9 本地垂迹説
ここでは熊野三山から目を転じ、中世仏教を語るのにさけて通れない本地垂迹説の成り立ちについて、ひととおり概観しておこう。
(1) 仏菩薩の仮の姿としての日本の神
逵日出典氏の教示(1)によると、本地垂迹説は一挙にまとまって現れたものではなく、先に垂迹思想が現れているという。
文献上の初見は、「日本三代実録」の貞観元年(859)八月二十八日辛亥条、「依十禅師伝灯大法師位恵亮表請。始置延暦寺年分度者二人。其一人為賀茂神。可試大安楽経。加試法華経金光明経。一人為春日神。可試維摩詰所説経。加試法華経金光明経。表曰。恵亮言。皇覚導物。且実且権。大士垂迹。或王或神。」になるようだ。
これは貞観元年8月28日、延暦寺の恵亮(812~860)が賀茂神と春日神のために比叡山に年分度者二人を置くことを表請した文で、賀茂神分の一人は大安楽経を修し、加えて法華経、金光明経を修する。春日神分の一人は維摩経を修し、加えて法華経、金光明経を修することにしている。続いての「皇覚の物を導くは且つは実、且つは権。大士の迹を垂るるは、或は王、或は神」(皇覚=如来が教え導くのには実[の姿]もあれば権[仮の姿]もある、大士[菩薩]が仮の姿と現れるのには、あるいは王となり、あるいは神となる)が垂迹思想の嚆矢とされるところだ。
次に、承平7年(937)10月4日、大宰府から筥崎宮に出された文書に、「彼宮此宮雖其地異、権現菩薩垂迹猶同。」(彼宮[宇佐宮]・此宮[筥崎宮]その地異なりと雖も、権現菩薩垂迹猶同じ。石清水神社文書・二)とある。法華経を納める宝塔院が宇佐弥勒寺(大分県宇佐市・宇佐神宮の境内にあった神宮寺)に予定されていたのが、筥崎神宮寺(福岡県福岡市箱崎の筥崎宮にあった)に変更されたことについて、「宇佐の宮と筥崎の宮では土地は異なるが、権現菩薩(八幡大菩薩)が垂迹されることは同じである」としている。
続いては、「大安寺塔中院建立縁起」(応和二年・962)の奥書で、それによると、大安寺の僧・行教(生没年不詳)は入唐帰朝の際、豊前国の宇佐八幡宮に一夏九旬の間参籠する。参籠中、衣の袖上に釈迦三尊が顕現しており、これは八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが成立していたことを意味するものとされる。
以上の恵亮表請文、石清水神社文書、大安寺塔中院建立縁起より、9世紀の半ばから10世紀にかけて、仏菩薩の仮の姿としての日本の神という観念が現れていることが読み取れる。11世紀から12世紀にかけては、古来からの各地の神に本地仏が設定され、本地垂迹説が結実する時代となる。
(2) 各社の本地仏
➀ 厳島神社
長寛2年(1164)9月、平清盛(1118~1181)は一門の繁栄を感謝し来世の妙果を願い、法華経三十巻・阿弥陀経一巻・般若心経一巻・願文一巻を厳島社に奉納(平家納経)。その願文には「相伝云、当社是観音菩薩之化現也。」とあり、観音菩薩の化現が厳島社の神・伊都岐島明神であるとされていた。
「源平盛衰記」巻第十三の「入道信厳島並垂迹事」では、厳島社の本地を記述している。
本地を申せば、大宮は是れ大日、弥陀、普賢、弥勒。中宮は十一面観音。客人宮は仏法護持多門天、眷属神等、釈迦、薬師、不動、地蔵也。惣八幡別宮とぞ申ける。
厳島社の本地譚を記した「厳島御本地」にも、以下のようにある。
抑々厳島大明神と申し奉るは。我が朝推古天皇の御時。たんしやう五年甲申(きのえさる)十二月十三日に。 日本秋津島山陽道安芸の国ささいの郡とかげ村に。衆生済度のために跡を垂れ玉ふ。かの大明神の御本地を委しくたづねたてまつるに。昔天竺に十六の大国あり。
中略
今是程の島をみず。いつくしき島と仰せあるによつて。厳島とはそれより申し始まりけり。御託宣により。まづかりどのをはじめとして。まづ大ごんせんと申すなり。あしびきのみやの御事也。御本地は胎蔵界の大日なり。またあとより善財王の御事は。 たづねさせ給ひていらせ給へば。客人に思召。まろうど(客人)の御前とは申すなり。御本地は毘沙門天にておはします。たき(滝)の御前は。からびくせんの御王子の御事なり。御本地は千手観音にておはします。ひじり(聖)の御前と申すは。かびら(迦毗羅)国の上人にておはします。本地は不動明王にておはします。あらえびすと申すは。島の御案内申したるひじり蔵本なり。
