メモ 5

三位日順に日蓮本仏思想?

 

以下、「三位日順に日蓮本仏思想が有ったとの説」の為に、引用される文についての検証です。

 

1 「本因妙口決」 日順之を記す 執筆年号なし (富要 2-83 )

久遠元初自受用報身とは本行菩薩道の本因妙の日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなりと云云

 

◇この「本因妙口決」は三位日順の作とは認めづらい内容となっています。要するに後代の人物が三位日順の名をかたり書いたのではないか、ということになります。

 

 

① 「本因妙口決」の文中「日蓮宗」との宗名が頻繁に出てきます。

 

P72 「日蓮宗の大事是れなり」「天台宗の外に日蓮宗と立つ」「日蓮宗の本意是れなり」 

P77 「日蓮宗の教相と云ふ事なり」

P78 「日蓮宗を建立し給ふ事なり」「日蓮宗を立て給ふ事なり」

 

◇しかし、三位日順の他の著作「日順阿闍梨血脈」「摧邪立正抄」「念真所破抄」などでは、「日蓮宗」ではなく「法華宗」という表現が用いられています。

 

・「日順阿闍梨血脈」

今法華宗と呼ぶの族数百輩にして得ること興師に帰す

 

・「摧邪立正抄」

将又法華宗を難ずるは大謗法の義なり、汝等専ら諸宗謗法の義門に同じて弥大聖の本意を失ふ異類なり。

 

・「念真所破抄」

然るに近代出来の法華宗等は頻に真言亡国と云ふ慥(たしか)に経論の証拠有りや

問ふて云はく当世法華宗の立義に念仏無間業と云ふ事先づ言便宜しからざるなり

 

◇他の著作では「法華宗」、「本因妙口決」では「日蓮宗」を多用。ということは、「本因妙口決」を果たして三位日順が実際に書いたのかどうか?限りなく怪しくなってきます。

 

 

② 「本因妙口決」の文末にこのようにあります。

次に日文字の口伝・産湯の口决・本尊七ケの口伝・教化弘経七箇の伝は別紙の如し。

詮要抄

抑も此の血脈は高祖聖人・弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人にして御座候、本地甚深の奥義・末法利益の根源なり、

 

◇この文中「弘安五年十月十一日の御記文・唯授一人の一人は日興上人」の指し示すものは、「本因妙抄」の中でもその末文と推考されます。

 

又日文字の口伝産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ、本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す教化弘経の七箇の伝は弘通者の大要なり、又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり、相構え相構え秘す可し秘す可し伝う可し

 

この文中の「此の血脈並に本尊の大事は、日蓮嫡嫡座主伝法の書・塔中相承の稟承・唯授一人の血脈なり」を、「本因妙口決」で「それは日興上人」と、著者は示したものでしょう。

「本因妙抄」自体が偽書濃厚の文書ですから、それを受けて書かれた「本因妙口決」も後代の書であるといえることになります。

 

 

③ 上記のように文末に「次に日文字の口伝・産湯の口决・本尊七ケの口伝・教化弘経七箇の伝は別紙の如し」(P84)とあります。「本尊七ケの口伝」については「御本尊七箇相承」なる相承書に言及したものですが、この相承書自体が後世の書ですから、それを引用している「本因妙口決」も後世の書といえます。

 

◇「御本尊七箇相承」について一例を挙げれば、同書に

「七 日蓮と御判を置き給ふ事如何~日蓮御判と書かずんば天神地神もよも用ひ給はざらん」

「一、日蓮在御判と嫡々代々と書くべし」

とあります。しかし、日興書写の御本尊には「日蓮在御判」ではなく「日蓮聖人」と認められた本尊があり、現証が文証を否定する事態となっており、当然確実なる日興書写本尊を採用し、同時に真筆の無い「御本尊七箇相承」は否定されることとなります。

尚、日目にも同様の「日蓮聖人」本尊が確認されています。

 

