4 高僧来訪譚
(1)空海、義真、円仁、良源
「熊野年代記」は、「淳和(天皇) 天長四(年) 丁未 二月、空海入熊野。」と天長4年(827)に空海(774~835)が熊野を訪れたと伝えている。
「永享弐年(一四三〇)八月中旬」と奥書にあり、室町前記に書写された「熊野山略記」には、「瀧尻金剛童子 不空羂索 慈覚大師顕給」「切目金剛童子 義真和尚顕給 十一面観音」(1)と書かれている。熊野詣でが盛んになった12世紀から13世紀にかけ、参詣路であった紀伊路、中辺路には多数の王子社が建てられ九十九王子と呼ばれた。そのうちの一つ、熊野街道中辺路沿いにある滝尻王子の本地・不空羂索菩薩については、慈覚大師円仁(794~864)が顕したものだという。また紀伊路の切目王子の本地・十一面観音は、初代天台座主の義真(781~833)が顕したものとされていた。
同じく「熊野山略記」には、「慈惠大師毎年一夏九旬行法菴室 今小別所是也」(2)とあり、天台の慈恵大師良源(912~985)は毎年夏、那智山の庵室に籠り行法をなした。那智滝の下、川向の小別所が由来の地であるとしている。ただし、「慈惠大師」は「慈覚大師」とあったものが誤写された可能性があるかもしれない。
これら名だたる高僧の熊野来訪については、例えば、伊豆国・走湯山に弘仁10年(819)、空海来山の伝えがあるのと同じく、諸国の霊場・聖地にはつきものの「高僧来訪譚」の一つではないだろうか。祖師と同時代の史料には見受けられない事績が、後世、祖師・聖人の伝記が書写される過程で書き加えられたり、その地を訪れた法系の聖らが言い伝えて、後世に伝承されたものは数知れずあると思う。
尚、「熊野山略記」は奥書の「永享弐年(1430)」を始まりとして、江戸前期まで那智の千日籠行者に伝えられたと推定されており(3)、筆者としては継承の過程で書き加えられることもあったと思う。
(2)円珍
「元亨釈書」巻三・円珍(814~891)の項では、「珍詣紀州熊野、適風雨晦冥。迷失路、俄大鳥飛来為前導。已而至祠、衣上之蓑不遑解、便講法華、神排殿戸。自此熊山一乗八講、雖晴天置蓑講師座下、以為式。」と、円珍の熊野詣でと法華八講の由来を伝えている。
円珍は紀州熊野へ参詣に向かったが、途中、激しい風雨となり道に迷ってしまった。そんな時、どこからともなく大きなカラスが飛来し導かれるままに進むと、祠の前にと至った。これは「故あることか」と思った円珍は衣の上の濡れた蓑を解くこともなく、直ちに法華経を講じていた。すると、祠の戸を押し開いて神が現れた。円珍はいたく感激し、これより後、熊野山での法華八講の場では、晴天でも蓑を置いてそこに講師が座り、法会を営むことになったという。
「熊野山略記」にも「礼殿執金剛童子(雷電八大金剛童子) 本地弥勒菩薩 智証大師顕給」(4)とあり、熊野の神の一つである礼殿執金剛童子(雷電八大金剛童子)の本地・弥勒菩薩は円珍が顕したものと伝えられていた。
園城寺の寺伝でも、籠山が終わって間もなくの承和12年(845)、円珍は大峯・葛城・熊野三山を斗藪修行したと伝えている。
円珍の前に神が現れたのは聖人霊験譚の一つと読めるが、円珍が熊野に参詣した記述はどうだろう。はたして史実に基づくものなのだろうか。
平安中期の公卿・漢学者の三善清行(847~919、後にみる浄蔵の父)は延喜2年(902)10月、同時代を生きた円珍の事績を著している。この原本は現存しないが、嘉承3年(1108)4月21日、南山城の小田原山寺と思われる所で、興福寺僧と推される願澄が「吉祥房本」を以て書写し、慧穏法師丸が校合したものが東大寺真言院の僧・覚澄の手に渡り、「天台宗延暦寺座主珍和尚伝」(内題)として滋賀県大津市の石山寺に伝来している。
