8・注

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()本宮の社地は、熊野川・音無川・岩田川が合流する大斎原と呼ばれた中州にあったが、明治22(1889)の水害で流失し、現在地に移転している。

 

 

 

()藤原明衡が撰した漢詩文集「本朝文粋」の巻十所収。「本朝文粋」は、康平年間(10581064)の成立と推測されている。尚、藤原明衡は後に見る「新猿楽記」を著している。

 

 

 

()熊野大衆の強訴を模倣したものか、13年後の嘉保2(1095)、比叡山の初めての強訴があった。この時は、美濃国の比叡山領荘園を宣旨により収公した源義綱(?~1134)勢と叡山僧が小競り合いとなり、矢に当たった一人の僧侶が死亡。怒った比叡山と日吉社は義綱配流を要求。日吉神輿を奉じて初の強訴に及んだが、関白・藤原師通(10621099)に命じられた源頼治(生没年不詳)と義綱により撃退されている。

 

 

 

()熊野那智大社文書第五 p.85

 

 

 

()「補陀落渡海史」 p.481、「熊野三山と熊野別当」 p.155

 

 

 

()米良文書31 熊野那智大社文書第一 p.25

 

 

 

()米良文書325 熊野那智大社文書第一 p.238

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