6・注

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()「元亨釈書」巻六・釈覚心の項、「紀伊続風土記」巻之七十九が伝えるが、心地覚心を祖とする臨済宗法燈派が熊野三山周辺に教線を拡大しており、そこから発生した聖人伝説の一つではないだろうか。

 

高野山金剛三昧院の僧・願性(?~1276)が由良荘(和歌山県日高郡由良町)に真言寺院・西方寺を創建。正嘉2(1258)、親交のあった心地覚心を迎え開山とする。心地覚心が住した西方寺はその後、臨済宗法燈派の本山・興国寺となる。法燈派は鎌倉後期には一大門派となり、熊野・伊勢一円に活発な布教を展開し、熊野信仰との結びつきが強まった。原田正俊氏の「日本中世の禅宗と社会」(pp.1992321998年  吉川弘文館)によると、17世紀中頃には紀州一帯に法燈派末寺は117ヵ寺もあり、熊野三山付近には64ヶ寺が集中している。伊勢と近傍の朝熊ヶ岳周辺にも25ヶ寺と、多くの法燈派寺院が存在した。

 

 

 

()桜井徳太郎氏は「山中他界」の観念について、以下のように解説されている。

 

(前出「縁起の類型と展開」 p.474)

 

それと並んで重視さるべき山中他界観の成立は、一般には仏教による死後世界の構想と関連づけて説かれるけれども、その根源は民族創成の精霊信仰、とくに死霊観にもとづいている。この点を民間信仰の実態から検証した柳田国男は、民族宗教では死後霊魂の行くえを山中の聖地に措定するが、それは仏教に薫染する以前の素朴な日本人の信仰であったとみている(『先祖の話』定本 柳田国男集第十巻、「魂の行くへ」同第十五巻所収)

 

人間は死ぬと、その霊は暫く屋根棟などに留まっているけれども、遺族の手によって篤く慰撫・回向されることにより、死霊の浄化が施され、祖霊となる。つまり祖先崇拝の対象となる祖霊と化するのであるが、やがて33年とか50年の年月が過ぎると、その祖霊は次第に個性を捨てて融合し、ついに一体化して神霊となる。しかし仏教の説くごとく、途方もなく幽遠な十万億土の彼方へ去ってしまうわけでなく、この国土を離れず、故郷の山の高みに留まって、たえず子孫の行末を案じ、呼ばれればすぐにとんできて相談にあずかる。そういう死霊のこもる霊山が、人びとの住むムラの近くに設定されたのである。それが日本人にとってのあの世であった。しかも、このような霊山観の把握は、仏教の渡来よりもはるかに古いというのである。民間では、遺族が死者の遺髪・遺爪・あるいは遺骨の一部を、位牌とともに霊山山頂の祠堂に埋納する仏教風の供養方式が一般化しているけれども、それは後世の変化であるとみるわけである。もしもそうだとすると、密教的霊山観成立の以前に、山中他界観にもとづく民族的霊山信仰の素地が形づくられていたと断定することができる。

 

 

 

()「縁起の類型と展開」 p.89

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