なぜ、妙法曼荼羅本尊が「本門の教主釈尊」「仏像」なのか?
日蓮的信仰観・教理的理解では、法華経即釈尊、即ち法華経即久遠の仏である。
法華経は即ち釈迦牟尼仏なり法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世なり。
守護国家論
さらに法華経の肝心は南無妙法蓮華経である。
法華経の肝心たる南無妙法蓮華経
報恩抄
教理的には釈尊・久遠の仏とは法華経であり、法華経は南無妙法蓮華経である。即ち釈尊・久遠の仏、法華経、南無妙法蓮華経は『異名同体』であれば、南無妙法蓮華経が認められた妙法曼荼羅本尊を指して遺文中で「法華経」と記述したり、「釈尊」と表現するのも、門下の一般的な信仰理解を促す観点からは道理といえるのではないでしょうか。
さらに「観心本尊抄」に見られる「仏像」も「曼荼羅本尊をかく表現した」「いや、仏の像と素直に拝すべきである」と解釈は様々ですが、鎌倉時代当時の「仏菩薩像への合掌礼拝が常の信仰世界」に日蓮独創の妙法曼荼羅を本尊として礼拝をうながすには、「教理的意義」を鮮明にして理解せしめることが必要であり、門下の機根と理解を踏まえて、従来の仏菩薩像に替わる新たなる仏像=久遠の仏の像の意を妙法曼荼羅に含ませたが故に「仏像」(観心本尊抄)、さらには「本門の教主釈尊」(報恩抄)などの表現になったと考えるのです。
真の久遠の仏の像は妙法曼荼羅本尊であるとの、日蓮的な自在なる表現話法ではないでしょうか。
2023.10.1