② 日吉大社
最澄以来の日本天台と日枝山(比叡山)の山岳信仰、神道が融合した山王神道でも山王権現(日吉権現または日吉山王権現とも)の本地を設定している。それによると、大宮・大比叡(西本宮)は釈迦如来、二宮・小比叡(東本宮)は薬師如来、摂社である聖真子(宇佐宮)は阿弥陀如来、八王子(牛尾神社)は千手観音、客人(白山姫神社)は十一面観音、十禅師(樹下神社)は地蔵菩薩、三宮(三宮神社)は普賢菩薩とされている。
「源平盛衰記」巻第四の「山王垂迹の事」には、比叡山・大乗院の慶命が山王の本地を釈尊と知り、感涙した模様が記されている。
凡そ山王権現と申すは、磯城島金刺宮即位元年、大和国城上郡大三輪神と天降り給ひしが、大津宮即位元年に、俗形老翁の體にて、大比叡大明神と顕れ給へり。大乗院の座主慶命、山王の本地を祈り申されけるに、御託宣に云はく、此にして無量歳仏果を期し、是にして無量歳群生を利すと仰せければ、座主、提婆品の我見釈迦如来、於無量劫、難行苦行、積功累徳、求菩薩道未曾止息、観三千大千世界、乃至無有如芥子許非、是菩薩捨身命処と云ふ文に思ひ合はせて、大宮権現は、はや、釈尊の示現なりけり。されば、我が滅度後、於末法中、現大明神、広度衆生とも仰せられ、汝勿啼泣、於閻浮提、或復還生現大明神とも慰め給ひけるは、日本叡岳の麓に、日吉の大明神と垂跡し給ふべき事を説き給ひけるにこそと、感涙をぞ流されける。
③ 春日社
「春日社古記」の承安五年(1175)三月一日条では、一宮から四宮、更に若宮の祭神の本地について、以下のように記している。
一宮 祭神・武甕槌命=本地・不空羂索観音
(「春日社古社記」「春日社私記」は、「あるいは釈迦如来」と追記)
二宮 祭神・経津主命=本地・薬師如来
(「春日社古社記」は「あるいは弥勒菩薩」と追記)
三宮 祭神・天児屋根命=本地・地蔵菩薩
四宮 祭神・比売神=十一面観音
(「春日社古社記」は大日如来、「春日社私記」は救世観音を追記)
若宮 祭神・天押雲根命=文殊師利菩薩
(「春日社私記」は「あるいは十一面観音」と追記)
④ 祇園三所権現
治承3年(1179)4月、沙門観海は祇園三所権現(京都・八坂神社)の金銅三尺の仏菩薩像三体造立と、三尺の円鏡三面作成を発願。施主を募り助成を呼びかけた勧進文が平安後期の漢文集である「卅五文集」に載せられている。それによると、祇園三所権現の本地は薬師如来、文殊師利菩薩、十一面観音としている。
⑤ 古事談
源顕兼(1160~1215)が、建暦2年(1212)から建保3年(1215)の間に編纂した説話集「古事談」でも、神の本地仏にまつわる話を紹介している。
藤原範兼(1107~1165)は京都・賀茂社に参詣するたび、般若心経を書き奉納していた。ある日、「大明神の御本地は何にて御坐(おはしま)すやらむ」と祈請。その後、夢の中に女性が現れ、本地を問うと蓮華を持つ等身の正観音に変じ、身を焼いて代受苦の姿を示した。目が覚めた範兼は等身の正観音を造立し、東山堂に安置したという。(第五神社仏寺・十四)。
平清盛が高野山に大塔を建てるべく自らも材木を持ち作業していた時、香染の僧が現れ、「日本国の大日如来は、伊勢大神宮と安芸の厳島なり。大神宮はあまり幽玄なり。汝適(たまたま)国司と為る。早く厳島に奉仕すべし。」と告げられた。清盛が僧の名を問うと「奥院の阿闍梨となむ申す(空海を意味する)」と答え、消え失せたという(第五神社仏寺・三十三)。
⑥ 諸神本懐集