正応三年十月八日  僧日仙に之を授与す 讃岐本門寺 (富要 8-213 )

正応○年○月八○  山梨県中巨摩郡昭和町 正法寺 日興上人御本尊集 (興風談所)

 

いずれにしても、「御本尊七箇相承」引用の「本因妙口決」は後代の書である、ということになります。

 

 

④ 注意すべきは今日、三位日順作とされる文献で「三位日順の真筆はなく、写本ばかりである」ということです。このような観点から、三位日順作の文献引用は、その内容の考察も踏まえなければならず、慎重を要されるといえます。

 

◇「本因妙口決」の最後に堀日亨は以下のように記述しています。

 編者曰はく本山蔵棟師本巻首に

「本因血脈詮要抄秘すべし秘すべし伝ふべし伝ふべし  釈日棟之」

とあり今此れを台本とし日俊師及び日寛師写本を以て校合を加ふ但何れも難読の書にして漸くに延べ書に為す事を得たり。

 

◇「堀上人に富士宗門史を聞く」 ()  大白蓮華

三位日順のすべてのものがほとんど、どこにもないのです。あるのは大石寺に一度きたのを、要法寺の人が写して、そして要法寺へ持っていって、それを今度は北山に写してあげたのが北山に残っている。ですから大石寺の三転本ですね。大石寺のが一番古くて、古くてといってもですね、日順の本じゃないんじゃ、日順の本を写した人が、何人かあって、それが日順の古い本を、みな大石寺に持ってきた。どういう動機で持ってきたかも、写本の主の経歴がわかりませんから、不明だし、年代もわからんです。ただ、紙や筆法でもって、この時代じゃろうといって、私どもが鑑定するだけのものでね。」

 

 

2 1318年・文保21124日 「表白」 (富要 2- 11)

我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり・仍つて日本と名く、富士山をば或は大日山とも号し・又蓮華山とも呼ぶ、此れ偏へに大日本国の中央の大日山に日蓮聖人大本門寺建立すべき故に先き立つて大日山と号するか、

 

◇「我が朝は本仏の所住なるべき故に」で、「我が朝は本仏=日蓮大聖人の所住なるべき故に」と読むかもしれません。

しかし、「表白」より10年後の同じ三位日順による「五人所破抄」では、「日蓮=上行菩薩再誕」が保持されており、「上行菩薩は教主釈尊初発心の弟子」ですので、「表白=日蓮本仏」の文証とはなりえないわけです。

 

末法利益の正法は、今は上行再誕の日蓮聖人によって日本に打ち立てられている故に「我が朝は本仏の所住なるべき故に」となるのでしょう。久遠実成の釈尊・久遠の本仏は日本にまします、という意味です。

 

1328年・嘉暦3年 7月 「五人所破抄」 日代筆 三位日順草案 

日興公家に奏し武家に訴えて云く。 日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり、(中略)

就中天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末法の代を迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所解釈炳焉たる者なり。

 

【 寺院信者 】

該文の直前に
「就中づく霊鷲山・天台山・比叡山は共に法華弘通の地なり。然りと雖も彼は皆垂迹にして未だ本を顕さず、其の故は天竺をば月氏と号す、即月の国なる故なり。漢土をば震旦と名く、星の国たるによりてなり」とあり、
該文と合わせ拝するとき、まさに本地と垂迹との相違を明白に、該文「我が朝は本仏の所住なるべき故に本朝と申し・月氏震旦に勝れたり・云々」と続くのであるから、どう読んでも日蓮大聖人=本仏との表示である。

 

【 林 】

◇「霊鷲山・天台山・比叡山は共に法華弘通の地なり。然りと雖も彼は皆垂迹にして未だ本を顕さず」⇒ 正像二千年の聖地であり、その時代の垂迹の法です。

 

