5 本門の三つの法門

 

佐渡期から身延期にかけて、以前の「叡山を除きて日本国には但一人なり」(安国論御勘由来)との同時代の比叡山・台密への配慮・期待というものが日蓮の衆生済度の思考では薄いものとなり、最澄・智顗・釈尊への直参を強調するようになると共に、今時の娑婆世界では「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身」(法華経・如来寿量品第十六)を実際に行う当事者は、日蓮ただ一人のみとなりました。

 

このような新しい展開となって「開目抄」の三大誓願「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」、「観心本尊抄」の「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」を現実に行うに当たり、日蓮は具体的にどのような教示をし、何を成していったのでしょうか。

 

そこに「無上宝聚、不求自得」(法華経信解品第四)の当体であり、「報恩抄」の「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり」を具現化した当体としての妙法曼荼羅の図顕、そして「本門の三つの法門=本尊、題目、戒壇」を確立せんとする取り組みがあると考えるのです。

 

 

(1) 「四条金吾殿御返事」

文永952日付けの「四条金吾殿御返事(煩悩即菩提)(日朝本) には以下のようにあります。

 

天台・伝教等は迹門の理の一念三千の法門を弘め給ふすら、なを怨嫉の難にあひ給ひぬ。日本にして伝教より義真・円澄・慈覚等相伝して弘め給ふ。第十八代の座主は慈慧大師なり、御弟子あまたあり。其の中に檀那・慧心・僧賀・禅瑜等と申して四人まします。法門又二に分かれたり。檀那僧正は教を伝ふ。慧心僧都は観をまなぶ。されば教と観とは日月のごとし。教はあさく、観はふかし。されば檀那の法門はひろくしてあさし、慧心の法門はせば()くしてふか()し。今日蓮が弘通する法門はせば()きやう()なれどもはなはだふか()し。其の故は彼の天台伝教等の所弘(しょぐ)の法よりは一重立ち入りたる故なり。本門寿量品の三大事とは是なり。南無妙法蓮華経の七字ばかりを修行すればせばきが如し。されども三世の諸仏の師範、十方薩埵(さった)の導師、一切衆生皆成仏道の指南にてましますなればふかきなり。

 

日蓮が、いわゆる中古天台への見解を示している書簡は少ないようです。

ここでは中古天台恵心流の祖・恵心僧都源信(9421017)、同じく檀那流の祖・檀那院覚運(9531007)の法門の特徴を記しています。それによれば、檀那流は教を伝えるものであり法門は広く浅い、恵心流は観を伝えており狭くして深い、というものです。続いて日蓮が弘通する法門は「せば()きやう()なれどもはなはだふか()し」として、「日蓮と恵心流は軌を一にする」かの観があるものとなっています。

 

次に自らの法門が「狭いようで深い」わけは智顗・最澄の弘めた法よりも「一重立ち入りたる」法を弘めているからとして、「本門寿量品の三大事」を示しています。そして専修唱題である故に横には狭いものの、それは三世諸仏の師範、十方薩埵の導師、一切衆生皆成仏道の指南である故に縦に深いものである、と説示します。

 

 

(2) 「真言諸宗違目」

文永92月「開目抄」を著作した後、同年55日に富木常忍に報じたのが「真言諸宗違目」です。

 

法然が捨閉閣抛、禅家等が教外別伝、若し仏意に叶はずんば日蓮は日本国の人の為には賢父也、聖親也、導師也。

中略

仏陀記して云はく「後五百歳に法華経の行者有って、諸の無智の者の為に必ず悪口罵詈・刀杖瓦石・流罪死罪せられん」等云云。日蓮無くば釈迦・多宝・十方諸仏の未来記は当に大妄語なるべき也。

 

日蓮は日本国の「賢父、聖親、導師」であり、日蓮がいなければ仏の未来記は大妄語となってしまうとしています。日蓮に「日蓮一人こそが法華経の未来記に適合する導師であり、衆生に利益をもたらす当事者である」との強い自覚が横溢していることがうかがわれます。

 

 

(3) 「顕仏未来記」

文永10425日の「観心本尊抄」述作後、同年閏511日に著されたのが「顕仏未来記」です。

 

(しか)りと雖も仏の滅後に於て、四味三教等の邪執を捨てゝ実大乗の法華経に帰せば、諸天善神並びに地涌千界等の菩薩法華の行者を守護せん。此の人は守護の力を得て本門の本尊、妙法蓮華経の五字を以て閻浮提に広宣流布せしめんか。

*一閻浮提に広宣流布するものは「本門の本尊、妙法蓮華経の五字」であると、明確に教示しています。

 

問うて曰く、仏記既に此くの如し、汝が未来記は如何。答へて曰く、仏記に順じて之を勘ふるに既に後五百歳の始めに相当たれり。仏法必ず東土の日本より出づべき也。其の前相必ず正像に超過せる天変地夭之有るか。所謂仏生の時、転法輪の時、入涅槃の時、吉瑞凶瑞共に前後に絶えたる大瑞也。

*「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」との記述に、旧仏教とそれに基づく思考を越えての、新たなる導師・日蓮による新たなる法門の展開という意が感じられます。その実体が、日蓮が唱え始めた法華経の題目、かたちとなった本尊、そして戒壇という「三つの法門」へと至るのだと考えます。