本願寺3世・覚如(1271~1351)の長子で、親鸞(1173~1262)より5代目にあたる存覚(1290~1373)は東大寺で出家受戒後、興福寺、延暦寺で学び、真宗の布教を活発に行った。元亨4年(1324)、存覚は了源(1295~1336)の求めに応じ、「浄土真要鈔」「持名鈔」「諸神本懐集」の三書を著わし付与している。そのうち「諸神本懐集」は、鎌倉新仏教の神道論を代表するもの、と評価されている。
主眼とするところは、「諸神の本懐を明かして、仏法を行じ、念仏を修すべき思いを知らしめんと思う」(同書冒頭)、即ち諸国の各社に祀られる神の本意は、衆生をして念仏に帰入させることにあるというものだが、文中、鹿島、熊野、三島、箱根、白山、熱田等、主だった神社の本地仏が記述されていて、興味深い内容だ。特に熊野十二所権現に関しては、「殊に日本第一の霊社と崇められ給う」として開創譚を引用しての長文の解説となっており、当時、熊野信仰がいかに喧伝されていたかをうかがえる史料となっている。 《 本文内の( )は筆者が記す。また適宜改行した 》
欽明天皇の御時、仏法はじめて広まりしよりこのかた、神を敬うを以て、国の政(まつりごと)とし、仏に帰するを以て、世の営みとす。これによりて、国の感応も他国に優れ、朝の威勢も異朝に超えたり。これしかしながら、仏陀の擁護、また神明の威力なり。ここを以て、日本六十六箇国の間に、神社を崇むること、一万三千七百余社なり。延喜の神明帳に載するところ、三千一百三十二社なり。
そもそも日本我が朝は、天神七代、地神五代、人王百代なり。その内、天神の第七代をば、伊弉諾(いざなぎ)・伊弉冉(いざなみ)と申しき。伊弉諾の尊は男神なり。今の鹿島の大明神(鹿島神宮)なり。伊弉冉の尊は妃神なり。今の香取の大明神(香取神宮)なり。
中略
鹿島の大明神は、本地十一面観音なり。和光利物のかげ遍く、一天を照らし、利生済度の恵み、遠く四海に蒙らしめたり。この故に、頼みをかける人は、現当の悉地を成じ、心をいたす輩(ともがら)は、心中の所願を満つ。奥の御前(鹿島社の摂社の筆頭・奥宮)は、本地不空羂索なり。左右の八龍神(鹿島社の摂社)は、不動毘沙門なり。利生各々頼みあり。済度皆むなしからず。
この明神は、奈良の京にしては春日の大明神(春日大社)と現じ、難波の京にしては住吉の大明神(大阪市の住吉大社)と現れ、たいらの京にしては、或いは大原野の大明神(京都の大野原神社)と崇められ、或いは吉田の大明神(京都の吉田神社)と示し給う。処々に利益を垂れ、一々に霊験を施し給う。本社・末社・利生皆めでたく、洛中・洛外、済度ことに優れたまえり。
子守の御前(熊野の子守宮か)は、鹿島にては奥の御前と現れ、春日にては五所の宮(不明)と示し給う。天照大神は日天子、観音の垂迹、素戔嗚尊(すさのおのみこと)は月天子、勢至の垂迹なり。この二菩薩は、弥陀如来の悲智の二門なれば、この両社もはら弥陀如来の分身なり。この両社すでに然なり。以下の諸社、また弥陀の善巧方便に非ずということあるべからず。
熊野の権現というは、元は西天魔訶陀国の大王、慈悲大賢王なり。しかるに本国を恨み給うことありて、崇 神天皇即位元年秋八月に、遥かに西天より五つの釼を東に投げて、「我が有縁の地に止(とど)まるべし」と誓い給いしに、一つは紀伊の国牟婁の郡(熊野三山)に止まり、一つは下野の国日光山(男体山、二荒山神社)に止まり、一つは出羽の国石城の郡(出羽三山)に止まり、一つは淡路の国諭鶴羽の峰(淡路島の諭鶴羽山)に止まり、一つは豊後の国彦の山(九州の英彦山)に止まる。かの彦の山に天降り給いし時は、その形八角の水精なり。その丈(たけ)三尺六寸なり。霊験九州に遍く、万人歩みを運ばずということなし。