(原表紙端裏外題) 智証大師伝 僧覚澄之本
(内題) 天台宗延暦寺座主珍和尚伝
(奥書) 嘉承三年四月廿一日於小田原以吉祥房本
書写了 筆師願澄
「一校了慧穏法師丸也」(5)
「天台宗延暦寺座主珍和尚伝」では、円珍の出自、延暦寺で菩薩大戒を受け12年の籠山を行ったこと、6年間の入唐求法の旅、経典将来と帰国後の活動、弟子への付法と入寂までを記述しているが、熊野・那智に関するものは見受けられない。また、佐伯有清氏が「天台宗延暦寺座主珍和尚伝」よりも「早く成立したものであるとみなすことも不可能ではない」(6)と内容を詳細に検討された、「日本高僧伝要文抄」所載の「智証大師伝」と「諸寺縁起集」付載の「円珍和尚伝」の二つの文書にも熊野関係の記事は見当たらない。
一方、東寺には外題に「円珍和尚伝 翰林学士善行撰」、尾題に「智証大師伝」と記した古写本が伝わり、そこでは本文の後に「已上五箇条不載広略二伝散在諸文仍書集処也」と記され、「広略二伝」に載せられず散在する諸文を書き集めた五箇条が収録されている。
その一つには「大師参詣熊野御社於三所権現御最前勤修、法華八講時三所権現不堪法味開最殿扉顕、貴人形整衣服感納切随喜頻曰厳此妙文奥、旨威光熾烈也利益未来悪世衆生任意自在者、然者有何希望乎大師答曰自仏果○外全、无現世大望但護持我仏法継慈尊下生時是、権現再三許詫閉扉忽不現耳云々。口伝云昔熊野御最殿小社无前拝殿仍件、八講大師参詣霖雨之日給乍着蓑笠令、勤修八講給故依此例至于今者於拝殿之、内雨降不降不云登高座乍着蓑笠勤脩、者也云々」(7)とあって、熊野における円珍の事跡を伝えるものとなっている。
この東寺本は、文治元年(1185)8月27日、普甲寺で園城寺の僧・最珍が「自宮御所賜常喜院御本」を書写したもので、それを建歴2年(1212)4月23日、沙門某が写し、今度は「賜随心院御本」となったものを延文2年(1357)4月18日、東寺西院僧坊で賢宝が書写している。
文治元年八月廿七日於普甲寺自宮御所賜常喜院御本書写了裏書并奥検文件院法印手書也云々 最珍記
法印者行乗也 中納言藤原朝臣経定息也、宮大僧正行ー付法也後白川院師也
建歴二年四月廿三日以中納言律師最珍之本
書写了 沙門在判
延文二年丁酉四月十八日於東寺西院僧坊賜随心院御本写留了
東寺末学賢宝 生廿五
同廿五日交点了(8)
石山寺本は「嘉承三年(1108)四月二十一日」の願澄書写で、東寺本は「文治元年(1185)八月二十七日」の最珍書写をはじまりとし、これをそのまま信用すれば、二つの文書には77年ほどの隔たりしかないが、ここはやはり、東寺本の熊野訪問は「散在諸文仍書集処也」とされた「五箇条」の中で語られるものであることに注意すべきだと思う。
熊野・那智の名が都で知られている時期が確認される史料としては、永観2年(984)、源為憲(?~1011)が作成した「三宝絵」があり、この時には既に「熊野八講会」が喧伝されていたことがうかがわれる。続いて寛治4年(1090)、白河上皇が初めて熊野に参詣し、その時、先達を務めた園城寺の増誉(1032~1116)が熊野三山検校に補任されている。これはそれ以前に、天台、とくに寺門系の僧が熊野への往来を重ねていたことを意味するものだが、円珍入寂(寛平3年・891)100年近くから200年にかけて、天台寺門系と熊野の関係が深まったところから発生した「聖人・祖師伝説」の一つが、「円珍熊野来訪譚」ではないだろうか。
