七面大明神祈念本門戒壇の大御本尊と最初仏

 

多くの日蓮正宗関係者は「弘安21012日、日蓮大聖人は本門戒壇の大御本尊を建立された。未来広宣流布の時に本門の戒壇に安置する大御本尊の建立こそ、日蓮大聖人の出世の本懐である。大聖人は弟子の日法に命じられて大御本尊を彫刻させた」と主張しています。

 

日法が本門戒壇の大御本尊を彫刻したとは、何が根拠になっているのですか。

 

日法による本門戒壇の大御本尊彫刻は「いつ、どこで、誰が言い出した」のですか。

 

 

17世日精の「家中抄」に「七面大明神祈念戒壇院本尊」があります。

 

更に48世日量の「富士大石寺明細誌」には「七面山池上光明楠木製本門戒壇の大御本尊」があります。

 

 

七面大明神祈念戒壇院本尊

1662年・寛文21218日 (滅後381) 17世日精 「家中抄下」(富要 5-244 )

日法伝

釈の日法、俗姓は下野国小山の住人佐野の嫡子なり・・・・・

或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以つて戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上三躰なり、其の一躰は纔(わずか)に三寸なり(上行所伝抄の意なり)、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり、則ち身延の大堂に立て給へる御本尊是れなり、又師細工に長ずる故に大聖の御影一躰三寸に造立して是れを袖裏に入れ御前に出て言上して云はく願くは末代の聖人未聞不見の者の為に御影を写し奉らんと欲す免許に於ては不日に造立すべしと、聖人此の像を取り掌上に置き之れを視なはし笑を含みて許諾す、日法、仏師鳥養助二郎、太郎太夫と云ふ者と共に日法之を彫刻し等身の影像即成す、

 

 

七面山池上光明楠木製本門戒壇の大御本尊

1823年・文政65月 (滅後542) 48世日量「富士大石寺明細誌」

(弘安)二年・弥四郎国重なる者・一説に南部六郎実長の嫡男と云ふなり、霊端に感じて良材を得以て蓮祖に献ず、蓮祖満悦し本門戒壇の大御本尊を書して日法に命じ之を彫尅せしむ、日法材端を以て蓮祖の小影を作る、作り初の御影とも最初仏とも号す、右二種大石寺宝庫に安ず、蓮祖又日法に命じて等身の像を模刻せしむ・生御影と号し重須の寺に安す、此三種を師(日興)に付与せらる~  (富要 5-320 )

 

一、本門戒壇の板大漫茶羅 一幅    同 P334

日蓮聖人筆十界勧請御判の下横に並べ、現当二世の為め造立件の如し、本門戒壇の願主、弥四郎国重、法華講衆等敬白、弘安二年十月十二日と、末代不朽の為に楠の板に書く厚さ二寸二分竪四尺七寸五分横二尺一寸五分なり、彫刻は中老僧日法に之れを仰せ付けらる、地黒塗文字金色なり、広宣流布の時に至り勅宣御教書を申請け冨士山に本門寺戒壇を築く可き用意と為て兼て之を造り置かる、此御本尊は宗門の肝心蓮祖出世の本懐日興所属の簡要当山霊宝の随一なり、此御本尊を将て日興に付属する時の遺状に曰く、日蓮一期弘法白蓮阿闍梨日興付属之可為本門弘通大導師也国主被立此法者冨士山本門寺戒壇可被建立也可待時而已事戒法謂是也等云云、又日興より日目に付属するの状に曰はく、一日興か身に宛て賜る所の弘安二年の大御本尊日目に之を授与し本門寺に掛け奉るべきなり等云云、又三大秘法鈔に曰はく、戒壇とは王法仏法に冥し仏法王法に合し王臣一同に三秘密の法を持ん時、勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇建立すべき者か、時を持つべきのみ事の戒法と申は是なり、三国並に一閻浮提の人懺悔滅罪戒法なるのみならず、大梵天王帝釈等も来下して踏み給うべき戒壇なり等云云、古伝に云はく、此木甲州七面山の池上に浮び出て夜々光明を放つ、南部六郎実長の嫡男弥四郎国重之を取り上げ以て聖人に献ず等云云、又弥四郎国重の五字に就て表示し有りと相伝る云云。

 

一、日蓮聖人御影居長三寸 一体

作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり、薄墨素絹白五帖袈裟なり、則聖人の剃髪を焼消し以て之を彩色す云云、日法右板本尊並に此の像を作り奉り称美の為に有職を彫尅阿闍梨と賜ふ、又此御影像日法作る所に相違無きの条自筆の手形一通之れ有り。