今正しく、熊野権現と現れ給うことは、紀伊の国岩田河の辺(ほとり)に、一人の猟師あり。その名を阿刀の千世(あとのちよ)という。山に入りて、狩りしけるに、一つの熊を射たりけり。血をたずね、跡を求めて行くほどに、一つの楠木のもとに至れり。その時、具したりける犬、梢(こずえ)を見上げて頻(しき)りに吠えければ、千世、木の上を見るに、かの木の枝に三つの月輪あり。千世、怪しみをなして、問うて言う様、「月、何の故にか、空を離れて梢にかかれるや。月、また何ぞ三つ有るや。天変か、光ものか、甚(はなは)だ覚束(おぼつか)なし」と言う。その時、権現託宣しての給いけるは、「我は天変に非ず。光ものに非ず。東土の衆生を救わんがために、西天仏生国より遥かにこの朝に来たれり。即ち、熊野三所権現と現れんと思う。汝速やかに社壇を造りて、我を崇むべし」と示し給いければ、千世たちまちに渇仰(かつごう)の思いをなし、ことに帰依の心をいたして、即ち仮殿を造りて、勧請し奉りけり。それよりこの方、高きも賤しきも、これを崇めざるはなく、現世のため後生のため、これに詣でざる人なし。
まず証誠殿(熊野本宮)は阿弥陀如来の垂迹なり。超世の悲願(阿弥陀如来の本願・四十八願)は五濁の衆生を救い、摂取の光明(阿弥陀如来の慈悲の光明)は専念の行者を照らす。
両所権現(新宮と那智)というは、西の御前(那智の第四殿に祀られた夫須美神を西宮ともいう)は千手観音なり。一心称名の風のそこには、生老病死の垢塵(くじん)をはらい、一時礼拝の月の前には、百千万億の願望を満つ。
中の御前(新宮は中宮、中御前ともいう)は薬師如来なり。十二无上の誓願(薬師如来が過去世に立てた十二の大願)を起して、流転の群萌(一切衆生)を助け、出離解脱の良薬を与えて、无明(むみょう)の重病を癒やす。
かくの如く、三尊光を並べ、契りを結びて跡を垂れ給う。化度の方便(衆生を導き救うこと)、豈(あに)おろそかなることあらんや。
次に五所の王子(熊野十二所権現の内の五神で、若宮[若一王子]、禅児宮、聖宮、児宮、子守宮を五所王子という)というは、若王子(若宮・若一王子)は十一面観音なり。普賢三昧の力を以て、六道の衆生を化し、弥陀の大悲を司(つかさど)りて、三有(三界)の衆類を救い給う。
禅師の宮(禅児宮)は地蔵菩薩なり。大慈大悲の利生ことに頼もしく、今世後世の引導も、とも尊し。聖の宮(聖宮)は龍樹菩薩なり。千部の論蔵を作りて、有无(うむ)の邪見(事物を有とみる、または無とみる考え。中道からすれば邪見となる)を破し、无上の大乗を宣べて、安楽の往生を勧め給えり。
児の宮(児宮)は如意輪観音、子守の宮(子守宮)は聖観音なり。その形、いささか異なれども、共に観音の一躰なり。その名しばらく変われども、並びに弥陀の分身なり。済度並びなく、利益もとも遍し。
次に一万の宮(四所明神の内の一万十万のこと。四所明神=熊野十二所権現の内の四神で、一万十万、米持金剛、飛行夜叉、勧請十五所をいう)は、大聖文殊師利菩薩なり。三世の諸仏の覚母釈尊九代の祖師なり。もとは金色世界(文殊菩薩の浄土)にましますと雖も、常に清涼山(中国の五台山の異称、文殊菩薩の示現の地)に住し、竹林の精舎(法照が建てた念仏道場の竹林寺)を辞して、この片州に顕現し給えり。
十万の宮(一万十万)は普賢菩薩なり。十種の勝願を起しては、安養(極楽)の往生を勧め、懺悔の万法を教えては、滅罪の巨益を示す。勧請十五所は、一代教主釈迦如来なり。娑婆発遣の教主として、衆生を西方に送り、仏語名号の要法を阿難に付属して、凡夫の往生を教え給う。飛行夜叉は不動明王なり。知恵の利釼を振るいて、生死の魔軍を摧破す。米持金剛童子は毘沙門天王なり。金剛の甲冑を帯して、煩悩の怨敵を降伏す。
おおよそこの権現は、極位の如来、地上の菩薩なり。就中(なかんずく)に証誠殿は、直ちに弥陀の垂迹にてましますが故に、殊に日本第一の霊社と崇められ給う。娑婆界の利益、无量劫をおくり弛(たゆ)むことなく、我が朝の化縁、既に数千年に及びて、益々盛んなり。
二所三島の大明神(箱根、伊豆山、三島の各社)というは、大箱根(箱根神社)は三所権現なり。法躰は三世覚母の文殊師利、俗躰は当来(未来)道師の弥勒慈尊、女躰は施无畏者(安心と勇気を与える者・観世音菩薩の異称)観音薩埵なり。
三島の大明神(三島大社)は十二願王医王善逝(いおうぜんせい・薬師如来の異称)なり。
