メモ6

 

1340年・暦応35(日蓮滅後59年・日興滅後7)

弟子の日大が師匠である日尊の教示を記した「日尊実録=尊師実録」

 

「 一 久成釈迦造立有無の事

日興上人の仰せに云く、末法は濁乱也、三類の強敵之有り、爾れば木像等の色相荘厳の仏は崇敬憚り有り、香華燈明の供養も叶う可から不、広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべし 」

 

 

 

1560年・永禄3(滅後279) 京都要法寺・日辰の著「祖師伝」の中で記述されている、西山日代が京都日印に送った書状 (富要 5-50 )

 

「 西山日代上人より日印に贈り玉ふ御返事に云はく

~中に仏像造立の事、本門寺建立の時なり、未だ勅裁無し国主御帰伏の時三ケの大事一度に成就し給はしむべき御本意なり、御本尊図は是なり~

 

康永三(1344)甲申八月十三日 日代在判  」

 

 

重須談所二代学頭・三位日順は広宣流布の時の本門戒壇は、仏像本尊といっております。

はて、日興の膝下にあって談所の学頭まで努めた人物が仏像本尊とは?

 

1349年・正平45(滅後68) 日順著 「本門心底抄」(富要 2-34) 

行者既に出現し久成の定慧・広宣流布せば本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し・戒壇の方面は地形に随ふべし、国主信伏し造立の時に至らば智臣大徳宜しく群議を成すべし、兼日の治定後難を招くあり寸尺高下注記するに能へず。

 

 

※ 堀日亨は該文に頭注を加え「仏像安置と云々順師未だ興師の真意を演●せず。後人此の文に滞ることなかれ」としています。これはもちろん堀日亨としての認識です。