 

一、日蓮聖人肉附の御歯一枚

又御生骨と称す、蓮祖の存日生歯を抜き血脈相承の証明と為て之れを日興に賜ひ事の広布の時に至らば光明を放つべきなり云云、日興より日目に相伝し代々附法の時之れを譲り与ふ、一代に於て只一度代替蟲払の尅之を開封し奉り拝見に入れしむ常途之れを開かず。

 

一、日蓮聖人御身骨玉瓶に入る升余一瓶

武州池上に於て茶毘し奉る所の頭面の御舎利なり、粲(さん・きらびやか)として円珠の如し。

右御本尊並に御骨等当山に安置する故に日興より日目への遺状に曰はく、大石の寺は御堂と云い墓所と云い日目之を管領し修理を加え勤行を致し広宣流布を待つべきなり云云。

 

 

「七面大明神祈念戒壇院本尊」を記した日精はどこから、かかる説を持ってきたのでしょうか。

 

現在の日蓮正宗では、「日法の周辺で偽作された松野殿御書が出典であり、そこからの引用にすぎない」と主張する方が多いようです。

 

1757年・宝暦748日 (滅後476) 31世日因 「有師物語聴聞抄佳跡 上」(富要 1-251)には松野殿御書が引用されています。

「又松野殿御書中に御影造立の御称美之有り。御書に云く~

彼の泉阿闍梨(日法)行功をはげまし日蓮か形をあらわさんか為に七面の明神に祈念せし故か、又天道道の至りか浮木出来せり、此の木を以一躰ならず三尊まで造る一尊は大仏なれし身延山に安置せり、故に末世に於て日蓮か形をきざみつる事は泉阿闍梨無んば造仏しがたし、」

と、日法が七面明神に祈念して浮木により、「聖人御影」を造立した、とあります。

 

ここで疑問となるのが偽書である「松野殿御書」では、日蓮御影造立の経緯が主であり本門戒壇の大御本尊は記されていないのに、日精は「家中抄・日法伝」では、「或る時日法御影を造り奉らんと欲す、七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり、此の木を以って戒壇院の本尊を造立し次に大聖の御影を造ること已上・三躰なり、其の一躰は纔(わずか)に三寸なり上行所伝抄の意なり、大聖戒壇院の本尊を書し日法之を彫刻す今の板本尊是れなり」と、「戒壇院の本尊」即ち本門戒壇の大御本尊を御影以外に書き加えていることです。

 

日精は何故、戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊を書き加えたのか?

 

この時点で、

日精は偽書である「松野殿御書」を紹介・引用しただけ

との説の成立は甚だ困難であり、むしろ

日精は戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊造立の経緯をつくるために、偽書である「松野殿御書」を利用したと理解する方が自然ではないでしょうか。

 

 

・日精が「松野殿御書」を引用したのは何故か。

 

・日精が「松野殿御書」に戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊を書き加えたのは何故か。

 

・日精は戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊造立の経緯をつくるために、「松野殿御書」を利用したのではないか。

 

・「或る時日法御影を造り奉らんと欲す七面大明神に祈念し給ふ感応の至りか浮木出来せり」と記した後に、戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊と御影の造立を記述しているが、日精は七面大明神への祈念を肯定しているということか。

 

・大石寺貫主が七面大明神祈念本門戒壇の大御本尊を主張しているということか。

 

・現在の日蓮正宗関係者は破門した教団の本尊をニセ本尊と言い、「魔神の札」「悪鬼の住処」「一切の不幸の元凶」「精神がおかしくなる」「頭破作七分になる」等としているが、七面大明神祈念本門戒壇の大御本尊を記述した人物こそ頭破作七分ではないのか。

 

・例えば、創価学会に当てはめれば分かりやすいでしょう。

ある幹部が会合で「身延・七面山の池のほとりで、Aさんが七面大明神に祈念したところ、夜な夜な池が光明を放ったんです。そして、木が浮かんでですね、その木を使って、この会館安置の板御本尊を造立したんですよ」等と話したらどうなるでしょうか?

会合参加者は皆ひっくりかえってしまうことでしょう。

後の人が「いや、あれは伝説の紹介でしてね、Aさんは偽書である松野殿御書を勝手に引用しただけです」などと取り繕ったところで、日蓮仏法の本義に照らしてその特異性というか、異常性は明白です。

 

伝説であれ、なんであれ、七面大明神に祈念して御本尊を造ったなどあり得ない話であるというべきでしょう。

ところがそれが「有り得てしまう」というのが日蓮正宗・大石寺なのです。

坊さんの話だと「ご紹介してくださってありがたい」になってしまうのです。

 

・本門戒壇の大御本尊は、日法が七面大明神に祈念し手にした木により造立されたのですか?