八幡三所(八幡宮の祭神・八幡大菩薩、大帯姫命、比売大神)は、なかは八幡大菩薩、阿弥陀如来、左はおおたらしひめ(大帯姫命)、本地観音なり。右はひめ大神(比売大神)、大勢至菩薩なり。若宮四所(八幡宮の摂社。若宮、若姫、宇礼、久礼)というは、本地十一面観音なり。若姫は勢至菩薩なり。宇礼は文殊、必礼は普賢なり。是れ皆、応神天皇の御子なり。次に竹氏の大臣(八幡宮の摂社・武内宿禰を祀る)は、本地阿弥陀如来、是れ同じき天皇の臣下なり。へついどの(八幡宮の摂社)は普賢菩薩、同じき天皇の姨母(いも)なり。
日吉(日吉大社)は三如来の垂迹、四菩薩の応作なり。いわゆる大宮は釈迦如来、地主権現は薬師如来、聖真子は阿弥陀如来、八王子は千手観音、客人は十一面観音、十禅師は地蔵菩薩、三の宮は普賢菩薩なり。
このほか、祇園(京都・八坂神社)は浄瑠璃世界薬師如来の垂迹、稲荷(京都・稲荷神社)は聖如意輪観音自在尊の応現なり。白山(石川県白山市の白山比咩[しらやまひめ]神社)は妙理権現、是れ十一面観音の化現、熱田(名古屋市・熱田神宮)は八釼大菩薩、是れ不動明王の応迹なり。
(3) 八幡神の本地の変遷
応和2年(962)の奥書を持つ「大安寺塔中院建立縁起」からは、八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが、当時の宇佐地方では成立していたものと理解された。それから140年後、大江匡房(1041~1111)が編纂した「続本朝往生伝十六・真縁上人伝」(2)では、生身の仏は八幡神であり、その本覚は「西方無量寿如来なり」(阿弥陀如来の別名が無量寿如来)とし、八幡神の本地は阿弥陀如来とする考えが定着してきたことを示している。
真縁上人は、愛宕護山の月輪寺に住せり。常に誓願を起てて曰く、法花経の文に常在霊鷲山、及余諸住所といふ。日本国はあに入らざる余の所ならむや。然らば面(まのあた)りに生身の仏を見奉らむといへり。この願を充さむがために、専らに法花経を誦せり。字ごとに礼拝を修すること参度。閼伽を供ふること一前なり。やや多年を歴て漸くに一部を尽せり。敢へて示すところなし。第八巻の内題に到りて、行業已に満てり。その夜の夢に曰く、石清水に参るべし、云々といふ。かの宮に毎朝に御殿の戸を開く者を宮主と謂ふ。忽ちに客僧の御帳の前にあるを見て、大きに驚きて追却せむとを欲す。この間に石清水別当使を遣して、宮主の僧に告げて曰く、神殿の中に定めて客僧あらむ。左右(とにかく)にすべからず。これ今夜の夢の中に霊託を蒙るが故なり、云々といへり。ここに知りぬ、生身の仏は、即ちこれ八幡大菩薩なることを。その本覚を謂はば、西方無量寿如来なり。真縁已に生身の仏を見奉れり。あに往生の人にあらずや。
寛和元年(985)、比叡山横川・恵心院の源信が「往生要集」を著し、念仏を唱える功徳、善業、その優れたる所以を説き、浄土往生への道程を示したのと時を同じくして、慶滋保胤が「日本往生極楽記」を編纂(985~987)。天台浄土教の展開、極楽浄土への信仰と隆盛により、八幡神の本地は釈迦三尊から阿弥陀如来へと変化し、広くいきわたり定着していった。
(4) 本地垂迹説成立の背景
平安期における本地垂迹説成立の背景には、様々な見解が呈されている。ここでは佐藤弘夫氏、山中講一郎氏、逵日出典氏の見解を取り上げ、その内容を確認してみたい。(引用は趣意)
佐藤弘夫氏は「神国日本」(3)で、「平安時代に本地垂迹説が説き出され、またたく間に列島を席巻することになった原因は何だったのだろうか。その背景には、10世紀ごろから急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行があった。」とし、他界浄土―此土の二重構造をもつ中世的な世界観の完成により阿弥陀仏のいる極楽浄土への往生願望、また観音菩薩の補陀落浄土、弥勒菩薩の兜率浄土、薬師仏の浄瑠璃世界、釈迦仏の霊山浄土等、多彩な浄土への憧れが増し、そこから末法辺土の救済主としての垂迹がクローズアップされるようになった。垂迹のいる霊地・霊場に足を運び帰依、結縁することが往生へのなによりの近道と考えられるようになった、とされている。
