世界情勢、国内の動向、一門への法難、その中から生まれた妙法曼荼羅本尊
去ぬる文永五年後正月十八日、西戎・大蒙古国より日本国をおそうべきよし、牒状をわたす。日蓮が去ぬる文応元年太歳庚申に勘えたりし立正安国論、今すこしもたがわず符合しぬ。
種々御振舞御書
文永5年閏1月18日、蒙古の国書が鎌倉に到着し、日蓮がかねてより警告していた外国勢力の日本侵略、即ち他国侵逼難が近づき世情が騒然とする中、文永8年に日蓮一門を襲った法難前夜に、日蓮は一門の人々に対して不惜身命の信仰を訴えます。
種々御振舞御書
各々我が弟子となのらん人々は、一人もおく(臆)しおも(思)わるべからず。おや(親)をおもい、めこ(妻子)をおもい、所領をかえり(顧)みることなかれ。無量劫よりこのかた、おやこ(親子)のため、所領のために命す(捨)てたることは大地微塵よりもおお(多)し。法華経のゆえ(故)にはいま(未)だ一度もす(捨)てず。法華経をばそこばく行ぜしかども、かかること出来せしかば、退転してやみにき。譬えば、ゆ(湯)をわかして水に入れ、火を切るにと(遂)げざるがごとし。各々思い切り給え。この身を法華経にか(替)うるは、石に金をかえ、糞に米をかうるなり。
仏の滅後二千二百二十余年が間、迦葉・阿難等、馬鳴・竜樹等、南岳・天台等、妙楽・伝教等だにも、いま(未)だひろめ給わぬ法華経の肝心、諸仏の眼目たる妙法蓮華経の五字、末法の始めに一閻浮提にひろまらせ給うべき瑞相に、日蓮さきがけしたり。
わとうども(和党共)二陣三陣つづ(続)きて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にもこえよかし。わずかの小島のぬし(主)らがおど(脅)さんをお(怖)じては、閻魔王のせ(責)めをばいかんがすべき。仏の御使いとなの(名乗)りながらおく(臆)せんは、無下の人々なりと申しふくめぬ。
意訳
「各々日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も臆病の心を起こしてはなりません。大難が起きたならば、両親や妻子を顧みて心配したり、所領を失うことを悲しんではならない。無量劫より今日に至るまで、親子のため、所領のために命を捨てたことは大地の無数の土よりも多いのです。
ですが、法華経のためには、いまだ一度も命を捨てたことはありません。過去世に随分と法華経を修行してきたのですが、大難が出て来たときに退転してしまい、仏道修行が途中で終わってしまっているのです。
譬えば、せっかくお湯を沸かしながら水に入れてしまい、火を起こそうとして途中でやめてしまうようなものです。これでは何の意味もありません。
各々方、今度こそは思い切って覚悟を決め、仏道修行を全うしましょう。この身を法華経に変えるような思いで、不惜身命で励むのは、石を金に変え、糞を米に変えるようなものなのです。
仏が入滅されてから二千二百二十余年を経過した今日に至るまで、迦葉・阿難等の小乗教の付法者、馬鳴・竜樹等の権大乗教の付法者、南岳・天台等、妙楽・伝教等の法華経迹門の弘法者達でさえも、いまだ弘めることのなかった法華経の肝心にして諸仏の眼目である妙法蓮華経の五字が、末法の始めに全世界に弘まってゆくであろう瑞相として、日蓮がその先駆を切っているのです。わが一党(一門)の人々よ、二陣三陣と日蓮に続いて妙法を弘通して、迦葉・阿難にも勝れ天台・伝教をも超えていきましょう。
わずかばかりの小島である日本の国主・権力者たちから脅されて怖気づいていては、退転、転落して地獄に堕ちたときに、閻魔王から責められるのを一体どうするのでしょうか。
私は仏の御使いであると名乗りをあげながら臆してしまうのは、下劣な人々です」と弟子檀那に強く申しふくめたのです。
覚悟、奮起というよりも殉教をも視野に入れた烈々たる獅子吼だと思いますが、「わづかの小島のぬし」ここに日蓮の権力観が凝縮されているのではないでしょうか。
「われらは三世にわたる仏の眷属、今生ばかりのはかなき権力なにするものぞ」
日蓮一門の妙法に生きる躍動感、気概が漲っているように思います。
「仏法の勝負に権力・国法で圧迫されようが、我らは仏法に生き抜くのだ」
繰り返し読むほどに、日蓮の雄叫びが聞こえてくるような思いとなります。
思えば、この時の日蓮の胸中には、既に、万人が合掌礼拝する本尊の原型が成されていたのではないでしょうか。
青年日蓮が学んだ比叡山延暦寺は法華経を中心としながらも、禅、戒、念仏、密教の四宗兼学の道場、そして山王神道もありの諸宗が融和した寺院だったのであり、当然、対境たる本尊も釈迦如来、薬師如来、大日如来、地蔵菩薩、虚空蔵菩薩、阿弥陀如来等、種々様々なものがありました。
修学僧は有縁の師僧のもとで学び、その宗義に伏し、また様々な仏菩薩を拝したことでしょう。このような宗教的習慣のもとでは、個々の信仰と縁、機と財力に応じた仏菩薩を本尊として拝する、というものが思考の習性となるのも自然なことではないでしょうか。
「機・財力・縁・信仰」に応じて本尊を立て分けるのは法華勧奨、妙法弘通初期の段階、1260年・文応元年の「唱法華題目抄」に「第一に本尊は法華経八巻・一巻・一品、或は題目を書きて本尊と定むべしと、法師品並びに神力品に見えたり。又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書きても造りても法華経の左右に之を立て奉るべし。又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」と示されています。
法華経の経巻、南無妙法蓮華経が書かれた紙幅=題目本尊を拝しながらも、「機と財力」により「釈迦如来・多宝仏」を書く、造る、それを「法華経・題目本尊の左右に」立てる。また「機と財力」によって「十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつる」ことを教示しています。
しかしながら、この段階では法華経の経巻、題目のみの紙幅にして、また木像・絵像を造れるのも財力のある一部の人だけでしかなく、末法万年の一切衆生を成仏に導く本尊というにはほど遠いものがあるように思えます。
法華勧奨、妙法弘通、大地震、疫病、飢饉、立正安国論による諌暁、鎌倉草庵の襲撃、伊豆配流、東条松原の襲撃、蒙古国書の到来、極楽寺良観との祈雨の勝負、讒言と国法による処断、そして竜口へ・・・・
文永8年へ向けて、まるで日蓮その人の内面世界の成就を促すかのように諸難が降り注ぎ、その胸中は9月12日の竜口での斬首(未遂)を契機に一変し、翌10月からの妙法曼荼羅図顕となっていきます。
世界情勢、国内の動向、一門への法難、その中から生まれた妙法曼荼羅本尊、即ち一閻浮提第一の大御本尊
実にドラマチックともいえる展開だと思いますが、その渦中での、種々御振舞御書に示された日蓮の渾身の訴え。ここに諸難を乗り越え大願を成就しゆく、「日蓮の仏法の道」があるということを学べるのではないでしょうか。
2023.11.12