4 「開目抄」と「観心本尊抄」そして佐渡始顕本尊

 

仏が「我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからず」(三沢抄)と制した、「此の法門出現」(三沢抄)の内実・教理面を記したものが「開目抄」「観心本尊抄」であり、その「信仰のかたち」が御本尊にして、佐渡期における集大成ともいえる相貌を有するのが「佐渡始顕本尊」ではないでしょうか。

 

「開目抄」では「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑(ねうし)の時に頸はねられぬ。此は魂魄佐土の国にいたりて返る年の二月雪中にしるして、有縁の弟子へをくれば、をそ()ろしくてをそろ(恐怖)しからず。み()ん人、いかにを()ぢぬらむ」と記しています。

 

文の意については「日蓮という者は去年の九月十二日子丑の時(午後11時から午前3時頃)に首を刎ねられた。当抄は、日蓮の魂魄が佐渡の国に到り、次の年の2月に雪中の塚原で記して有縁の弟子達に送るものである。恐ろしいように思うかもしれないが、不惜身命の法華経の行者にとっては恐ろしくはない。しかし、法華経の行者のような決定心を持たない人が、この書を見れば、どれほどか怖気づくことであろうか」と私は読みますが、特に日蓮は自己を「首を刎ねられた魂魄」として、その前提で当抄を記しているのです。

 

これは、「死罪に処せられて」「魂となって」という物理的な意味合いよりも、受難による法華経との一体化「日蓮即法華経」=文字通りの「南無・妙法蓮華経」の境地を成し遂げて、「法門申しはじめ」て以来の、一つの到達点に達していることを示しているように思うのです。

 

その「新たなる境地」を確立した日蓮は、「当世、日本国に第一に富める者は日蓮なるべし。命は法華経にたてまつる。名をば後代に留むべし」(開目抄)と、雪中の流人の身でありながら実は日本国中で第一の富める者、即ち法華経と一体化し法華経の行者(上行菩薩、ひいては末法の教主であることも秘めて)として内面世界が確立された者となったのであり、その名は後代に留められるであろうとするのです。

 

そして「我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(開目抄)との三大誓願へと至ります。

 

ですが、自らは到達点に達しても一人満足に浸ることは許されず、そのような者であればこその次なる責務、弟子檀越に対する教導、一切衆生への妙法の弘通というものがありました。

 

日蓮は「一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしづめたり」(開目抄)と、法華経の本門である如来寿量品第十六の文の底に一念三千を見出します。次に一念三千を法華経と自己を介して衆生のものとなすべく、具体的な救済論として確立し、「観心本尊抄」において「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめたまふ」と受持即観心により、末法の衆生は妙法の功徳力に潤うことを訴えます。

 

この「観心本尊抄」では「妙法曼荼羅」の相貌を示し、少し前では「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与へたまふ。四大声聞の領解に云はく『無上宝聚、不求自得』云云」と自然譲与を、「此の時地涌千界出現して、本門の釈尊は脇士と為りて一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし。月支・震旦に末だ此の本尊有さず」と一閻浮提第一の本尊が立つことを宣言します。

 

この背景には、死罪・流罪という受難によって法華経の行者としての自己の仏教上の立場が明確となり、それまで抱いていた天台宗(台密)に対する一定の配慮、期待というものを越えて「日蓮(我れ)による衆生救済の時となった」との強烈なる自覚があったのではないでしょうか。日蓮による次なる「信仰のかたち」が曼荼羅図顕であり、言葉として、密教・念仏に覆われていた天台宗から決別・本格批判を開始するのが「文永の役」以降なのでしょう。

 

一切衆生皆成仏道の導師、救済者は、明確に日蓮となったのであり、「開目抄」の三大誓願「我は日本の柱、眼目、大船」の精神に立脚して「一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」との宣言を発し、自らが直ちに成し得ること、即ち曼荼羅の図顕を始めたと考えるのです。

 

しかし、いつ再びの死罪に処せられるかも分からない身なのです。であればこそ一刻も早く、我れの存在が無くなったとしても、永遠に生き続ける我れ=曼荼羅を顕さなければならない。それが佐渡百幅本尊と呼ばれる多くの曼荼羅であり、その完成形が「佐渡始顕本尊」ではないかと考えています。

 

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