3 文永9年から10年の日蓮
「観心本尊抄」著述の一年前の文永9年4月10日、日蓮が佐渡において富木常忍に報じた「富木殿御返事」では、「日蓮が臨終一分も疑ひ無し。頭を刎(は)ねらるゝの時は殊に喜悦有るべく候。大賊に値ふて大毒を宝珠に易(か)ふと思ふべきか」と、自身の存在がなくなる「死」というものを強烈に意識している心情が綴られています。
「いのちがいつ絶たれるとも知れず」の境地の故にでしょうか。
日蓮は「而るに去ぬる文永八年九月十二日の夜、たつの口にて頸をはねられんとせし時よりのち、ふびん(不憫)なり。我につきたりし者どもに、まことの事をい(言)わざりけるとをも(思)て、さどの国より弟子どもに内々申す法門あり」(三沢抄)と、付き従ってきた弟子檀越達に「まことの事」を言わないまま死罪となってしまったら不憫であると思い、「内々申す法門」即ち「開目抄」「観心本尊抄」の重書を著述。それらを門下に送り託しています。
両抄に示されたものは「法門の事はさど(佐渡)の国へながされ候ひし已前の法門は、たゞ仏の爾前の経とをぼしめせ」(三沢抄)と言われたところの「佐渡以後」の教示、正に「まことの事」であり、「此は仏より後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台・妙楽・伝教・義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給ひて、口より外には出だし給はず。其の故は仏制して云はく、我が滅後末法に入らずば此の大法いうべからずとありしゆへなり」(三沢抄)と、末法の時を待ってはじめて明かされる「秘法」でありました。
そして「日蓮は其の御使ひにはあらざれども其の時刻にあたる上、存外に此の法門をさとりぬれば、聖人の出でさせ給ふまでま(先)づ序分にあらあら申すなり」(同)と謙譲の意を含ませながらも、日蓮こそが「秘法」を世に明らかにして「教え示す導師」であり、「而るに此の法門出現せば、正法像法に論師人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光、巧匠(たくみ)の後に拙(つたな)きを知るなるべし。此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて、但(ただ)此の大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候」(同)と「出現」明示された「秘法」=「大法」は「一閻浮提に流布」していくものであるとするのです。
このように、死を覚悟した日蓮は既に佐渡期において、釈尊より神力品別附属を受けた上行菩薩である意を含ませたり表に立てながらも、「末法に明かすべき秘法を時至って説き示している」ということ、それは末法の教主としての自覚に立ってのものであることを、今一度認識すべきではないでしょうか。