◇「我が朝は本仏の所住なるべき故に」

⇒ 末法万年の法・南無妙法蓮華経の在す国・・・

末法利益の正法は、今は上行再誕の日蓮聖人によって、日本に打ち立てられている。それは久遠の本仏が「我常在此娑婆世界説法教化」していることであり、故に「我が朝は本仏の所住なるべき故に」となります。

 

そして三位日順の著作は日蓮について「上行菩薩」なのです。

本文でも

「今・末法万年の良薬は上行所伝の本門の肝心・妙法の五字なり、」

「之を以つて之を思ふに末法は本門弘通の時節・上行の付囑分明なり、然りと雖ども白法隠沒して本門の弘通をも信ぜず、闘諍堅固なれば上行の出世をも知らず、還つて杖木の難を蒙ることは不軽菩薩の如く」

とあります。

 

 

3 1328年・嘉暦3年 7月 「五人所破抄」 日代筆 三位日順草案 

爰に先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主たりと雖も、早く無常の相を表して円寂に帰入するの刻み、五字紹継の為に六人の遺弟を定めたまふ。五人所破抄

【 寺院信者 】

既に上古に「末法の主=大聖人=本仏」との教義は顕示せられていた証拠である。

この意は、神力品の別付嘱を受けられた「末法の主」である御先師日蓮大聖人、という意義である。この「末法の主」とは如何なる意味であるかといえば、この冒頭の前文を見るに、「夫以れば諸仏懸遠の難きことは譬へを曇華に仮り、妙法値遇の縁は比を浮木に類す。塵数三五の施化に猶漏れて、正像二千の弘経も稍過ぎ已はんぬ。闘諍堅固の今は乗戒倶に緩く人には弊悪の機のみ多し、何の依憑しきこと有らんや。設ひ内外兼包の智は三祇に積み大小薫習の行は百劫を満つとも、時と機とを弁へず本と迹とに迷倒せば其れも亦信じ難からん。爰に先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主たりと雖も云々」

ここの「正像二千の弘経も稍過ぎ已はんぬ。」との文は、当然のことであるが、釈尊二千年の脱益仏法の終焉を意味しており、その後の「末法の主」とはまさに下種の本仏との意義である。

 

【 林 】

「その後の『末法の主』とはまさに下種の本仏との意義である」は寺院信者さんならではの解釈論。同抄中にも「上行菩薩再誕」とあります。

一方で「日蓮大聖人は末法の主」更に「上行菩薩」とある場合の読み方については、一方で「教主釈尊・主師親三得具備」一方で「日蓮に主師親」とある「一谷入道御書」「下山御消息」をあわせて拝せばその意は明瞭です。

日蓮自身の教示を基準に、門下の記述は読むべきでしょう。

 

◎ 一谷入道御書  建治元年五月八日

日蓮は愚なれども釈迦仏の御使法華経の行者なりとなのり候を用いざらんだにも不思議なるべし、其の失に依つて国破れなんとす、況や或は国国を追ひ或は引はり或は打擲し或は流罪し或は弟子を殺し或は所領を取る、現の父母の使をかくせん人人よかるべしや、日蓮は日本国の人人の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし是を背ん事よ、念仏を申さん人人は無間地獄に堕ちん事決定なるべし、たのもしたのもし。

 

◎ 下山御消息 建治三年六月 五十六歳  

抑釈尊は我等がためには賢父たる上明師なり聖主なり、一身に三徳を備へ給へる仏の仏眼を以て未来悪世を鑑み給いて記し置き給う記文に云く『我涅槃の後無量百歳』云云仏滅後二千年已後と見へぬ、(略)自讃には似たれども本文に任せて申す・余は日本国の人人には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり、一には父母なり二には師匠なり三には主君の御使なり、経に云く『即如来の使なり』と又云く『眼目なり』と又云く『日月なり』と章安大師の云く『彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり』等云云

 

