5 三宝絵詞にみえる熊野

 

平安期の私撰歴史書「扶桑略記」では、延喜7(907)10月、宇多上皇(867931)が熊野に参詣したと伝えている。

 

正暦3(992)に花山法皇(9681008)が那智滝籠を行ったと伝わることについて、「熊野年代記」は、「一条(天皇) 正暦三壬辰 法皇熊野行幸那智山滝本本尊御寄進、本宮法華経一部納、新宮へ御狩衣束納、八月上に還御御飾を妙法山に納一寸八分の金仏を令納。」と、花山法皇は那智山滝本に本尊を寄進し、本宮へ法華経一部を納め、新宮には狩衣装束を奉納。8月上旬には都に戻り、法皇の令により妙法山に一寸八分の金仏を納めたとしている。

 

鎌倉時代の軍記物語「源平盛衰記」では、「花山法皇御参詣、滝本に三年千日の行を始め置かせ給へり。今の世まで六十人の山篭とて、都鄙の修行者集りて、難行苦行するとかや。」と、花山法皇は那智で千日の滝籠を行い、以来、60人の修行者が山籠し難行苦行したと記している。また、「竜神」が現れて「如意宝珠一顆水精の念珠一連、九穴の蚫貝一つを奉」った。法皇は「此供養をめされて、末代行者の為にとて、宝珠をば岩屋の中に納められ、念珠をば千手堂のへやに納め」て、「蚫をば一の滝壺に放ち置かれた」としている。

 

「熊野山略記」も同様に参籠時の霊験譚を記していて、「花山法皇御参籠時、三重瀧ニ本地千手如意輪馬頭ト顕御ス」()と、花山法皇の那智滝籠中に本地・千手観音、如意輪観音が現れ、「花山法皇正暦年中、恭凝三ヶ年之参籠、号移千日之涼煥、専連六十人之禅徒、号行冣上之秘法、所謂卜断穀絶煙之栖」()と、法皇の那智滝籠は千日の長きにわたり、以来、六十人の修行者が連なったとしている。

 

花山法皇の那智滝籠は、鎌倉期の知識層には広く知られていたようで、源頼朝(11471199)が師と仰いだ伊豆の国走湯山の住侶・専光房良暹(りょうせん)が、熊谷直実の突然の出家を諌めた手紙にも引用されている。それは「吾妻鏡」建久3(1192)1211条に「花山法皇の鳳凰城を去り、熊野山に臨む。また、皇祖の菩提を救はん為に、那智の雲に三千日参籠せしむ。これ皆、智恩・報恩の理を表すの故か。」と記されていて、法皇の滝籠は、皇祖の菩提を弔うためのものであり、智恩・報恩の理を表すものであったという。これは同時に、鎌倉期に那智参籠をした行者達の心中に、通じるものがあったのではないかと思う。

 

 

 

「貴人修行譚」ともいうべきか、熊野・那智に様々な霊験譚を持つ花山法皇だが、その花山院が天皇に即位した永観2(984)の冬、詞書を配した一つの絵巻が成立する。それは「三宝絵」と題され、平安中期の官人で文学者の源為憲(?~1011)が、冷泉天皇(9501011)の第二皇女である尊子内親王(966985)のために作成したものだった。その後、絵は逸亡して詞書が残り、それが仏教説話集「三宝絵詞・三巻」として伝来している。

 

「三宝絵詞」には熊野の「法華八講」が記述され、当時の「熊野の神の世界」における「仏教の色彩」を伝える史料となっている。

 

 

 

「三宝絵詞・下巻」 十一月

 

熊野八講会

 