 

日蓮此の道理を存じて既に二十一年也。日来(ひごろ)の災、月来(つきごろ)の難、此の両三年の間の事、既に死罪に及ばんとす。今年今月万が一も身命を脱れ難きなり。世の人疑ひ有らば委細の事は弟子に之を問へ。

*「日本より出づべき仏法」の主体者である意識と同時に、一方では今年、今月には万が一にも身命を脱れ難き身であるという、流人としての厳しい現実にも直面し、そのことを十分に認識していることがうかがわれます。

 

幸ひなるかな一生の内に無始の謗法を消滅せんことよ、悦ばしいかな未だ見聞せざる教主釈尊に侍(つか)へ奉らんことよ。願はくは我を損ずる国主等をば最初に之を導かん。我を扶(たす)くる弟子等をば釈尊に之を申さん。我を生める父母等には未だ死せざる已前に此の大善を進(まい)らせん。

*しかし、それは前世からの謗法罪を消滅することを意味し、釈尊に侍えることでもあり、自身を死罪に処した国主をこそ最初に導こう、困難に直面しても離れない弟子達のことを釈尊に伝えよう、父母が存生の内にこの大善たる法華経を受持させようとの法悦の境地となるのです。

 

伝教大師云はく「浅きは易く深きは難しとは釈迦の所判なり、浅きを去って深きに就()くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦(しんだん)に敷揚(ふよう)し、叡山の一家()は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す」等。安州の日蓮は恐らくは三師に相承し法華宗を助けて末法に流通せん。三に一を加へて三国四師と号()づく。

*受難により一つの達成感に包まれた日蓮は、自らを釈尊・智顗・最澄らインド、中国・日本の三師に連なる、新たなる日本国の導師・四番目の師として位置付けるのです。ただし、これは門下への教導を主眼としての「文の表に現わしたもの」であり、「文の底の心」はまた別のところにあるのではないか(それは教主としての確信と自覚)と考えます。

 

 

(4) 「法華行者値難事」

文永11114日、富木常忍を始め一切の弟子に報じたのが「法華行者値難事」です。

 

追って申す。竜樹・天親は共に千部の論師也。但権大乗を申()べて法華経をば心に存して口に吐きたまはず、此に口伝有り。天台・伝教は之を宣()べて本門の本尊と四菩薩・戒壇・南無妙法蓮華経の五字と、之を残したまふ。

 

所詮、一には仏授与したまはざるが故に、二には時機未熟の故なり。今既に時来たれり、四菩薩出現したまはんか。日蓮此の事先()づ之を知りぬ。西王母(せいおうぼ)の先相には青鳥(せいちょう)、客人の来相には(かんじゃく)是なり。各々我が弟子たらん者は深く此の由を存ぜよ。設ひ身命に及ぶとも退転すること莫(なか)れ。

 

智顗・最澄は本門の本尊と四菩薩・戒壇、南無妙法蓮華経の五字を残したが今、既にそれらが顕される時が来ており、末法今時、四菩薩が出現して建立するであろうか。日蓮はまず、そのことを知ったのであるとして、弟子達にこれらの由を知悉して不惜身命の法華勧奨を成すよう促します。現存真蹟御書では、初めて本門の本尊、戒壇、題目を記述した書であり、それを「一切我弟子御中」に宛てたところに教理的な新展開を見るのです。

 

 

(5) 「法華取要抄」

文永11524日、富木常忍に報じたのが「法華取要抄」です。

 

問うて云はく、如来滅後二千余年に竜樹・天親・天台・伝教の残したまへる所の秘法何物ぞや。答へて曰く、本門の本尊と戒壇と題目の五字となり。

中略

我が門弟之を見て法華経を信用せよ。目を瞋(いか)らして鏡に向かへ。天の瞋るは人に失(とが)有ればなり。二つの日並び出づるは一国に二の国王を並ぶる相なり。王と王との闘諍(とうじょう)なり。星の日月を犯すは臣の王を犯す相なり。日と日と競ひ出づるは四天下一同の諍論なり。明星並び出づるは太子と太子との諍論なり。是くの如く国土乱れて後上行等の聖人出現し、本門の三つの法門之を建立し、一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑ひ無き者か。

 

如来滅後二千余年に竜樹・天親・智顗・最澄が残した秘法とは「本門の本尊と戒壇と題目の五字」であると示し、上行等の聖人が出現し、これら「本門の三つの法門」を建立して一閻浮提に広宣流布することは疑いないと力説します。

 

以上、一切衆生皆成仏道の為の教化、弘法の段階は、それまでの台密への一定の期待、評価、配慮というものが竜口の死罪、佐渡への流罪、迫りくる蒙古の襲来を契機として薄まり、日蓮創出の専修唱題とそれを弘めることと共に、個々の弟子檀越の曼荼羅への礼拝による妙法蓮華経との一体化、成仏得道、日蓮による「本門の三つの法門之を建立」、そして未来広宣流布という新たなる段階に入ったことを、文永9年から11年の御書よりうかがえるのではないでしょうか。

 

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