の処は諸の患難(げんなん)多し、唯我一人のみ能く救護を為す」との「師の徳」
更に如来寿量品第十六の偈文、
「我が此の土は安穏にして天人常に充満せり」との「主の徳」
「常に法を説いて無数億(むしゅおく)の衆生を教化して」との「師の徳」
「我も亦為れ世の父」との「親の徳」
この主師親の三徳を備えた者こそが、「諸の苦患を救う者なり」即ち「仏」である等の文に基づいて展開したと考えられ、「法門申しはじめ」以前の修学期より日蓮の仏身観として定着していたのではないでしょうか。
それを「仏と申すは三界の国主=久遠仏三界国主」として文の表に出したのが、佐後ということになります。ここに、青年時代より培った教養、教理的理解が受難を経ることにより信仰的確信となり、それが日蓮独自の教理を生み出し、同時に豊穣なる法華経信仰世界が創られていくことを見るのです。
尚、日蓮が法華経譬喩品に久遠仏(釈迦)の「主師親三徳」を見出していたことは、文永元年(1264)12月13日の「南条兵衛七郎殿御書」(定P320 真蹟断片)より理解できるでしょう。
法華経の第二(譬喩品第三)に云く「今此三界(こんしさんがい) 皆是我有(かいぜがう) 其中衆生(ごちゅうしゅじょう) 悉是吾子(しつぜごし) 而今此処(にこんししょ) 多諸患難(たしょげんなん) 唯我一人(ゆいがいちにん) 能為救護(のういくご) 雖復教詔(すいぶきょうしょう) 而不信受(にふしんじゅ)」等云云。
此の文の心は釈迦如来は此れ等衆生には親也、師也、主也。我等衆生のためには阿弥陀仏・薬師仏等は主にてましませども、親と師とにはましまさず。ひとり三徳をかねて恩ふかき仏は釈迦一仏にかぎりたてまつる。親も親にこそよれ、釈尊ほどの親、師も師にこそよれ、主も主にこそよれ、釈尊ほどの師主はありがたくこそはべれ。この親と師と主との仰せをそむかんもの、天神地祇にすてたれたてまつらざらんや。不孝第一の者也。
日蓮は譬喩品第三の経文を引用して「釈迦如来は此れ等衆生には親也、師也、主也」と久遠仏(文の表には釈迦如来)が主師親の三徳を兼備していると理解することを「此の文の心」とするのです。
それは「八宗違目抄」(文永9年[1272]2月18日 真蹟)では更に明示されるところで、文中には以下のようにあります。
法華経第二(譬喩品第三)に云く「今此三界(こんしさんがい) 皆是我有(かいぜがう)」主国王世尊也。「其中衆生(ごちゅうしゅじょう) 悉是吾子(しつぜごし)」親父也。「而今此処(にこんししょ) 多諸患難(たしょげんなん) 唯我一人(ゆいがいちにん) 能為救護(のういくご)」導師。寿量品に云く「我亦為世父(がやくいせぶ)」文。
(定P525)
譬喩品第三の「今此三界 皆是我有」は主の徳、「其中衆生 悉是吾子」は親の徳、「而今此処 多諸患難 唯我一人 能為救護」は師の徳と、主師親の三徳を立て分けています。続いて寿量品の「我亦為世父」と親の徳を引用しているところから、寿量品の他の経文「我此土安穏 天人常充満」に主の徳、「常説法教化 無数億衆生」に師の徳を見出していたこともうかがえるでしょう。
そしてこの仏は「毎に自ら是の念を作す 何を以てか衆生をして 無上道に入り 速かに仏身を成就することを得せしめんと」と説かれるように、一切衆生をして成仏得道せしめるために絶えることなく説法教化し、慈悲の振舞いを示しています。
このような思考の日蓮は文応(ぶんおう)元年(1260)7月の「立正安国論」提出当時には、北条時頼らが帰命すべき本尊として何を考えていたのでしょうか。
6 国主帰依の本尊
「立正安国論」提出の少し前、文応(ぶんおう)元年(1260) 5月28日の「唱法華題目抄」には、「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」(定P202)とあり、日蓮一門の法華勧奨の拠点である鎌倉の草庵では、紙本墨書の南無妙法蓮華経を本尊とし、法師品・神力品の「経巻安置」を依文として法華経の経巻を中央に置いていたことがうかがわれます。