⇒ この二つの書により日蓮は「久遠実成の釈尊を本仏」とし、自身の立場というのは「釈迦仏の御使」とされていたことが拝されます。

そして、末法の正法は神力品第二十一で別附属された妙法蓮華経であり、それは日蓮が唱へ始められたものであり、上行菩薩として弘通されるわけですから「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし主君ぞかし明師ぞかし」となります。

「五人所破抄」の該文はそれを鮮明にした表現と考えます。

 

◇前掲ですが、同じ「五人所破抄」にも「日蓮=上行菩薩」との記述があります。

「日興公家に奏し武家に訴えて云く。日蓮聖人は忝くも上行菩薩の再誕にして本門弘経の大権なり」

「今末法に入つては上行出世の境本門流布の時なり正像已に過ぎぬ何ぞ爾前迹門を以て強いて御帰依有る可けんや、就中天台伝教は像法の時に当つて演説し日蓮聖人は末法の代を迎えて恢弘す、彼は薬王の後身此れは上行の再誕なり経文に載する所解釈炳焉たる者なり」

 

 

【 寺院信者 】

(前文につき)凡そ仏法は所対に従って法を説くのである。
「諸の法相は所対に随って同じからず、敢えて偏執すること勿れ、偏執すること勿れ。」
この箇所は日興上人が「公家に奏し武家に訴えて」奏文をされた箇所である。
が故に法華経文上における上行菩薩が理の指し示すところ「日蓮聖人」であり、そのお立てになった仏法に帰依しなければならない。と訴えられたところである。

謗法の為政者に向かっては、徒な不審を起こさせるが故に、直ちに日蓮大聖人の本地が下種本仏である意義を説かれないのは当然過ぎるほど当然である。

 

【 林 】

◇定番の話術ですね。

以下の日興による諌状では「日蓮が上行菩薩再誕であることは経文に炳焉(へいえん=はっきりとしているさま、あきらかなさま)である」といわれております。

もし、信者さんの解釈を正とすれば「日興は経文=法華経に明らかだといいながらウソをついた」ということになります。

この信者さんの解釈は、現在の日蓮系一宗派の発想からの捉え方です。現在の思考だけで上代の文献を読むのは誤りでしょう。又、日興を貶めることともなります。

 

◎ 興師申状の三、祖滅四十六年、写本要山等に在り、五人所破抄に引用せるものにして公家上奏の分なり

今末法に入っては上行出世の境本門流布の時なり~天台伝教は像法の時に当たって演説し日蓮聖人は末法の代を迎へて恢弘す、彼れは薬王の後身此れは上行の再誕なり、経文に載する所解釈に炳焉なる者なり

嘉暦二年八月日(1327)

 

◎ 興師申状の一、祖滅八年、写本要山等に在り、武家への諌状なり (富要 8-332 )

日蓮聖人仏の使いとなり生を末世に受けて正法を弘め志を求法に寄せて円意を悟る

正応二年正月日(1289年・身延離山の年)

 

この諌状では「日蓮=仏の使い」とされております。

 

 

4 1342年・興国3年・康永元年 314日 「誓文」  (富要 2-28 )

別して本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り、現世には一身の安堵を失ひ、劫つて諸人の嘲りを招き・未来には無間に堕ち将に大苦悩を受けんとす、

 

◇「別して本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り」で一瞬「日蓮=本仏」とも思いそうですが、前ページにこうあります。

「抑も日蓮聖人は忝くも上行菩薩の後身・当時利益の大権なり、未了の者の為めに事を以つて理を顕すの昔は・虚空会に出現して以要言之の付嘱を受け、後五百歳に必ず流伝すべきの今は・扶桑国に降臨して広宣流布の実語を示し玉ふ、」

日順は「日蓮大聖人=上行菩薩の後身」としています。

 

