7 一大秘法と曼荼羅本尊
ここでは、「曾谷入道殿許御書」の「一大秘法」が万年救護本尊を直接指し示しているとの大黒喜道氏の考察について、少々検討してみたいと思います。
「曾谷入道殿許御書」に書かれた「今末法に入て二百二十余年、五濁強盛にして三災頻りに起り、衆見之二濁国中に充満し、逆謗之二輩四海に散在す。」とは、当時の日本国を仏教的視点から洞察したものでしょう。
『今は末法の時代となって既に二百二十余年を経過したが、劫濁・衆生濁・煩悩濁・見濁・命濁の五濁が盛んとなって穀貴・兵革・疫病の三災が相次ぎ、衆生濁と見濁の二濁が国中に充満し、殺母・殺父・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧の五逆罪と謗法の二輩が日本一国中に散在している。』
「専ら一闡提之輩を仰いで棟梁と恃怙(こじ)し、謗法之者を尊重して国師と為す。孔丘の孝経に之を提げて父母之頭を打ち、釈尊の法華経を口に誦しながら教主に違背す。不孝国は此の国也。勝母の閭〈さと〉他境に求めじ。」では、仏法正統意識から正法違背・邪師崇敬即一国衰亡という、仏教と国の表裏一体関係を訴えています。
『衆生は一闡提の輩を仰ぎ敬って国の棟梁とたのみ、謗法の者を尊重しては国師として崇敬している。孔子が、儒経の本となる孝について教えた、孝経を持ちながら父母の頭を打ち、釈尊の法華経を口で読みながら教主に違背している。不孝の国とは、まさにこの国のことではないか。中国に勝母という名称の里があり、孔子の弟子である曾子は『その地名は不孝である』として里の門に入らなかったのだが、勝母という里は決して中国だけのことではなく、今の日本国がそれにあたるのではないか。』
「故に青天、眼を瞋らして此の国を睨み、黄地は憤りを含みて大地を震ふ。去る正嘉元年の大地動・文永元年の大彗星、此れ等の災夭は仏滅後二千二百二十余年之間、月氏・漢土・日本之内に未だ出現せざる所の大難也。彼の弗舎密多羅王(ほっしゃみったらおう)の五天の寺塔を焼失し、漢土の会昌天子(かいしょうてんし)の九国の僧尼を還俗せしめしに超過すること百千之倍なり。大謗法之輩国中に充満し、一天に弥〈はびこ〉り起す所の夭災也。」では、「現実世界の自然事象の背景に宗教的要因あり」「宗教的福徳即現実世界安穏」という当時の思考にもとづいて、日本国の天災地変はインド、中国や日本の過去の歴史でも経験したことのない大難であり、弗舎密多羅王が五天竺の寺塔を焼失させたことや、漢土の会昌天子(唐第15代皇帝・武宗)が九ケ国の僧・尼を還俗させたことに超過すること百千倍であると説示しています。その理由も「一国邪師帰依即国土壊乱」「一国正法帰依即国土安穏」という仏教的視座から指摘するのです。
続いて「大般涅槃経に云く『末法に入て不孝謗法の者大地微塵の如し』取意。法滅尽経に『法滅尽之時は狗犬の僧尼、恒河沙の如し等云云』取意。」と、日蓮の常の認識である「邪法が世を覆い、圧倒的多数が邪師である日本国」を、大般涅槃経と法滅尽経を引用して喝破します。
そして、「今、親り此の国を見聞するに、人毎に此の二悪有り。此れ等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救せん。」今、日本国を法華経信仰に立脚した身で以て見聞すると、皆、五逆罪と謗法罪という大悪をなす者ばかりである。これら仏教上の大悪人はいかなる秘術で救っていくべきであろうか、とした後、「大覚世尊、仏眼を以て末法を鑒知し、此の逆謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ。」大覚世尊は仏眼によってこのような末法の救い難き有り様を見て知っており、五逆罪と謗法罪という重い病を治し衆生を救われるために、一大秘法を留め置かれたのである、とするのです。
その様相は、「所謂、法華経本門久成之釈尊・宝浄世界の多宝仏、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬の大宝塔之中に於て二仏座を竝べしこと宛も日月の如く」法華経本門での久遠実成の釈尊と宝浄世界の多宝仏が、高さ五百由旬、広さ二百五十由旬という壮大な虚空の大宝塔の中において並び、それはあたかも日月のよう。
「十方分身の諸仏は高さ五百由旬の宝樹の下に五由旬之師子の座を竝べ敷き、衆星の如く列坐したまひ」十方世界より来った分身諸仏は、高さ五百由旬という大きな宝樹の下に五由旬もある師子の座を並べ敷いて、あたかも多くの星の如くに列座された。
「四百万億那由他之大地に三仏二会に充満したまふ之儀式は、華厳寂場の華蔵世界にも勝れ、真言両界の千二百余尊にも超えたり。一切世間の眼也。」四百万億那由他の大地に釈尊、多宝仏、十方分身の諸仏(三仏)が虚空と霊鷲山の二つの会座(二会)に充満された儀式の相は、華厳経に説かれる寂滅道場の華蔵世界に勝るものであり、真言の胎蔵界・金剛界の千二百余尊にも超えるもので、一切世間の眼目というべき尊く素晴らしいものであった。
以上、「一大秘法」に関して前後の記述を確認しましたが、「曾谷入道殿許御書」執筆開始、即ち下書きを始めた時期と万年救護本尊を書き顕した時は合いますが、前後の文脈からして文中の「一大秘法」が特定の本尊を指すものと理解するのは難しいでしょう。また「曾谷入道殿許御書」以降の御書では、万年救護本尊はもとより「曼荼羅本尊と一大秘法を関連付けた法義を積極的に展開していこう」という日蓮の意思も、管見の限り見当たらないと思います。
「大悪を救済する秘術」「逆・謗の二罪を退治する」のが「一大秘法」であれば、その意味するところは「凡そ法華経と申すは一切衆生皆成仏道の要法なり。~今末法は南無妙法蓮華経の七字を弘めて利生得益あるべき時なり。されば此の題目には余事を交えば僻事なるべし。此の妙法の大曼荼羅を身に持ち心に念じ口に唱え奉るべき時なり」(御講聞書)と同義でもあることから、「一大秘法」は妙法の大曼荼羅総体を別の言葉で表現したものではないでしょうか。