9 行者の内観を顕す時・行者の勝劣を決する時
「曾谷入道殿御書」(文永11年[1274]11月20日)の「最後なれば申すなり」から、少しして書かれた万年救護本尊に日蓮は「上行菩薩」と書いたのですが、一箇月後の文永12年(1275)1月27日の「四条金吾殿女房御返事」と一年後の建治2年(1276)1月24日付「大田殿許御書」では、「経典の勝劣」よりも「受持経典の違いによる行者の勝劣=人の勝劣」を強調して、「最大事」「一経第一の肝心」と強調していることには注目したいと思います。
「四条金吾殿女房御返事」文永12年(1275)1月27日
所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法、真言師にはすぎず。是れは且く之を置く。十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を、詮と思しめされて候。なにをもんてこれをしるとならば、第八の譬への下に一の最大事の文あり。所謂此の経文に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の目也。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は、衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文也。
されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず。法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ、仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。
「大田殿許御書」建治2年(1276)1月24日付、又は建治3年(1277)
法華経の第七に云く「是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此の経の薬王品に十喩を挙げて已今当の一切経に超過すと云云。第八の譬、兼ねて上の文に有り。所詮、仏意の如くならば経之勝劣を詮とするに非ず。法華経の行者は一切之諸人に勝れたる之由、之を説く。大日経等の行者は諸山・衆星・江河・諸民也。法華経の行者は須弥山・日月・大海等也。而るに今の世、法華経を軽蔑すること土の如く民の如く、真言の僻人を重崇して国師と為ること金の如く王の如し。之に依て増上慢の者、国中に充満す。青天瞋りを為し、黄地夭孼を至す。涓聚まりて墉塹を破るが如く、民の愁ひ積もりて国を亡ぼす等是れ也。
万年救護本尊で「上行菩薩」と示した後、「法華経薬王菩薩本事品第二十三」の十喩の内、特に第八番目の「又一切の凡夫人の中に須陀・斯陀含・阿那含・阿羅漢・辟支仏為れ第一なるが如く、此の経も亦復是の如し。一切の如来の所説、若しは菩薩の所説、若しは声聞の所説、諸の経法の中に最も為れ第一なり。能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり。」を引用強調しているのは、次なる蒙古襲来と亡国を眼前にして、法を弘める自らの内実を顕す時、即ち「行者の内観を顕す時」に至ったとの判断と、密教の異国調伏の祈祷が世を覆う中で「法華経の行者対大日経の行者(東密・台密)」という「行者の勝劣」を決する時が来た、との認識があったのではないでしょうか。
緊迫した情勢の中で、日蓮は自己をして仏教上どのように位置付けたのか。それを示すのが万年救護本尊の「上行菩薩」との表現と、法華経の行者として「一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」というものだったのでしょう。
「日本国に此れをしれる者、但日蓮一人なり」(開目抄)との自覚に生きる日蓮は、未だかつてなき国難、危機の高まりと共に、自己認識も大いに高まっていくのです。
そのような日蓮の、「仏教上の自覚の高揚」がうかがえる自己表現というものが、以降の著作に多く見られるようになります。
文永12年(1275)4月12日「王舍城事」
章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。かう申すは国主の父母、一切衆生の師匠なり。
建治元年(1275)5月8日「一谷入道御書」
日蓮は日本国の人々の父母ぞかし、主君ぞかし、明師ぞかし。
建治元年(1275)6月「撰時抄」
法華経をひろむる者は日本の一切衆生の父母なり。章安大師云はく「彼が為に悪を除くは即ち是彼が親なり」等云云。されば日蓮は当帝の父母、念仏者・禅衆・真言師等が師範なり、又主君なり。
「撰時抄」
