その時の到来~日本国の広宣流布から世界宗教への飛翔

 

撰時抄 建治元年(1275)6月 54

 

釈子日蓮述ぶ。~

 

我が朝一同にその義になりて今に五十余年なり。日蓮これらの悪義を難じやぶることは、事ふり候いぬ。

彼の大集経の白法隠没の時は、第五の五百歳、当世なることは疑いなし。ただし、彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、その国々に八万の王あり、王々ごとに臣下ならびに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱うるがごとく広宣流布せさせ給うべきなり。

 

意訳

我が日本国は、「その義」即ち法然の教え「ただひたすら南無阿弥陀仏と唱えよ」に染まっており今に五十余年になります。日蓮は立教以来、この念仏の悪義を難じ破りつづけて、年月を経ております。

彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳であり、当世であることは疑いありません。ただし彼の白法隠没の次には、法華経の肝心たる南無妙法蓮華経が大白法として広宣流布する。(その広宣流布の様相は)一閻浮提の内に八万の国があり、その国々に八万の王があり、これらの王が全部・また王の臣下・万民までも、ことごとく、今日本国で阿弥陀仏の名を口口に唱うるごとく、南無妙法蓮華経を広宣流布させていくのです。

 

 

「日本国で南無阿弥陀仏を多くの人々が唱えているように、南無妙法蓮華経を一閻浮提へ広宣流布していきなさい」

 

・当時の日本では、全ての人々が念仏を唱えてはいない。

・しかし、日蓮は「念仏流布の様相を以て広宣流布」と理解できる教示をしている。

・広宣流布とは帰着点ではなく、日本国で人々が念仏を唱えているように南無妙法蓮華経を多くの人が唱えること。

 

 

日本一国に焦点を当て考えると、

・念仏をはじめ、日蓮法華以外の仏教(爾前権教や密教)を信じる人々が日本を動かしていた。

・日蓮は、その「法の流布と社会のあり方」を以て広宣流布としている。

と読み解けるものであり、

これは

「仏教(日蓮的には爾前権教)を信受する人々によって一国(日本)の動向が決せられる状態を広宣流布とする」

ものであり、日蓮の意とするところは

「正法を信受する人々により一国(日本)の動向が決せられる状態を以て広宣流布とする」

というものではないでしょうか。

 

現在の日本国は、正法を信受する人々が「世のため人のため」に一国を動かすだけの力を有しており、

①「撰時抄」での広宣流布についての教示とそれを読み解いたときの理解、

また

②「立正安国論」を以て時の事実上の国主たる北条時頼に捨邪帰正を促し、国主の正法信受による天下泰平・国土安穏を実現しようとした日蓮の政治と権力への関わり方

を踏まえれば、「現在の日本国は広宣流布している」といえるのではないでしょうか。

 

もちろん広宣流布とは帰着点ではありませんから、「これで終わり」というものではなく、次なる展開は「日本から世界への本格的な飛翔・世界宗教としての飛翔」というものが求められているのだと考えます。

 

日本から世界へ、日蓮仏法の一閻浮提広宣流布・立正安世界へ。

「教学要綱」が出来した今、「その時の到来」との感を深く抱くのです。

 

 

2024.9.29