 

・違うというのなら、大石寺において「日蓮大聖人出世の本懐」と位置付けられる本門戒壇の大御本尊を表現するのに何故、日精はかようなことをここに記述したのですか?

 

・伝説資料を引用しただけというなら、何故、そこに戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊を書き加え、伝説とセットで記述するのですか?どこにその必要性があるのですか?

日精は伝説ではなく、事実だと思っていたのではないですか?

 

・「事実だと思うわけがない」というのなら、日精がここに七面大明神を引用した意味、理由を明確に説明してください。

 

・日精は戒壇院の本尊=本門戒壇の大御本尊造立の経緯をつくるために、偽書である「松野殿御書」を利用したのではないですか。

 

・日蓮系の各派を問わず、日蓮真蹟(とされている、自称している)本尊を述べるくだりで、理由はともかく「七面大明神」を引用記述している宗派がありましたら是非、教えてください。

 

・日蓮が御本尊を教示される際、「七面大明神に祈念し、手にした木により造立」という文証はあるのですか?

 

・「富士大石寺明細誌」の七面山池上光明楠木製本門戒壇の大御本尊について、「七面山の池上に浮び出て夜々光明を放っていた材木を弥四郎国重が取り上げ、日蓮に献上し、日蓮が筆で認め、日法が彫刻した」この話しは事実なのですか? 伝説なのですか?

 

・伝説なら何故、大石寺の本門戒壇の大御本尊を紹介するところに、かかる記述があるのですか?

 

・「本門戒壇の大御本尊日法彫刻説の根拠」はどこに求めるのでしょうか?

是非、明示してください。

 

・「富士大石寺明細誌」の最初仏には次のようにあります。

作初の御影と号す又最初仏と称す、弘安二年日法戒壇御本尊彫刻の時、右板の切端を以て末代の未聞不見の者の為に此像を造り蓮祖の尊覧に備ふ、聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり、

 

最初仏を日蓮が「能く我貌に似たり」と褒め称えたとありますが、後に日興が重須で「日蓮画像」をつくるのに苦労したのは何故でしょうか。日蓮自らが「似ている」と褒め称えた最初仏が実在していたならば、最初仏を見ながら書き写せば日蓮画像は直ちに完成したはずです。

日蓮、日興の時代に最初仏は存在しておらず、「富士大石寺明細誌」での最初仏の記述は創作だったのではありませんか。

 

 

「富士一跡門徒存知事」

一、聖人御影像の事。
或は五人と云い或は在家と云い絵像木像に図し奉る事在在所所に其の数を知らず而るに面面不同なり。
爰に日興が云く、御影を図する所詮は後代に知らしめん為なり是に付け非に付け有りの侭に図し奉る可きなり、之に依つて日興門徒の在家出家の輩聖人を見奉る仁等一同に評議して其の年月図し奉る所なり、全体異らずと雖も大概麁相に之を図す仍つて裏に書き付けを成すなり、但し彼の面面の図像一も相似ざる中に去る正和二年日順図絵の本有り、相似の分なけれども自余の像よりも少し面影有り、而る間後輩に彼此是非を弁ぜしめんが為裏書に不似と付け置く。

 

 

意訳

五老僧方や在家の方達が日蓮の絵像・木像を作ってきたが、それは多方面に数知れないほどあります。しかし、それぞれ姿形が異なっています。

ここに日興がいうには、日蓮の御影を作るのは、後の代にそのお姿を知らしめていくためです。ですから、ありのままの、聖人のお姿を描くべきです。それにより、日興門徒の在家・出家の皆、日蓮を拝見した者達が一同に評議を行い、その年月に描いたものです。日蓮と全体は異なりませんでしたが、大概は荒っぽいものを描きました。そこで裏書をなしました。それぞれの図・像が一つも似ていない中に、1313年・正和2年の三位日順が描いた絵の原本がありました。日蓮に似ている分はありませんでしたが、他の像よりも少し日蓮の面影が有りました。そこで、日興は後輩の皆と似ているか否か、是非を論じ合いましたが、結局、裏書に「似ていない」と書きました。

 

 

 

やはり「富士大石寺明細誌」に有るように、「聖人掌上に居え笑を含み能く我貌に似たりと印可し給ふ所の像なり」の最初仏が実在したならば、日興と弟子衆の「御影を図す、造立する」に当たっての苦労はなかったことでしょう。

 

2024.5.5