円珍の法系達が熊野往来・修行を重ねる中で祖師来訪譚が生まれ、散在していた諸文の一つに書かれていたものが「円珍和尚伝」編纂資料の一つとして収集され「五箇条の一つ」として書きとどめられ、文治元年(1185)に至って最珍により書写されたのではないかと思う。佐伯有清氏は五箇条を「伝説五ヶ条の記載」(9)とし、「円珍伝説を知るのに価値がある記載であるということができる。」(10)と、「伝説」との見解を示されている。佐伯氏が円珍の事跡の詳細を記述された「円珍」(11)でも、熊野に関しては触れられていない。
(3)聖宝
熊野と祖師伝説といえば、後に当山派(真言)の祖と崇められるようになった真言僧の聖宝(832~909)も注目すべき人物だ。
「熊野年代記」によると、元慶5年(881)8月、聖宝は新宮の神倉山で修行。また、寛平5年(893)、熊野に参詣した時には、庵主行徳を伴い金峰山に赴いている。延喜2年(902)、聖宝は熊野の奥地に入り、蛇を斬り池を祀っている。また神倉山に籠山修行したという。
「熊野年代記」
陽成(天皇) 元慶五(年) 辛丑 八月、聖宝、神倉於熊岳窟峯一七日畫夜修法苦行。
宇多(天皇) 寛平五(年) 癸丑 聖宝、熊野参詣砌庵主行徳内伴赴金峰山、依勅宣云々。時庵主六十二歳。
醍醐(天皇) 延喜二(年) 壬戌 聖宝上人、熊野奥に入り、蛇を斬り池を祭る。上人為僧正。神倉に籠、三日夜。
「年代記」の記述のうち、「庵主行徳を伴い~」は、そもそも熊野に本願所が作られるのは15世紀以降のことなので、この時代には庵主自体が存在しない。後世、社家と本願が対立するようになった時代、本願が古くから存在していたことを示し、かつ歴史上の聖人と関係があったことを強調したもので、社家に対する本願の立ち位置を優位なものにするための作為的な記述だと思う。聖宝が「蛇を斬」ったとの記述も、正中2年(1325)頃、栄海(1278~1347)が撰述した「真言伝」中の「聖宝の伝」にある「又、大峯は役行者、霊地を行ひ顕し給し後、毒蛇多く其道をふさぎて参詣する人なし。然るを(聖宝)僧正、毒蛇を去(しりぞ)けて山門を開く。それより以来斗藪(とそう)の行者相続て絶る事無し」という大峯での大蛇、毒蛇退治の伝説等を参考にしたものではないか。
これら「伝説」は除くとしても、聖宝が熊野を訪れた、ということに関してはどうだろうか。本願寺院が道俗の尊敬を集める聖人とのつながりを強調し寺の由緒を創ろうとした、と結論付ける前に、史実の可能性を探ってみたいと思う。まずは、聖宝の事跡を確認してみよう。
・承和14年(847)、聖宝は空海の実弟・真雅(801~879)に随い出家する。
仏教教理への探求心が旺盛で、元興寺の願暁(?~874)と円宗から三論を学び、東大寺の平仁から法相、同じく東大寺の玄永から華厳、真蔵からは律を学んでいる。
・貞観13年(871)、真雅より無量寿法を受学。
・貞観16年(874)、笠取山(醍醐山)山頂に草庵を構える。
・貞観18年(876)、笠取山山頂に准胝堂を建て、如意輪観音と准胝観音を造立。醍醐寺の礎をつくる。
・元慶4年(880)、空海の弟子にして、真雅から胎蔵・金剛の灌頂を受けた真然(?~891)より、胎蔵・金剛両界の大法を受ける。
・元慶5年(881)夏、真然のもとで修行。この時、空海から真雅、真然へと伝わった「胎蔵普礼五三次第」を授与されている。
・元慶8年(884)、翌年、東寺の二の長者となる源仁(818~887)のもとで、伝法灌頂を受ける。
・寛平7年(895)、東寺の二の長者に補任される。
佐伯有清氏は「醍醐寺要書」に掲げる、延喜13年(913)10月25日付けの太政官符に引用される観賢(12)の奏状にある、「先師(聖宝のこと)、昔、飛錫(ひしゃく)を振って、遍く名山に遊び、翠嵐(すいらん)、衣を吹きて、何れの巌を踏まず、白雲、首を払(かす)めて、何れの岫(くき)を探らざるはなし。然らば則ち徒(ただ)、遁世、長往の跡を刪(さだ)めんとす」をもとに、聖宝が跋渉したのは吉野の山々であり、現光寺(比蘇山寺=現在の世尊寺)に入山したことは確実であるとし、その根拠を挙げられている。(13)