日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。此れ等をみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすゝめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合わせ、四海に肩をならぶべきや。
「撰時抄」
日蓮は日本第一の法華経の行者なる事あえて疑ひなし。これをもつてすいせよ。漢土・月支にも一閻浮提の内にも肩をならぶる者は有るべからず。
建治2年(1276)3月27日「富木尼御前御書」
日本国の一切衆生の父母たる法華経の行者日蓮
建治2年(1276)7月21日「報恩抄」
法華経の第七に云く「能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり」等云云。此経文のごとくならば、法華経の行者は川流江河の中の大海、衆山の中の須弥山、衆星の中の月天、衆明の中の大日天、転輪王・帝釈・諸王の中の大梵王なり。
建治3年(1277)6月「下山御消息」
余は日本国の人々には上は天子より下は万民にいたるまで三の故あり。一には父母なり、二には師匠なり、三には主君の御使ひなり。経に云はく「即ち如来の使なり」と。又云はく「眼目なり」と。又云はく「日月なり」と。章安大師の云はく「彼が為に悪を除くは則ち是彼が親なり」等云云。
そして、日蓮の自己認識の高まる建治年間から、「法華経の行者」に供養する功徳を強調するようになります。
建治元年(1275)6月16日「国府尼御前御書」
法華経第四法師品に云はく「人有って仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在って無数の偈を以て讃めん。是の讃仏に由るが故に無量の功徳を得ん。持経者を歎美せんは其の福復彼に過ぎん」等云云。文の心は、釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも、末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりとと(説)かれて候。まこと(実)しからぬ事にては候へども、仏の金言にて候へば疑ふべきにあらず。其の上妙楽大師と申す人、此の経文を重ねてやわ(和)らげて云はく「若し毀謗(きぼう)せん者は頭七分に破れ、若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云。釈の心は、末代の法華経の行者を供養するは、十号具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり。又濁世に法華経の行者のあらんを留難をなさん人々は頭七分にわ(破)るべしと云云。
建治元年(1275)7月26日「高橋殿御返事」
瓜(うり)一籠、さゝげ(豇豆)ひげこ(髭籠)、えだまめ(枝豆)、ねいも(根芋)、かうのうり(瓜)給(た)び候ひ了んぬ。付法蔵経と申す経には、いさご(沙)のもち(餅)ゐを仏に供養しまいらせしわら(童)は、百年と申せしに一閻浮提の四分が一の王となる。所謂(いわゆる)阿育大王これなり。法華経の法師品には「而於一劫中(においっこうちゅう)」と申して、一劫が間釈迦仏を種々に供養せる人の功徳と、末代の法華経の行者を須臾(しゅゆ)も供養せる功徳とたくら(比)べ候に「其の福復(また)彼に過ぐ」と申して、法華経の行者を供養する功徳はすぐ(勝)れたり。これを妙楽大師釈して云はく「供養すること有らん者は福十号に過ぐ」と云云。されば仏を供養する功徳よりもすぐれて候なれば、仏にならせ給はん事は疑ひなし。
文永11年12月、万年救護本尊讃文の中に、たとえ蒙古の攻めによって我が身命がなくなろうとも後世に残すべき自らの真実、即ち「教主釈尊より妙法蓮華経の付属を受け、滅後末法の弘通を託された『上行菩薩』である」と文の表に示し、『大本尊』と書くことにより「末法の衆生が拝するべきは妙法の曼荼羅本尊であり、末法の新たなる本尊を独創した日蓮こそ末法の教主である」と信解せしめる意を含ませた後、日蓮はいわば変わったのです。
蒙古襲来という未曽有の国難が起き、迫りくる第二次襲来を前にして日本国が動揺、顕密仏教もその限界を露呈して「日蓮一人」が一切を背負って立つ事態となった今、『上行菩薩』という自覚を曼荼羅上に示し、『大本尊』に末法の教主の意を含ませたことが内面世界の沈黙を破る契機となり、「日蓮とは仏教上どのような人物なのか」「日蓮を信じることの功徳」「日蓮に背く結果」「日蓮に供養する意味」「日蓮は日本国にとってどのような人物なのか」ということを、誰はばかることなく語り出します。
これらが万年救護本尊を図顕した後、建治期の書に多く見られることにより、同本尊を顕わしたことが、日蓮の一生では竜の口に次ぐ画期となったことが理解されるのではないでしょうか。