また「たへたらん」(※)即ち「機・財力・縁・信仰」により、「釈迦如来・多宝仏」を書く、造る、それを「法華経の左右に」立てる。また、「十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつる」ことを教示しています。
これが日蓮一門初期の本尊であり、「立正安国論」と「唱法華題目抄」は同年・文応元年(1260)の書ですから、北条時頼を始めとした関係者が法華経信仰となり題目を唱えるに至ったときは、日蓮は「題目を書きて本尊」とし、法華経の経巻を中央に置いたのではないでしょうか。
もちろん、後に四条金吾が釈迦仏を造立したことを讃えたように、北条時頼が法華経の教主釈尊を本尊として造立したとしても、日蓮は受容したことでしょう。参禅に励み、地蔵菩薩を信仰していた人物が法華経信仰・題目を唱える人となるわけですから、法華経の教主を造立したとしても正法への信仰に目覚めたことを主眼として、それはそれで讃嘆したと考えるのです。
しかしながら、文応元年(1260) 5月28日の「唱法華題目抄」では、まずは「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべし」と、一切衆生成仏の法である南無妙法蓮華経を具現化した「南無妙法蓮華経の本尊」と、「法華経」安置を教示しており、釈迦如来像や多宝仏像は「たへたらん」即ち機・財力・縁・信仰による二次的なものとなっており、日蓮の本意は「南無妙法蓮華経の本尊」と「法華経」安置にあったのではないでしょうか。
しかも釈迦如来像や多宝仏像を造立したとしても、それは中央の「南無妙法蓮華経の本尊」と「法華経」の「左右に之を立て奉るべし」と明示しており、中央の本尊は「南無妙法蓮華経の本尊」と「法華経」であることは明確だといえるでしょう。
紙本墨書の「南無妙法蓮華経の本尊」と法華経の経巻、この「本尊」に向かい日蓮と弟子檀越が専修唱題に励む光景・・・・これが日蓮一門初期の姿であり、それが後に中央の紙本「題目本尊」が宝塔(南無妙法蓮華経)と導師(教主)日蓮を中心に虚空会を顕す曼荼羅本尊となり、諸仏の尊像も曼荼羅一紙に収斂されていったのではないでしょうか。
北条時頼を始めとして一門や要人が法華経信仰に目覚めたとして、その時に問題となるのは「では、あの大きな形で造立された地蔵菩薩に替えて題目本尊にするにしても、宗教的な重厚感、スケールが異なりすぎるのではないか」等、信仰という素朴な感情から発するもの、疑問・違和感があるかもしれません。
その答えの一つとなるのが、文永8年以降に図顕されるようになった曼荼羅本尊の大きさの変遷です。
日蓮が一門の檀越に授与した曼荼羅本尊は、今日の私達が拝するような仏壇におさまる小さなものもありますが、縦の長さが1m、2mを越えるものもあり、大きな持仏堂や大人数が集まれるような大きな館には、相応の大きなというか巨大な曼荼羅本尊を授与しており、北条時頼が妙法を信仰した暁には建長寺の仏堂中央に、『我も亦為れ世の父 諸の苦患を救う者なり』(法華経如来寿量品第十六)である当体にして、『我常に此の娑婆世界に在って説法教化』(同)する仏の姿を感じさせるような、大幅(たいふく)の「南無妙法蓮華経の本尊」を安置したのではないでしょうか。
※「たへたらん」
各々の機と財力に応じた、また縁に応じた、信仰に応じた本尊という「日蓮法華勧奨初期の思考法の淵源」は、日蓮が学んだ比叡山にあるのではないでしょうか。比叡山延暦寺は法華経を中心としながらも、禅、戒、念仏、密教の四宗兼学の道場、そして山王神道もありの諸宗が融和した寺院だったのであり、当然、対境たる本尊も釈迦如来、薬師如来、大日如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、阿弥陀如来等、種々様々なものがあります。修学僧は有縁の師僧のもとで学び、その宗義に伏し、また様々な仏菩薩を拝したことでしょう。このような習慣のもとでは、個々の信仰と縁、機と財力に応じた仏菩薩を本尊として拝する、というものが思考の習性となるのも自然なことではないでしょうか。