山中講一郎氏は「日蓮自伝考」(4)で、「この『本地垂迹説』は、元来は、古代の神祇信仰を仏教に導入する過程で、用いられたものであったが、中世になると元の意図を離れて、神道の側から積極的に利用されるようになった。」とする。そこには「経済的な背景が窺える」として、在地性の強い神社は、氏神氏子として特定地域の氏族とのみ結びついていたが、荘園経営で学んだ神官たちは、自らの社を外に向かって発展させるためには多くの信者が必要であり、在地性の制約を取り払うべきことに気付く。そこで仏教が取り入れられ、神社の理論化を推し進め中世神道が形成されていく、とされる。
逵日出典氏は「八幡神と神仏習合」(5)で、「本地仏の設定・本地仏の造像安置は、本地垂迹説を具体的に説明するものとして、この説が普及する上で効果的であった。特に本地仏が造像され安置されると、いま拝している神の本地の姿が形となって眼前に実見されるのであるから、信仰上の効果はきわめて高いといえよう。そればかりではない。本地垂迹説には単に習合の理論化という面だけでなく、別の面でも大きな意味があった。」とし、氏神的な地域性(地域的閉鎖性)をもつ神祇が本地仏を持つことで、それまでの地域という枠を超えた一般的なものとなり信仰が広まる。個々の神祇の利益が本地仏を持つことで新たな特徴が加わり、祈願・祈祷・加持等が盛大な習合的宗教儀礼を伴うことから、大衆の信仰を引きつけることになった。祭神の父神、母神、子神という家族的関係が、本地仏の設定により脇侍、眷属、護法神等の観念に置き換えられて、多数の合祀、配祀、摂社、末社の神々が作り出され、祭神の細分化、複数化により参詣者の多様な祈願内容に対応できるようになった。本地垂迹説は神祇側、仏教側双方に、多くの信仰を集める上できわめて有効な手段となりえた、とされている。
以上の各氏の教示を踏まえて、本地垂迹説成立の背景をまとめてみよう。
10世紀ごろから急速に進展する彼岸表象の肥大化と浄土信仰の流行を背景とし、神社側がそれまでの在地性という制約を取り払い、仏教を取り入れ神の本地仏を設定する。そこには仏教側からの働きかけ、諸国を行脚する顕密の伝道者・聖ら、特に台密・東密による教説の伝授がなされたのではないかと思う。桜井徳太郎氏は「この説(本地垂迹説)が理論的に構築されるにあたって力を注いだのは、天台・真言の両宗であって、山王一実神道(天台)および両部習合神道(真言)の成立が重要な背景をなしている。したがって垂迹縁起の多くは両系列の教説から生み出されている」(6)と指摘されている。
続いて、本地仏を造像、安置することによって貴紳衆庶の参詣を促し、神の本地の姿を眼前とした祈願者の信仰はより強固になり、それが喧伝されることで信仰は広まり参詣者の層も厚く固いものとなる。この過程で個々の神祇の利益が強調され、それぞれの求めに応じた祈願・祈祷・加持が行われ、並行して中世神道理論の形成、各社と信者の組織化が促されることになる。結果、大衆に、垂迹のいる霊地・霊場に足を運び帰依・結縁することにより救済され、往生も叶うとの考えが定着していった、ということになると思う。
ここで注意したいのが、仏教側、神道側による本地垂迹の設定、理論化だけではなく、仏教公伝以外に名もなき渡来人によって日本の土俗の中に伝えられた仏の教えをもとに慣習的、自然的な神仏習合が民衆の間に醸成されていたという観点だ。「アジア仏教史日本編Ⅱ・平安仏教<貴族と仏教>」(7)では、「平安初期までの神宮寺が中央の官大社でなくいずれも地方の神社であることを考えると、地方民衆の無自覚的な神仏習合思潮が土台になっているのではないか」と指摘されている。
(5) 本地垂迹説と一仏信仰の理論化
このような本地垂迹説の定着により仏と神は縦に結合。その仏教の仏・菩薩は法身仏へと溶融するのだから、各地の神は元をたどれば同根であり、皆同じで一仏に帰結する、ということになる。園城寺長吏の公顕(1110~1193)が高野山の聖・善阿弥陀仏に神仏の関係について教示した話が、無住(1227~1312)の著した説話集「沙石集」(8)に載せられている。(9)
