2「新抄格勅符抄」収載・大同元年の太政官牒と「延喜式神明帳」
(1) 新抄格勅符抄
天平神護2年(766)、熊野牟須美神と速玉神(新宮)に各四戸の封戸が与えられたことが、「新抄格勅符抄」に収載された大同元年(806)の太政官牒に記録されていて、これが熊野の主神に関する最古の資料とされる。
熊野牟須美神 四戸紀伊 天平神護二年奉充
速玉神 四戸紀伊 神護二年九月廿四日奉充
速玉神は新宮だが、熊野牟須美神は本宮・那智のどちらを指すのかがはっきりしない。しかも、後に那智の主神は熊野牟須美神とされている。これについては、(3)で見る「延喜式神明帳」には那智がないことから、小山靖憲氏は大要、次のように指摘されている。「この時の『熊野牟須美神』は本宮の神の古名であり、それがいつしか忘れられて9世紀頃には『熊野坐神』と称し、平安後期に那智が注目されるに及んで、一旦は廃された『牟須美神』が那智の神格を表すものとして再利用されるにいたった。」(1)
一方、宮家準氏は「この二神は現在の新宮に比定され、熊野神邑(新宮市)に二社が一緒にまつられていたと推定される」(2)としている。
私としては、延長5年(927)の「延喜式神明帳」に熊野坐神社(本宮)、熊野早玉神社(新宮)の二社が記されているので、100年以上前の天平神護2年(766)の時点で本宮と新宮の原型となる二社が存在した、としてもよいのではないかと思う。大同元年太政官牒の熊野牟須美神は、本宮の神ではないかと推測している。
(2) 熊野早玉神と熊野坐神の昇格
長寛勘文によると、天安3年(859、尚4月25日に貞観に改元)1月27日、熊野早玉神社と熊野坐神は従五位下から従五位上へ。5月26日、二社は従二位に進む。貞観5年(863)3月2日、熊野早玉神は正二位に。延喜7年(907)10月2日、熊野早玉神は従一位、熊野坐神は正二位となる。天慶3年(940)2月1日、熊野早玉神と熊野坐神は共に正一位に進んでいる。
長寛勘文
天安三年正月廿七日甲寅。紀伊国従五位下熊野早玉神社。熊野坐神。並従五位上。
貞観元年五月廿六日辛巳。従五位上熊野早玉神。熊野坐神。並従二位。
同五年三月二日甲子。従二位熊野早玉神授正二位。
延喜七年十月二日丙午。授正二位熊野早玉神従一位。又従二位熊野坐神授正二位。
天慶三年二月一日丁酉。諸神位記請印中。熊野速玉神。熊野坐神。並授正一位。
(3) 延喜式神明帳
延喜5年(905)、醍醐天皇(885~930)の命を受け藤原時平(871~909)らにより編纂が始められた「延喜式」は延長5年(927)に完成。その内の巻九と十は「延喜式神明帳」と呼ばれるが、そこには平安時代中期の全国の主要な神社(式内社)2861社、鎮座する神3132座が記載されている。熊野にあっては、巻十の「紀伊の国卅一座 大十三坐 小十八坐」の「牟婁郡六座 大二座 小四座」に、本宮は「熊野坐神社」、新宮は「熊野早玉神社」として記載されており那智の名は見られない。