7 特大の曼荼羅本尊をめぐって
私達が家庭で拝する御本尊からは、日蓮の特大の曼荼羅本尊は想像もつかないことと思います。
日蓮が数多く顕した曼荼羅本尊の中でも巨大なのが、静岡県沼津市の岡宮光長寺に所蔵される通称・二十八紙大漫荼羅(御本尊集57)になります。
顕示月日は「弘安元年太才戊寅(つちのえとら)十一月廿一日」、「優婆塞藤太夫日長」の授与書きがあり、寸法は「縦234.9㎝×横124.9㎝」で大小の紙が28枚継ぎとされてきましたが、平成28年の原井慈鳳氏の論考「二十八紙大漫荼羅に関する研究(一)」(桂林学叢 第二十七号 平成二十八年)では29枚継ぎであることが解明されていますので、現在では「二十九枚継曼荼羅」と呼ぶべきでしょうか。
伝承では、「甲州南津留郡小立村妙法寺に護持せられたもので、同村の渡辺藤太夫に授与したまうところ」の曼荼羅にして、後に岡宮光長寺に納められたとされていますが、大きな持仏堂を擁する地方の有力者が法華経を受持し、その邸宅が地域の弟子檀越、大人数が集う日蓮法華伝道の道場となり、このような大型の曼荼羅が授与されたと考えられ、建治年間から弘安年間に至る日蓮一門の教線拡大を示しているように思います。
顕示月日の弘安元年11月21日といえば、建治年間末から弘安初期にかけての大疫病が山を越えた頃でもあります。多くの人々が亡くなり、自らもいつ感染してしまうかもしれない恐怖と不安の日々。妙法を信受し、それらを乗り越えて生きていることを実感する人々の喜びはいかほどのものだったか。そのような一門のこころと祈りの結晶が、大きな曼荼羅として顕されたように拝されます。
二十八(九)紙大漫荼羅の次に大きな曼荼羅は、静岡県三島市玉沢の妙法華寺に伝来する通称・伝法御本尊(御本尊集101)です。「弘安三年太才庚辰(かのえたつ)十一月 日」の顕示、「釈子日昭伝 之」の授与書きがあり、寸法は「197.6×108.8㎝」で12枚継ぎ。
三番目が千葉県松戸市平賀の本土寺にある「二十枚継曼荼羅」(御本尊集18)で「189.4×112.1cm」の寸法、紙が20枚継がれています。顕示年月日は記されていませんが、文永11年5月24日の「法華取要抄」との関連から、文永11年頃に顕されたのではないかと推測されています。
素朴な疑問として、「日蓮はどのようにして、これら大きな紙に御本尊を顕したのだろうか?」というものがありますが、原井慈鳳氏は論考「二十八紙大漫荼羅に関する研究(一)」で、『日本には古来、大画面を描く絵師が絵画製作時に用いた裁物板(たちものいた)にも似た「糊板(のりいた)」(乗板)と称する用具がある。これを応用すれば疑問は解けよう。筆者はその状態を図試してみた』として、図面により日蓮が御本尊を顕す様子を示されています。
「二十九枚継曼荼羅」を拝した人によると、あまりに大きすぎて本堂に奉掲しきれず、曼荼羅の下の部分は巻いたままであったそうです。「伝法御本尊」と「二十枚継曼荼羅」は筆者も拝しましたが、一応は、学的に究明したいことがありましても、首題と日蓮花押を見た瞬間にどこかに飛んで行ってしまうといいましょうか、背筋が熱くなる衝撃と共に、『日蓮が直接顕した御本尊は「日蓮が魂」と向かい合う信仰と覚悟なくして拝せる御本尊ではない』ということを実感いたしました。
それは保田妙本寺に所蔵される万年救護本尊(御本尊集16)を拝した時も同じで、『妙法に照らされた自分が省みられる時にして、妙法に包まれた温かみを感ずる時』であったように思います。
ところで何故、日蓮は曼荼羅を図顕したのでしょうか?
当然、唱題成仏の祈りの対象、法華弘通等の正論が思い浮かびますが、筆者としては一つには、『日蓮亡き後の日蓮を一閻浮提第一の御本尊として顕すことにより、末法万年の衆生救済を現実に成さんとした。その心のかたちが妙法の曼荼羅本尊である』ように思います。
2023.3.12