・聖宝は空海の実弟である真雅のもとで出家したことから、空海が持していた虚空蔵求聞持法の行法の流れの中にあった。
・聖宝の三論教学の師・願暁は勤操(754~827)の門弟で、道慈(?~744)以来の、虚空蔵求聞持法の伝わる環境下にいた。
・願暁は元興寺の三論教学だけではなく、法相宗唯識にも通じる学僧で、法相宗の学系には現光寺での山林修行の伝統があった。
・「醍醐根本僧正略伝」(14)は、聖宝が現光寺で丈六の弥勒菩薩像と一丈の地蔵菩薩像を造立したと伝えていることから、聖宝と現光寺に密接な関係があったと考えられる。
聖宝はまた、金峯山との関わりも多く伝えられているが、佐伯氏は信憑性があるのは「醍醐根本僧正略伝」の「金峯山に堂を建て、並びに居高六尺の金色如意輪観音、並びに彩色一丈の多門天王、金剛蔵王菩薩像を造る。・・・・金峯山の要路、吉野河の辺に船を設け、渡子(とし)、傜丁(ようてい)六人を申し置けり」であるとし、これ以外の諸書が伝えるのはすべて伝説であることを指摘。大隅和雄氏の著作「聖宝理源大師」を引用しながら、聖宝が金峯山に堂舎を建て、仏像を造り、金峯山への要路である吉野川の渡船の設置と船頭・人夫を配備したのは、若き日の南都修学時代ではなく、彼の宗教的活動がかなり熟していた時期のことである、とされている。(15)
佐伯氏の教示のうち、特に観賢が「先師は昔、錫杖を手にして、遍く高山を遊行し、緑の山の気が衣を動かし、いずれの大きな岩を踏まないことがなく、白い雲が頭をかすめて、いずれの山の洞窟を探らないことはなかった。こうしてただ、山林に隠栖し長逝する場所を定めようとした」と記述していることからすれば、聖宝が各地の山岳霊場を訪ね歩く中で、熊野を訪れたことも考えられるだろう。また、「日本霊異記」の永興が東大寺別当に補任され、十禅師の一人に選ばれる以前に、紀伊国熊野村で修行していることも、一つの「先例」にはなる。ただし、現時点では「可能性がある」という域なので、聖宝の熊野来山は参考とするにとどめるべきではないかと思う。
尚、聖宝の蛇退治伝説を伝える地が、吉野と熊野を結ぶ修験の道である「大峯奥駈道」に存在しており、五来重氏は山伏の興味深い話を紹介されている。
「ちょうどM(筆者がイニシャルに変更)大先達と一緒にあるいていたので、その由緒をきくことができたが、山伏伝承では理源大師(聖宝)の大峯奥駈中興は大蛇を退治して道を開いたということになっている。その大蛇を七段に切ってすてたのが七つ池だという」(16)
奥駈道には多くの修行場があり、その場は靡(なびき)と呼ばれるが、吉野側の大峯山寺から那智山、熊野本宮に至るまでには、七十五の靡があるという。そのうち、第五十九の七曜岳と第六十の稚児泊の中間にある、七つ池と呼ばれるところが、聖宝が蛇を退治したとされる伝承の地のようだ。
このような聖人、修験者が竜や大蛇を退治したとの伝説について、宮家準氏は次のように解説されている。
「山岳中の霊地にある奇岩・滝・泉などは、修験者が山中に入る以前から神霊が住するとして人々によって崇められていた。特にすぐれた霊地の神霊・山の神・水分神などはとりわけ大きな霊力を持つとされていた。蛇・狼・狐・熊などの動物がこうした神のあらわれとしておそれられてもいた。なかでも竜や蛇は各地の山岳で水分神の体現とされている。当山派修験の開祖に仮託された聖宝が大峰山で大蛇を退治したとの伝承に見られるように、山岳に入った修験者が竜を退治したとの伝説は、修験者が山岳の主ともいえる水分神を自己の統御下においたことを物語っているといえよう」(17)