8 国主の帰依と曼荼羅本尊
万年救護本尊を始め曼荼羅本尊を書き顕す日蓮の念頭にあったのは、文永10年(1273)4月25日に著した「観心本尊抄」の「此の釈に『闘諍の時』と云云。今の自界叛逆・西海侵逼の二難を指すなり。此の時、地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為(な)す、一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有(ましま)さず。」の文ではなかったでしょうか。
『「一閻浮提第一の本尊」たる当体は今、日蓮がその手で書き顕わしている。そして、「天の御計いとして隣国の聖人にをほせつけられて此れをいましめ」(撰時抄)と、蒙古軍が謗法国日本を治罰した後、改心した国主は法華経を受持。国主の捨邪帰正・正法受持が成るその時こそ、「観心本尊抄」で示した仏法上の一閻浮提第一の本尊がこの国に立つ義が成就する。それは間近になった』と日蓮は待望していたのではないでしょうか。
いわば、「最後」が差し迫った緊張感と覚悟、その先にある「新しい時」「法華経の国」への期待。そこに我が存在はあるやなしや、の思い。「今、すべきことを成さねば時間がない」という切迫感と、時代と人心を高山より悠々と見渡すがごとき静かなる観察力。正法を継承し世に訴え、幾多の死地にも生き抜いてきた法華経の行者、上行菩薩再誕、そして曼荼羅を顕すに及んで末法の教主としての確信を抱くに至ったであろう日蓮の内面世界で、これらが交互に織り成された結晶ともいうべきものが曼荼羅であり、その中でも注目すべきが「蒙古襲来の時」に顕された万年救護本尊ではないでしょうか。日蓮の眼には再度の(それは近いもの)蒙古襲来の後、国主が法華経を受持する光景があったのではないかと思うのです。
建治元年(1275)4月の「法蓮抄」では、天災地変と国主の信仰の関係から、日本国の現状を宗教的に解明。自らを大聖人とし、その聖人を国主が信じない故に七つの大難が起きるとするのですが、この文面からは、日蓮には絶えず「国主の帰依を願う強き意思」のあったことがうかがえると思います。
夫(それ)天地は国の明鏡なり。今此の国に天災地夭あり。知んぬべし、国主に失ありと云ふ事を。鏡にうかべたれば之を諍(あらそ)ふべからず。国主小禍のある時は天鏡に小災見ゆ。今の大災は当に知るべし大禍ありと云ふ事を。仁王経には小難は無量なり、中難は二十九、大難は七とあり。此の経をば一には仁王と名づけ、二には天地鏡と名づく。此の国土を天地鏡に移して見るに明白なり。又此の経文に云はく「聖人去らん時は七難必ず起こる」等云云。当に知るべし、此の国に大聖人有りと。又知んぬべし、彼の聖人を国主信ぜずと云ふ事を。
尚、「一閻浮提第一の本尊」の意は全ての曼荼羅に通じると考えますが、「観心本尊抄」より文永の役を経て万年救護本尊を書き顕わすまでの経緯をあわせ考えれば、「上行菩薩」「大本尊」と示した万年救護本尊は、やはり、日蓮の意では格別なものがあったと思われ、一閻浮提第一の本尊の中でも象徴的な曼荼羅として他とは違った扱いではなかったかと考えます。