其の故は、大聖の方便、国により、機に随ひて定れる準(のり)なし。「聖人は常の心なし。万人の心を以て心とす」と、いふが如く、法身は定れる身なし。万物の身を以て身とす。然れば、無相法身所具の十界、皆一知毘盧の全體なり。天台の心ならば、性具の三千十界の依正、皆法身所具の万徳なれば、性徳の十界を修徳にあらはして、普現色身の誓を以て、九界の迷情を度す。又密教の心ならば、四重曼茶羅は、法身所具の十界也。内証自性会の本質をうつして、外用大悲の利益を垂る。顕密の意によりてはかり知ぬ。法身より十界の身を現じて、衆生を利益す。妙體の上の妙用なれば、水を放れぬ波の如し。真如はなれたる縁起なし。然れば、西天上代の機には、仏菩薩の形を現じて、是れを度す。
我国は粟散辺地也。剛強の衆生因果を知らず。仏法を信ぜぬ類には、同體無縁の慈悲によりて、等流法身の応用を垂れ、悪鬼邪神の形を現じ、毒蛇猛獣の身を示し、暴悪の族を調伏して、仏道に入れ給ふ。されば他国有縁の身をのみ重して、本朝相応の形ちを軽しむべからず。我朝は神国として大権あとを垂れ給ふ。又、我等みな彼の孫裔也。気を同する因縁あさからず。此の外の本尊を尋ねば、還て感応へだたりぬべし。よりて機感相応の和光の方便を仰て、出離生死の要道を祈り申さんにはしかじ。
諸国の神々が縦に一仏に帰結するということは、垂迹の神を信仰することの理論を補強することになるが、一方では、その一仏を信仰すればあらゆる垂迹の神明を崇めるということにもなり、一仏信仰の理論化もなされることになる。先に見た「諸神本懐集」の冒頭と次の垂迹の神明解説の末尾、更に文末は、浄土教の信仰の根幹をなす阿弥陀一仏への帰依という点において、そのことを端的に言い表しているものではないだろうか。
「本懐集」の冒頭
それ仏陀は神明の本地、神明は仏陀の垂迹なり。本に非ざれば迹を垂るることなく、迹に非ざれば本を現すことなし。神明といい仏陀といい、表となり裏となりて、互いに利益を施し、垂迹といい本地といい、権となり実となりて、共に済度をいたす。ただし深く本地を崇めるものは、必ず垂迹に帰する理(ことわり)あり。本より垂るる迹なるが故なり。ひとえに垂迹を尊ぶものは、いまだ必ずしも本地に帰するいいなし。迹より本を垂れざるが故なり。この故に、垂迹の神明に帰せんと思わば、ただ本地の仏陀に帰すべきなり。
垂迹の神明解説の末尾
これ(鹿島、香取、熊野、二所三島、日吉、白山等の諸国の各社は)皆、その本地をたずぬれば、極果の如来、深位の大士なり。興隆仏法の本誓にもよおされ、利益衆生の悲願に住して、仮に神明の形を現じ給えり。寂光の秋の月、光を秋津島の波に宿し、報身の春の花、匂いを豊葦原の風に施す。内証は皆、自性の法身、本地は悉く報身の全躰なり。その本地、様々に異なれども、皆弥陀一仏の知恵に収まらずということなし。かるが故に、弥陀に帰し奉れば、諸々の仏菩薩に帰し奉る理(ことわり)あり。この理あるが故に、その垂迹たる神明には、別して仕えまつらねども、自ずから是に帰する道理あるなり。
文末
諸行をさしおきて念仏に帰するは、難行道を捨てて易行道に移るなり。末代相応の法なるによりて、決定往生の益を得べきが故なり。垂迹にとどまらずして、本地を仰ぐは、神明の本懐をたずね、権現の本意を信ずるなり。神明のまことの御心は、垂迹を崇められんとには非ず。衆生をして仏道に入れしめんと思し召すが故なり。本地の仏菩薩は、悉く弥陀一仏の智慧なれば、弥陀の名号を称するに、十方三世の諸仏おのずから念ぜられ給う。諸仏菩薩、念ぜらるるいわれあれば、その垂迹たる諸神みな、また信ぜらるること、その理必然なり。されば念仏の行者には、諸天・善神かげの如くに随いて、これを護り給う故に、一切の災障自然に消滅し、諸々の福祐求めざるに自ずから来たる。現世安穏にして、後生には必ず浄土に至り、長時永劫に无為の法楽を受く。究竟して、必ず菩提を得るなり。まことにこれ无明の鎖を切る利釼、煩悩の病を治する良薬なり。釈尊はこれがために言葉をはきて讃嘆し、諸仏はこの故に舌を並べて証誠(しょうじょう)し給えり。仏陀の擁護にあずかり、神明の御心に叶わんと思わんにも、ただ懇(ねんご)ろに後生菩提を願いて、一向に弥陀の名号を称すべきものなり。