紀伊国牟婁郡に神います。熊野両所、証誠一所と名づけ奉れり。両所は母と娘と也。結早玉と申す。一所はそへる社也。此の山の本神と申す。新宮、本宮に皆八講を行う。紀伊国は南海のきは、熊野の郷は奥の郡の村也。山重なり、河多くして、行く道遥かなり。春ゆき秋来りて、至る人まれ也。山の麓におる者は、木の実を拾いて命を継ぐ。海のほとりに住む者は、魚すな取りて罪を結ぶ。もしこの社いませざりせば、八講をも行はざらまし。此の八講なからましかば、三宝をも知らざらまし。五十人までも語り伝へ難かるべき眇々(べうべう)たる所に、妙法を広め聞かしめ給へるは、菩薩の跡を垂れたると言ふべし。四日の檀越、執行は、ただ来たれる人の勧むるに従う。八座の講師、聴衆は、集まれる僧の務むるに任せたり。僧供は鉢碗をも設けず。木の甲に受け、帯袋に入る。講説は裳袈裟を調へず。鹿皮の衣を着、脛巾をしたり。貴賎のしなをも選ばず、老少をも定めず。

 

 

 

冒頭で「紀伊国牟婁郡に神います」とし、その熊野の神を尊子内親王に教示するのに「熊野八講会」を題材にしたということは、熊野における法華八講が京の貴族・知識層に広く知られ、関心を持たれていたことを意味するものだと思う。同じ下巻では、「山階寺(興福寺)涅槃会」「薬師寺最勝会」「高雄(神護寺)法花会」「法花寺(大和国の総国分尼寺)花厳会」「比叡坂本勧学会」「薬師寺万灯会」「比叡舎利会」「大安寺大般若会」「比叡受戒」「長谷菩薩戒」「東大寺千花会」「比叡不断念仏」「八幡放生会」「比叡灌頂」「山階寺(興福寺)維摩会」「比叡霜月会」等々、著名寺院の法会の由来、縁起、霊験譚と並んで、山河遥かな熊野の地における法華八講の態様が記されている。

 

そもそも「三宝絵」作成の発端が、若くして入道した尊子内親王の仏教理解にあったことからすれば、10世紀の貴族・知識層の仏教入門には大和・京の有名寺院の信仰と共に、熊野信仰の理解が必要とされていたことが読み取れるのではないかと思う。後に見る熊野の紀行文、「いほぬし」の作者である増基法師(生没年不詳)が熊野本宮に詣でたのも、法華八講に参列するためであったと思われ、文中に「霜月の御八講になりぬ。その有り様常ならずあわれに尊し」と記していることは、当時の文人・教養層が熊野に関心を持ち、心を寄せていたことを示すものだろう。

 

 

 

「三宝絵詞」に書かれた熊野の社殿、即ち源為憲の伝聞するところでは、熊野の祭殿の一社は「熊野両所」で、もう一社は「証誠一所」と名づけられていた。後文によると、熊野両所とは結(むすび)と早玉(はやたま)の両所であり、二神が一社に祀られていた。両所の結の神(熊野牟須美神)と早玉の神(速玉神)の二神は、母と娘の関係だという。「一所はそへる社也」とは、証誠一所と熊野両所(結・熊野牟須美神と早玉・速玉神)は互いに寄り添う神であるということ、それは三神一体を意味するものだろう。続いて、「此の山の本神と申す」と、証誠一所は熊野の山の本神であると位置付けられている。

 

「熊野両所」が「結(熊野牟須美神)早玉(速玉神)と申す」と記されているところから、「此の山の本神」である「証誠一所」は家都美御子神と理解できるが、ここに書かれた「証誠」とは何を意味するのだろうか。

 

これについて山田孝雄氏は「ここにいふは阿弥陀経に極楽の荘厳と阿弥陀仏の功徳とを説き、東、南、西、北、上、下、十方の諸仏が各長広舌を出して、その誠実言なることを証明せりといふことに基づきてその垂迹を証誠大菩薩といへるなり。」()と解説されている。

 

証誠自体は仏語で「その事の真実・誠であることを証明するとの意」だが、管見によれば、「三宝絵」が仕上がった永観2(984)当時、後の「長秋記」(長承3年・1134)のように家都美御子神の本地を阿弥陀如来と明示した文献は見当たらない。だが、「三宝絵詞」に法華八講の模様が記されているように、当時の熊野には仏教僧(天台だろう)が法会を定着させていた。ということは「ものの見方・考え方」も移植して、「本地垂迹説」が導入されていたのではないか、という疑問が生じる。

 

