仏宝即本尊たる久遠の本仏を象徴的に形とした釈尊像よりも、日蓮は自己独創の文字曼荼羅に重きを置いたことがその図顕数の多さからうかがわれる

 

「永遠の仏・久遠実成の釈尊ならば、何故、日蓮は釈迦仏像の造立を重ねなかったのか? 永遠の仏・久遠実成の釈尊というあなたこそ、自説通りに釈迦仏像を拝めばよいではないか!」との疑難について

 

◇日蓮と釈尊について

日蓮が久遠実成の釈尊・久遠の本仏を仏宝として尊信していたというと、「ならばあなたが釈迦仏像を拝めばいいだろう」と助言?を何度もしてくれる人がいますが、他の鎌倉仏教祖師より飛びぬけて「釈尊、釈迦、世尊」を連呼した日蓮が大本尊(万年救護本尊讃文)として顕し抜いたのが法華経虚空会の儀式をもとにした文字曼荼羅ですから、いらぬ心配はご無用というべきでしょう。現代の日蓮法華信仰者も導師・日蓮の模範通りに、文字曼荼羅・御本尊を拝しながら、信行学の実践に励むのみです。

 

釈尊!釈尊!を何百回も連呼して、一方で文永8年の法難を契機に上行菩薩としての使命感に立脚し、文字曼荼羅を顕し授与したのが日蓮なのです。

「そんなに釈迦と叫ぶのなら、釈迦仏像を拝めばいいではないか」ではありません。釈尊!の連呼を重ねて文字曼荼羅を顕し続けたのが日蓮であると再認識しましょう。

 

日蓮遺文を見れば、真蹟遺文だけでも釈尊で259(いずれも、数字は概数)、釈迦如来82回、釈迦牟尼仏29回、釈迦仏112回、釈迦152回、大覚世尊で27回、世尊は191回と「釈尊!釈尊!」を入滅まで書きまくったのが日蓮なのですから、「文句があるのだったら日蓮にどうぞ」ということになります。

 

それとも、その勢いで「永遠の仏・久遠実成の釈尊を尊信しながら、何故、釈迦仏像を拝めとの教示を残さなかったのだ!釈尊を仏宝としながら、自己図顕の曼荼羅を本尊としたのはおかしいではないか」と、日蓮を指弾するのでしょうか・・・・。

 

 

2024.9.15