4「大本尊」「上行菩薩」と書かれた万年救護本尊
讃文に
大覚世尊御入滅後 経歴二千二百二十余年 雖尓月漢 日三ヶ国之 間未有此 大本尊
或知不弘之 或不知之 我慈父 以仏智
隠留之 為末代残之 後五百歳之時
上行菩薩出現於世 始弘宣之
と認め、特に「大本尊」「上行菩薩」と重要な義を示したところから、他とは異なる意を以て図顕したであろう「万年救護本尊」(曼荼羅16)には、授与書きはありません。
この曼荼羅は「文永十一年太才甲戌十二月 日」に、「甲斐国波木井郷於 山中図之」と身延山において書き顕したものです。寸法は「106.0×56.7㎝ 3枚継ぎ」で、私も実物を拝しましたが大ぶりなものといえるでしょう。現在は富士門流の保田妙本寺に所蔵されており、日蓮の入滅前のことと考えられますが、いずれかの時点で日興の手元に移り、それが日目へ、次に日郷の門流へと継承されることになりました。
この曼荼羅について、大石寺17代日精は「富士門家中見聞上・日興」(富士宗学要集5巻P154)にて、「又弘安二年に三大秘法の口決を記録せり、此の年に大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」と、弘安2年(1279)中に日蓮が日興に授与したと記述しています。これは、大石寺所蔵の「本門戒壇之大御本尊」が弘安2年10月12日、日蓮自身の手による図顕造立とされていることから関連・発生したものでしょうか。
「日蓮は身延の草庵で万年救護本尊を奉掲していたが、弟子に楠木を刻ませて大御本尊を造立、安置したので、それまでの万年救護本尊を日興に授与した」ということになり、大御本尊日蓮直造説の補強材料となるからです。
ここでは大御本尊に関する議論には触れませんが、大石寺17代日精が「又弘安二年に~大曼荼羅を日興に授与し給ふ万年救護の本尊と云ふは是れなり」と読み方によっては、『弘安二年までは万年救護本尊が身延の草庵に奉掲されることがあった』旨の記述を残していることを記憶しておきたいと思います。
万年救護本尊に関して「御本尊集」解説では、
此の御本尊もまた極めて重要なる御内観を示したまえるもので、山川智応博士は「本因妙・本国土妙御顕発の御本尊」(「日蓮聖人研究」第二巻四百七頁取意)としている。すなわちその特一無比の御讃文に於て御自身の本地を顕発したまうとともに、本国土妙の代表たる天照・八幡二神の本地をも示されたのであって、かくの如き儀相は他に全く拝することができない。
なお、御讃文中「大本尊」と称されたのもこの一例のみであって、他は総べて「大漫荼羅」或いは「大曼陀羅」を用いられている。
と評しています。
大黒喜道氏は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書」(興風22号P276)にて、
『文永12年(1275)3月10日の「曾谷入道殿許御書」は3~4箇月かけて完成したと考えられ、それは万年救護本尊を顕した文永11年(1274)12月と重なる同時期の作業であり、「曾谷入道殿許御書」の文中、「今親(まのあた)り此の国を見聞(けんもん)するに、人毎に此の二の悪有り。此等の大悪の輩は何なる秘術を以て之を扶救(ふぐ)せん。大覚世尊、仏眼を以て末法を鑑知(かんち)し、此の逆・謗の二罪を対治せしめんが為に一大秘法を留め置きたまふ」(注・大黒氏は他の文も引用されている)との「一大秘法」とは、万年救護本尊を直接指し示した言葉である』(趣意)
と考察されています。大黒氏は論考「佐渡の日蓮聖人(下)―大曼陀羅本尊のことー」(佐渡日蓮研究第三号P97、2010年・佐渡日蓮研究会)でも、同様の見解を詳細に検討、提示されています。
確かに「曾谷入道殿許御書」と万年救護本尊図顕の時は重なりますが、「一大秘法」は「大悪を救済する秘術」「逆・謗の二罪を退治する」ものですから、それらは日蓮図顕の曼荼羅であれば含意していると考えられますので、「一大秘法」とはそれまで図顕してきた、またこれから顕す曼荼羅本尊総体を指して言われたものではないでしょうか。
ただし、やはり注意すべきは万年救護本尊の「特一無比」な讃文で、文永の役の後、程なくして顕されたこの曼荼羅の扱いについては、日蓮自身の思いとして他とは異なるものがあったと考えるのです。