(6) 釈迦一仏へ 日蓮の場合
「諸神本懐集」では「本地の仏菩薩は、悉く弥陀一仏の智慧」として、阿弥陀如来への帰依を説いたが、その一仏を釈迦として、「一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり」と説示したのが法華経の行者・日蓮(1222~1282)だった。
平安末から鎌倉期にかけ、八幡神の本地は阿弥陀如来として広く信仰された一方、和銅元年(708)建立とされる大隅八幡宮(鹿児島神社)では11世紀以降、八幡神を正八幡とし、本地は釈迦如来とたて、宇佐八幡宮とは本家争いをしていた。大隅の正八幡信奉は少数派ではあったろうが、日蓮は正八幡を用いて本地・釈迦を強調、自説として展開している。(10)
弘安2年(1279)2月2日「日眼女釈迦仏供養事」(真蹟曽存)
法華経の寿量品に云はく「或は己身を説き或は他身を説く」等云云。東方の善徳仏・中央の大日如来・十方の諸仏・過去の七仏・三世の諸仏、上行菩薩等、文殊師利・舎利弗等、大梵天王・第六天の魔王・釈提桓因王・日天・月天・明星天・北斗七星・二十八宿・五星・七星・八万四千の無量の諸星、阿修羅王・天神・地神・山神・海神・宅神・里神・一切世間の国々の主とある人何れか教主釈尊ならざる。天照太神・八幡大菩薩も其の本地は教主釈尊なり。
(「昭和定本 日蓮聖人遺文」以下、「定」と表記 p.1623)
弘安3年(1280)12月18日「智妙房御返事」(真蹟)
世間の人々は八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と申すぞ。それも中古の人々の御言なればさもや。但し大隅の正八幡の石の銘には、一方には八幡と申す二字、一方には昔し霊鷲山に在て妙法華経を説て今正宮の中に在て大菩薩と示現す等云云。月氏にては釈尊と顕はれて法華経を説き給ひ、日本国にしては八幡大菩薩と示現して正直の二字を願に立て給ふ。教主釈尊は住劫第九の減、人寿百歳の時、四月八日甲寅の日中、天竺に生れ給ひ、八十年を経て、二月十五日壬申の日御入滅なり給ふ。八幡大菩薩は日本国第十六代応神天皇、四月八日甲寅の日生れさせ給ひて、御年八十の二月の十五日壬申に隠れさせ給ふ。釈迦仏の化身と申す事はたれの人かあらそいをなすべき。
しかるに今日本国の四十五億八万九千六百五十九人の一切衆生、善導・慧心・永観・法然等の大天魔にたぼらかされて、釈尊をなげすてて阿弥陀仏を本尊とす。あまりの物のくるわしさに、十五日を奪ひ取て阿弥陀仏の日となす。八日をまぎらかして薬師仏の日と云云。あまりに親をにくまんとて、八幡大菩薩をば阿弥陀仏の化身と云云。大菩薩をもてなすやうなれども、八幡の御かたきなり。知らずわさ(左)でもあるべきに、日蓮此二十八年が間、今此三界の文を引て此の迷ひをしめせば、信せずばさてこそ有るべきに、い(射)つ、き(切)つ、ころしつ、ながしつ、をう(逐)ゆへに、八幡大菩薩宅をやいてこそ天へはのぼり給ひぬらめ。日蓮がかんがへて候し立正安国論此なり。(定 p.1826)
弘安三年十二月「諌暁八幡抄」(真蹟)
大隅の正八幡宮の石の文に云く「昔霊鷲山に在て妙法華経を説き今正宮の中に在て大菩薩と示現す」等云云。法華経に云く「今此三界」等云云。又「常に霊鷲山に在り」等云云。遠くは三千大千世界の一切衆生は釈迦如来の子也。近くは日本国四十九億九万四千八百二十八人は八幡大菩薩の子也。今日本国の一切衆生は八幡をたのみ奉るやうにもてなし、釈迦仏をすて奉るは、影をうやまつて骵をあなづる。子に向て親をのる(罵)がごとし。本地は釈迦如来にして月氏国に出でては正直捨方便の法華経を説き給ひ、垂迹は日本国に生れては正直の頂にすみ給ふ。(定 p.1848)