3 清澄寺の宗旨に関する近代の考証
清澄寺の宗旨に関する近代の考証は、明治37年(1904年)の「双榎(そうか)学報」での清水龍山氏の「清澄山宗旨考」があり、続いて昭和4年(1929年)には山川智応氏が「日蓮聖人研究 第一巻」(P82)にて「清澄寺宗旨の変遷とその寺格位地を考ふ」と題して詳細に論じています。
山川論文には清水氏の考証が紹介されていて、その要旨は以下のようなものとなります。
第一証
「境妙庵目録」が、(日蓮21歳の時とされる)「戒体即身成仏義」の内容は台密の意とすることに同意し、同書は「理同事勝」「顕劣密勝」の台密の義であるので、清澄寺の宗旨は天台宗であったろう。
第二証
建治2年(または文永12年)1月11日に清澄寺大衆に報じた「清澄寺大衆中」(定P1132 真蹟曽存)には「抑(そもそも)参詣を企(くわだ)て候へば、伊勢公の御房に十住心論(じゅうじゅうしんろん)・秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)・二教論等の真言の疏を借用候へ。是くの如きは真言師蜂起故に之を申す。又止観の第一・第二御随身候へ。東春(とうしゅん)・輔正記(ふしょうき)なんどや候らん。」と書かれており、東寺真言の疏に限り「真言の疏」とあるのに、天台の疏には、別に天台とことわっていないのは、清澄寺が天台宗であることを示すものであろう。
第三証
師匠道善房追善のために著した「報恩抄」に「慈覚(円仁)・智証(円珍)の二人は、言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず」(定P1216 真蹟)「慈覚・智証こそ専ら先師にそむく人にては候へ」(同)「慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給へば、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや」(定P1217)などと、慈覚、智証、更には源信、安然を批判しているのは、道善房、清澄一山が天台宗であることを暗示している。
第四証
「善無畏三蔵抄」に「文永元年十一月十四日西条華房の僧坊にして見参に入りし時、彼の人の云はく、我智慧なければ請用の望もなし、年老ひていらへなければ念仏の名僧をも立てず。世間に弘まる事なれば唯南無阿弥陀仏と申す計りなり。又、我が心より起こらざれども事の縁有りて、阿弥陀仏を五体まで作り奉る。是又過去の宿習なるべし。此の科に依って地獄に堕つべきや等云云」(定P474 真蹟と推される断簡あり)と道善房の念仏行を記しているが、これは天台慧心流の称名念仏の修行であったろうと思われる。
第五証
もし清澄寺が東寺流の真言宗であれば、日蓮の修学は高野山から始まったであろう。伝承では、天台宗でも園城寺に行かず、山門・比叡山から始まっており、これは清澄寺が山門・比叡山の天台宗であったことを裏書きする。
第六証
日蓮の乳人(めのと)瀧口氏の菩提寺であったといわれる西蓮寺(現在の日蓮両親墓所とされる妙蓮寺)は、元天台宗であったと伝承され、同寺縁起には西蓮寺住職であった道善房が清澄寺に転住したとあり、これは清澄寺の天台宗であったことの証左の一つとなろう。
山川氏は清水氏の説に加えて、「種種御振舞御書」(定P983 真蹟曽存)に「円智房は清澄の大堂にして三箇年が間一字三礼の法華経を我とか(書)きたてまつ(奉)りて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつよまれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云」とあるところから、円智房が一字三礼の法華経書写、一日一夜に法華三部経十巻を二部ずつ読経したことを以て、かかる行法は東寺流真言のものではなく、円仁を始めとするものであるから清澄寺の天台宗であった証拠と成し得るとされています。
また、清澄寺の諸房の名称も「円頓房、実智房、観智房、実成房、円智房、浄円房」と、天台宗に親しみの多い「円の字」が付いたものが多く、密の字の付いたものがないことも「清澄寺=天台宗」の理由としています。
これら清水氏の考証と山川氏の解説は、清澄寺の宗旨を探る上で重要な視点だと思います。ただし、西蓮寺に関する伝承は二次的なものといえるでしょう。また「戒体即身成仏義」は写本で伝わっており、「刊本録内」「日奥所持本」「日奥目録」「御書抄」は系年・文永三年であり、「日諦目録」「日明目録」「録内扶老」は仁治三年とし、「縮刷遺文」は仁治三年・或云文永三年としており、その真偽が問われることもあります。