「三宝絵」以外に目を転じると、応和2(962)の奥書を持つ「大安寺塔中院建立縁起」では八幡神の本地を釈迦三尊とする考えが読み取れ、寛和元年(985)には源信(9421017)が「往生要集」を著し、同じ寛和年間(985987)頃に慶滋保胤(9331002)が「日本往生極楽記」を編纂していて、永承7(1052)の末法入りが視野に入った京の貴族、知識人に天台浄土教が広まっている。また、既に熊野の信仰は在地に埋もれたものではなく、都の教養人には広く知られるところとなっていた。

 

これらを勘案すると、この時の「証誠」は「『此の山の本神』と利益についてその真実・誠を証明するもの」なのか、または「『阿弥陀如来』があらゆる衆生を救い極楽浄土へ往生させることを誠に証(あか)すもの」という意なのか、判断に迷うところだ。

 

さらに追い打ちをかけられるのが、後文にも、どのような菩薩として垂迹したのか記述されていないものの、「菩薩の跡を垂れたる」とあって垂迹の思想が読み取れることだ。「菩薩の跡を垂れたる」についても、二通りのことが考えられ、どちらを取るべきか判断に迷ってしまう。一つは、「三宝絵詞」の永観2(984)には熊野に本地垂迹説が導入されていたことを示すものである、というもの。もう一つが、かの「勧学会」に参加した源為憲の学識の範疇のことで、彼の観念世界に抱かれていた垂迹思想を熊野に当てはめてかく表現したものであり、現地に導入されていたわけではない、というもので、はたして前者、後者のどちらにすべきなのだろうか。

 

参考に、諸国の神社への「本地垂迹説」導入の時期についてみると、9世紀の半ばから10世紀にかけて仏菩薩の仮の姿としての日本の神という観念が現れ、11世紀から12世紀にかけて各地の神に本地仏が設定されている。では、熊野は、となればその時期を知れる史料、かつ明確に書かれた文献は「長秋記」で、「三宝絵詞」から100年以上を経過した長承3(1134)のことになる。

 

「証誠」の意味するところ、「三宝絵詞」成立時の永観2(984)での熊野への本地垂迹説導入の有無、という二つの問いについては、現時点では、各二つの回答のどちらとも言えない。今は、「三宝絵詞」に本地仏としての阿弥陀如来が明示されているわけではないので、永観2(984)に、本地垂迹説が熊野に取り入れられていた可能性がある。または、熊野三山の神々の本地仏が設定されるようになる萌芽がここに見られる、としておこう。

 

 

 

本文に目を戻すと、本宮と新宮では法華経八巻を朝夕で二座、四日間で八座を講説する「法華八講」が行われているとする。紀伊国の南海の端、更なる奥地の熊野は山に山が重なり、川も多く、道遥かなる地である。山麓の民は木の実を食し、海辺の民は魚を食べては罪をつくっているという。このような辺境の地では五十展転して語り伝えることは難しく、社殿で営まれる法華八講によって民は三宝を知ることができるのであり、妙法が広まり民の耳に届くのは菩薩が衆生を済度すべく熊野に垂迹されたからなのである、という。この箇所については神の威光というよりも、仏教の衆生済度そのものの信仰世界が記述されているのではないかと思う。

 

法華八講の四日間の施主(檀越)や諸事を行う役僧(執行)は、定めというものはなく集う道俗の勧めにしたがい任に当たる。八座の講師、聴衆も定めはなく、参集する僧の勤めるに任せるというもので、参加者から任意に講師、聴衆を選んでいたようだ。そして僧の食事では鉢や椀を用いず木の甲で受け、腰に着けた帯状の袋に入れたという。講説の僧は、僧職にある者が身につける袈裟等を着用して衣装を整えることをせず、鹿皮の衣に脚絆を着けていた。そこでは貴賎もなければ老少もなかったという。

 

この文と「いほぬし」の記述によれば、本宮・新宮の法華八講は、和やかで素朴な雰囲気でありながらも、敬虔の念深きものであったといえるのではないだろうか。

 

                       熊野本宮大社
                       熊野本宮大社

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