5 清澄寺内の二つの法脈~諸説概要

日蓮と同時代の清澄寺の宗旨について大方の論者は「天台宗・台密」としているのですが、窪田哲正氏は「安房清澄山求聞持法行者の系譜 ― 清澄寺宗旨再考 ―」(「日蓮教学とその周辺」1993 立正大学日蓮教学研究所 以下、窪田)において、再考すべきことを論じられています。

 

清澄寺を天台宗・台密と推定した清水龍山氏の「清澄山宗旨考」(双榎[そうか]学報 1904)、山川智応氏の「清澄寺宗旨の変遷とその寺格地位を考ふ」(日蓮聖人研究・第一巻 1929 以下、山川)、高木豊氏の「安房国清澄寺宗派考」(日蓮攷・収載 2008 山喜房仏書林)での考察について、窪田氏は「これらの諸説はいずれも清澄を天台宗寺院であったとする決定的根拠をもつものではないのではなかろうか」(窪田P315)として各氏の説に対する疑義を列挙。

 

建長6(1254)93日付けの「五輪九字明秘密釈」を書写した肥前公日吽=法鑁に学んだのが、弘安3(1280)5月の納経札にある「院主阿闍梨寂澄」であることを示して、両者は「東密・真言宗の法流を汲む人であったと考えられる」(P321)とし、櫛田良洪氏の「続真言密教成立過程の研究」(1979 山喜房仏書林 以下、「真言密教成立過程の研究」を櫛田、「続真言密教成立過程の研究」を櫛田・続と表記)を引用して「この櫛田氏の研究によって明らかとなったことは、清澄山は東密、特に新義系の僧侶、修行者達の活動の場であったということである」(窪田P322)と解説し、「清澄山内における東密・真言の法脈の厳然たる存在」(窪田P323)があったことを示されています。

 

続いて清澄山における求聞持法行者であり、台東両密諸流の伝持者であった亮守(?~一説1358)の活動と清澄寺主・弘賢について、また「法華本門宗要抄」を考察し、最後に「今の段階での筆者の結論」として、「清澄山は特定の宗派に属さない虚空蔵信仰・求聞持法の霊場であり、台東両系の修学者が混住していた。日蓮と同時代頃よりは大勢として東密・真言色が濃くなっていた」(趣意)とされています。

 

このような窪田氏の指摘は、個人的に究明することなく「清澄寺=台密寺院」との従来説に乗り安住していた私には大いに刺激となったのですが、注意を要するのは、それまであまり認識されていなかった寂澄と法鑁=日吽の事跡をたどり、両者を東密とした上での論の展開となっているのであり、今後、寂澄と法鑁=日吽が東密のみならず、台密の相伝も受けていた文書等が見つかり、それが確定すれば、両者は台東両系の系譜・法脈に連なる人物ということになり、その時には所論の再構築に迫られることになるのではないかということです。窪田氏が論考で紹介された、台東両系の法脈に連なった亮守のような人物もいるのです。

 

しかしながら、私としては窪田氏が指摘された寂澄と法鑁の事跡とは別角度になりますが、御書を読み直し再度解釈することによって、結論としては「清澄寺には東密・台密の修学者が共にいたのではないか」と考えるに至りました。御書によるが故に「解釈論」の域となり、論拠としては弱いものがあるかもしれませんが、それでも「東密が清澄寺に存在した」可能性は捨てきれないと考えます。これからも、日蓮と同時代の、清澄寺を解明する手がかりとなる史料(古文書等)が発見されることはあるでしょうし、その時は新出の史料も参考にしながら考察を重ねていきたいと思います。

 

                        清澄山より
                        清澄山より

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