20 清澄寺・代々の住持一宗の相続に非ず
鎌倉時代、別当は「名ばかりの」清澄寺ではありましたが、虚空蔵菩薩求聞持法を行う霊場としての喧伝は室町時代後期に至るも続いており、文明15年(1483)4月、高野山で沙門鏡心が書写した「慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事」には円仁が求聞持法をなした霊地として安房国清澄寺が記されています。
ところがこの後、100年の間には「甚だしく荒廃」「仏法中絶」といわれるまでに寂れてしまったようです。
慈覚大師建立求聞持七所成就霊地事
旧記云、我朝求聞持成就霊地建立七所謂
第一上総国木森寺見奇瑞光得御衣木
第二安房国清澄寺見明星影得宝池水
第三武蔵国慈光山求聞持院崛得阿耨達地
第四信濃国内村山源禅定頂得宝池山上下安置之
第五能登国石動山宝珠石形動山出現
第六近江国竹生嶋皇城丑寅三弁宝珠現鏡中
第七伊勢国御山現明星影
御本云
文明十一年起七月四日於高野山
書写卆。 乗蓮
文明十五年癸卯四月四日彼以御本
書写卆。 沙門鏡心 通四十一 俗六十二
(金沢文庫保管・高木豊氏「日蓮攷」P12より 2008 山喜房仏書林)
「官寺」としての清澄寺は日蓮の時代から寂澄、弘賢そして徳川家康(天文11年・1543~元和2年・1616)と智積院の仲恩房頼勢の時代まで、即ち鎌倉時代から南北朝・室町・戦国・安土桃山・江戸時代まで漫然と続いたものでしょうか。
頼勢という人物は徳川家康に「小衲は房州館山の産。郷国房州に清澄寺なる古刹あり。慈覚大師の中興する所、日蓮聖人の立教開宗せられし霊地なるも、今甚だしく荒廃して仏法中絶す。」(安房国清澄寺縁起P10)と伝えており、清澄寺がかなり衰微していたことがうかがわれます。「廃滅に近き清澄寺」(同)に頼勢が入ったともあります。
また「安房国清澄寺縁起」は「清澄寺は従来、一宗所属の寺院ならず。代官の管理せし寺なりし」(P50)としており、江戸初期の清澄寺は代官が管理する寺院となっているのですから、当時の代官は「今甚だしく荒廃」「仏法中絶」「廃滅に近き」の状態にまで、なかば「放置」していたということになります。この頃には、虚空蔵菩薩求聞持法の霊場として清澄寺に修行者が集ったのも、昔の話となっていたのでしょう。
寛永11年(1634)5月の「頼勢法印より頼昌への付法状」には「将又当寺は、代々の住持一宗の相続に非ず。法流無沙汰なれば本末の次第なし」(山川P102)と記されていて、清澄寺は特定の宗派の傘下に入るような寺院ではなかったことがうかがわれ、それはこれまで確認してきたところによれば、相当前時代まで遡れるのではないかと考えるのです。
(2023.1.3)