メモ 3

 

さて、いきなり、

仏教の目的は何か?

仏とはどんな存在か?

一切の仏教経典には唱題により成仏できるという文証はない!

と問われたら何と答えますか?

 

以下、直観による即席問答です。

 

1.仏教の目的は何か

⇒一切衆生皆成仏道にある。

 

舎利弗当に知るべし 我本誓願を立てて

一切の衆をして 我が如く等しくして異ることなからしめんと欲しき

妙法蓮華経方便品第二

 

久遠の仏と如我等無異であるということ・・・それは一人から始まる「私が得た大いなるものを皆と分かち合いたい」との、万人の物語だ。

 

 

2.では、仏とはどんな存在か

⇒法華経信仰圏で仏と言えば「久遠の仏」。

法華経(大乗経典)とは、初めの覚者に連なるその時代の覚者により創られ継承されてきた、大いなる慈悲の音声の集積。即ち教主に連なりし、その時代の覚者の「悟達と慈悲の結晶」が法華経を始めとした大乗経典である。

久遠実成の本仏(久遠仏)とは、法華経成立、展開の歩みの中で、覚者たちにより覚(さと)り出(いだ)された、人間の思考の彼方にある(人間の思考で成せる領域の内外)大いなる法・大いなる理想の人格が融合した大いなる力そのもの。

『久遠の仏』それは祈る人、願う人、求める人の胸中にいる教主でもある。

 

 

3.日蓮門下は南無妙法蓮華経と熱心に唱える(唱題)が、全ての仏教経典には唱題により成仏できるという教え・文証はない。

⇒しかり。

がしかし、宗教とは思考する人間による精神の創造作業でもある故に、「これで終わり」というものはなく、「信仰のかたち」は変化を続ける。私が「仏教とは悟達と慈悲の集積である」と考えている所以だ。

日蓮は法華経の肝心・極理を南無妙法蓮華経とし、「観心本尊抄」(1273年・文永10425日 真蹟)で「釈尊(久遠仏)の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば、自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ」と定義・意義付けて、南無妙法蓮華経を唱えることによる成仏、即ち唱題成仏の法門を説いた。さらに「一念三千を識()らざる者には仏大慈悲を起し五字の内に此の珠を裹(つつ)み末代幼稚の頚(くび)に懸()けさしめ給う」として、身命に及ぶ大難を乗り越えた自らが、末法の衆生に唱題成仏の根本尊敬の当体としての妙法曼荼羅を顕し授与するという振舞をなしたのである。これは日蓮その人に、「末法における久遠仏の体現者たるの自覚があった」ことを意味するものだろう。

 

4.では、唱題によって成仏できるとして、題目に力があるのか、それとも本尊に力があるのか。

本尊に力があるとして、その本尊は漫荼羅(法本尊)か、仏像(仏本尊)か。

⇒「仏法の根本は信を以て源とす」(日女御前御返事)とあるように、信仰は文字通り信から始まる故、信ある者には題目・本尊共に力の源泉に。信がなければ、ただの呪文と紙にしか過ぎないことだろう。これは信あり=上、信なき=下という信仰による上下の問題ではなく、純然に「信あるやなしや」の観点である。

 

「法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄)との教示によれば、本尊は仏像ではなく曼荼羅というべきだろう。これを「仏像を安置して拝する清澄寺信仰圏への対機説法にすぎない」との解釈にも無理があり、事実として日蓮が精魂を傾けて「作成」したのは仏像ではなく曼荼羅であったことからすれば、本尊問答抄に教示したとおりのことを日蓮自らが実際に証明したということになるだろう。

 

 

◇求道心から起こる直観智は経験の限界を超越して真理の世界に至る

 

 

◇同時代のすべての生命の営みは万年という時間をかけての妙法蓮華経への帰命の歩みである

 

 

◇仏教とは

ガウタマ・シッダールタを釈尊として尊信した、それぞれの時代の導師が求道心から起こる直観智により経験の限界を超越して真理の世界へと至り、祈りと願い・慈悲と智慧を衆生救済の言葉として創出、法を覚知・創造したものである。

 

導師=求道者が衆生救済の言葉を創出、法を覚知し得たのは、その時代の衆生の機根と願い、求めと共にあったからであり、綴られし経典群は時代の闇を照らす光輝く言葉ともいえよう。