◇該当箇所は前から読めば

「或は親疎有縁の語に依つて非を以て理に処し、或は富福高貴の威を恐れて法を破り礼を乱る、若しくば妄情自由の見を起して悪と知つて改めず若しくば正直無差の訓を聞き善と知つて同ぜざる者は、仏滅後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内・未曽有の大漫荼羅・所在の釈迦多宝十方三世諸仏・上行無辺行等普賢文殊等の諸薩た・身子目連等の諸聖・梵帝日月四天竜王等・刹女番神等・天照八幡等・正像の四依竜樹天親天台伝教等・別して本尊総体の日蓮聖人の御罸を蒙り、現世には一身の安堵を失ひ、劫つて諸人の嘲りを招き・未来には無間に堕ち将に大苦悩を受けんとす、」

となっており、正法違背の者が「妙法曼荼羅=本尊総体の日蓮聖人」の罰を受ける様を述べるくだりでの一表現でしょう。

 

【 寺院信者さん 】

まさに我田引水・牽強付会の手本のような箇所である。
「別して本尊総体の日蓮聖人」とはまさに人即法・法即人の御本仏の境地を表しているではないか。
しかも前段に掲載した同じく三位日順師の五人所破抄の
「先師聖人親り大聖の付を受けて末法の主たりと雖も云々」とはまさに大聖人が末法の御本仏との意ではないか。

 

【 林 】

◎「諸法実相抄」を引用します。

「地涌の菩薩の中の上首唱導・上行・無辺行等の菩薩より外は、末法の始の五百年に出現して法体の妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕すべき人なし」 と、妙法蓮華経の五字=題目を弘通する、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す=本尊を図顕するのは地涌の菩薩の上首・上行菩薩である、と明言しています。

 

上行菩薩が本尊を図顕すると日蓮自身が述べているのです。そして、鎌倉時代に妙法蓮華経を弘通し、本尊を図顕したお方は上行再誕の日蓮その人ですから、その上行菩薩をいきなり本仏とするのも無理があるというものでしょう。現在の日蓮系一宗派の思考で上代の文献を読むと穴に落ちるというものです。

「五人所破抄」は前出です。

 

 

5 晩年の三位日順の著作を見れば、日蓮を上行菩薩としていたことがうかがえます 

 

① 1349年・貞和五年5月中旬 「本門心底抄」(富要 2-29 )

伏して惟るに正像稍過き已て末法太だ今に有り、権迹倶に停止して本門宜しく信受すべし、所謂る従地涌出の下方の大士・神力別付の上行応化の日蓮聖人・宣示顕説の妙法蓮華経の五字是れなり。

 

② 1350年・観応元年3月中旬 「摧邪立正抄」  (富要 2-41 )

末法万年の時には・本化上行を召して本門の秘要を嘱し・仏付違はず経説に符合す、日蓮聖人出現して結要付嘱を弘通す、宣示の相貌即ち是れ上行菩薩の後身なり、

 

夫れ日蓮聖人は忝くも上行菩薩の応化・末法流布の導師なり、未了者の為めに事を以て理を顕はすの昔は虚空会に出現して以要言の付嘱を受け、後五百歳必応流伝の今は扶桑国に降臨して広宣流布の実語を表す、P46

 

次に富士の義に云はく・日蓮聖人は上行菩薩にて御座すP47

 

今日蓮聖人は妙法の五字を一切の順逆に授け玉へり・豈に上行に非ずや、故に金吾抄に云はく・而るに予地涌の一分に非ざるも兼ねて此の事を知り地涌の大士に先つて粗ぼ五字を示す云云、或る抄に云はく日蓮は其の人には候はねどもと侍る・是れ等こそ証拠にて候へ。P47

 

日蓮は広畧を捨てて肝要を好む・所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字是れなり云云、経釈の説相・御抄の自証・聖人は寧ろ上行に非ずや、P49

 

⇒以上、三位日順=日蓮本仏論者ではない、日蓮を上行菩薩再誕と位置付けていた、ということです。