6 文永10年から11年にかけての弾圧
日蓮は「観心本尊抄」で「妙法曼荼羅」の相貌を示しその図顕を宣しながらも、一方では流人である我が身の上は明日をも知れず、という現実がありました。
実際、文永10年から11年にかけて佐渡の日蓮門下に弾圧が加えられ、佐渡の国守護・北条宣時(大仏宣時・おさらぎのぶとき)は日蓮一門への弾圧を画策し、三回も「偽の御教書」を発行しています。そこには「祈雨の勝負」敗北以来、日蓮に一方ならぬ怨念を抱く極楽寺良観の関与があったようです。
「種種御振舞御書」
又念仏者集まりて僉議(せんぎ)す。かうてあらんには、我等か(餓)つえし(死)ぬべし。いかにもして此の法師を失はゞや。既に国の者も大体つきぬ、いかんがせん。念仏者の長者の唯阿弥陀仏・持斎の長者生喩房・良観が弟子道観等、鎌倉に走り登りて武蔵守殿に申す。此の御房島に候ものならば、堂塔一宇も候べからず、僧一人も候まじ。阿弥陀仏をば或は火に入れ、或は河にながす。夜もひるも高き山に登りて、日月に向かって大音声を放って上を呪咀(じゅそ)し奉る。其の音声一国に聞ふと申す。
武蔵前司殿是をきゝ、上へ申すまでもあるまじ、先づ国中のもの日蓮房につくならば、或は国をおひ、或はろう(牢)に入れよと、私の下知を下す、又下文(くだしぶみ)下る。かくの如く三度、其の間の事申さざるに心をもて計りぬべし。
「法華行者値難事」文永11年1月14日
而(しか)るに文永十年十二月七日武蔵前司殿より佐渡国へ下す状に云はく、自判之在り
佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率し、悪行を巧(たくら)むの由其の聞こえ有り。所行の企(くわだ)て甚(はなは)だ以て奇怪也。今より以後、彼の僧に相随はんの輩に於ては炳誡(へいかい)を加へしむべし。猶以て違犯せしめば、交名(きょうみょう)を注進せらるべきの由候所也。仍って執達件(しったつくだん)の如し。
文永十年十二月七日 沙門 観恵上(たてまつ)る
依智六郎左衛門尉殿等云云。
「種種御振舞御書」
或は其の前をとを(通行)れりと云ひてろう(牢)に入れ、或は其の御房に物をまいらせけりと云ひて国をおひ或は妻子をとる。
「千日尼御前御書」弘安元年7月28日
又其の故に或は所ををい、或はくわれう(科料)をひき、或は宅をとられなんどせしに、ついにとをらせ給ひぬ。
更なる迫害が差し迫っている状況下故にでしょうか、文永10年9月19日に鎌倉の日昭並びに尼御前に報じた「弁殿尼御前御書(弁殿並尼御前御書)」では以下のように記しています。
第六天の魔王、十軍のいくさをを(起)こして、法華経の行者と生死海の海中にして、同居穢土をと(取)られじ、うば(奪)はんとあらそう。
日蓮其の身にあひあ(当)たりて、大兵をを(起)こして二十余年なり。日蓮一度もしり(退)ぞく心なし。しかりといえども弟子等・壇那等の中に臆病のもの、大体或はを(堕)ち、或は退転の心あり。
中略
しげければとゞむ。弁殿に申す。大師講ををこ(行)なうべし。
文中、「日蓮一度もしり(退)ぞく心なし」と不退転の決意を吐露していますが、一時は壊滅状態となった鎌倉の日蓮一門も再建しつつあったようで、日昭に天台大師講を行うべきことを指示しています。これは弟子檀越寄り集まって、お互いの信仰を励ますよう促したものといえるでしょう。
ともかく、佐渡では日蓮という流人に関わっているだけで、罰金を科され、投獄され、国=在所を追われ、妻子を取り上げられ、家も奪われる。このような過酷な弾圧が画策、また実行されたことでしょうし、険悪化する事態の中で竜口の如く、日蓮が謀殺される可能性もあったのではないでしょうか。
もしそのような最悪の事態となれば、「観心本尊抄」での妙法曼荼羅による一切衆生の救済宣言ともいうべきものは水泡に帰してしまいます。また、大部の書に認めて、富木常忍・大田入道・教信御房等に送付した以上、誰しもが妙法曼荼羅は顕されるのが必然だとも考えていたことでしょう。宣言書のみありて、実際の曼荼羅が無いならば、門下は迷い、衆生成仏の道もか細いものとなります。「薬の解説書のみ書く、しかし、実際の薬を作ることがない」ということは道理に反しますし、日蓮のそれまでの思考、行動からは考えられないことでもあります。
この時、広宣流布大願に生きる、また一切衆生救済を志す導師として、末法の法を確立する教主として、日蓮という人には曼荼羅を図顕する必然があった。その曼荼羅が「佐渡始顕本尊」であったと考えるのです。