17 弘安3年・臨滅度時本尊へ
日蓮の曼荼羅は、文永~建治~弘安に至る過程で相貌座配が整足され、勧請諸尊も定形化しており、弘安3年3月に至って、文永11年12月という「以前の相貌・勧請形態」となった万年救護本尊に替えて、新たな曼荼羅(臨滅度時本尊・81)を書き顕し奉掲したのではないでしょうか。この曼荼羅に授与書きのない「意味」、常とは異なる意というのはここにあると考えるのです。
また、弘安3年(1280)3月になると、万年救護本尊に「大本尊」「上行菩薩」と認めて(文永11年[1274]12月)、『本尊としての曼荼羅の意味』と、『日蓮自らの仏教的位置付け』を読み解くように示してから5年と少しが経過しています。
日蓮の意とするところは、「身延の草庵の弟子達、そこを訪れた門下を中心に、伝えるべき人に十分な時間をかけて周知した」と考え至り、草庵奉掲の曼荼羅本尊を替えたのではないかと考えるのです。
文永の役の後、しばらくは次なる蒙古襲来は必定との緊張感に包まれていたものの、5年という時の経過によりやや肩の力を抜いたところで、対蒙古緊迫の中から生まれた万年救護本尊奉掲の意味合いも上記のように薄くなり、臨滅度時本尊に替えられたのではないでしょうか。
弘安5年(1282)2月25日、日蓮は南条時光の病の平癒を願い「伯耆公御房御消息」を日興に報じています。これは日蓮が口述し、日朗が代筆したとされますが、病が進み常時体調不良であった師匠を気遣い、日朗は時折、身延山に来ていたのでしょう。
建治2年(1276)7月21日の「弁殿御消息」には、「ちくご(筑後)房、三位、そつ(帥)等をばいとま(暇)あらばいそぎ来たるべし。大事の法門申すべしとかたらせ給へ。」とあり、日蓮は「筑後房日朗、三位=三位房、そつ(帥)=帥房日高の3名に『大事の法門』を教示したいので身延山に来なさい」と伝えるよう、日昭に依頼しています。
法門教示をなさんとする師匠が、手紙一つで、遠方の弟子に対して急ぎ来るよう指示する。弟子は応じて師のもとに駆けつける。この関係からは、鎌倉・下総と身延の距離をものともしない「師弟子の一体感」というものがうかがえ、それは同時に鎌倉・下総や近辺在住の弟子達が、足繁く身延に通ったことを物語るといえるでしょう。また、日朗、三位房、日高が日蓮の胸中にあり、彼らが師より直接教導を受ける法器であったことが理解されるのです。故に、体調不良の師のもとに、鎌倉の日朗が往来を重ねていたことも容易に想像されるところではないでしょうか。弘安5年(1282)9月に、日蓮は身延を出山して旅に出るとされますが、道中、池上に立ち寄ったのは弟子日朗の勧め、また師弟の信頼関係によるものではないかと思うのです。
日蓮が日朗に臨滅度時本尊を授与したのはいつ頃でしょうか。
・身延出山の時に2年以上奉掲されていた臨滅度時本尊を持ち、池上での療養の頃か。
・日朗が身延の師のもとを訪れていたと考えられる、弘安5年(1282)2月から3月の頃でしょうか。ただし、日朗がいつ身延に入り、いつ下山したとの情報がなく、かつ鎌倉では日昭が指揮をとれる故、師の身延出山まで同地にいて師に仕えていた可能性もあります。
私としては、臨滅度時本尊が身延の草庵(弘安4年[1281]11月下旬以降は十間四面の坊)に奉掲されていたと推測しているので、弘安5年(1282)9月とされる日蓮の身延出山より10月13日の入滅までの間に、同本尊を日朗に授与したのではないかと考えています。
万年救護本尊は富士門流で継承されることから、いずれかの時点で日蓮が日興に授けたものと考えられます。日興に「大本尊・上行菩薩と書いた万年救護本尊」を、日朗に曼荼羅として完成形ともいえる「臨滅度時本尊」を授けたのは、即ちこの二人に、師が顕し、師が拝した曼荼羅を授与したのも、それまでの両名の功労に報いたもの、彼らの功績を評価したものであり、察すれば自身滅後に教団を担い守り、発展させてほしいという期待を込めてのものだったと思うのです。
日朗は初期よりの弟子であり、特に文永8年の法難では土牢に入れられながらも、出獄後は多くの檀越が退転していく中で、日昭と共に鎌倉の一門を再興しています。日興は熱原法難の時に奔走、困難な状況に対応していることが当時の日蓮の書状からうかがわれます。師匠の入滅時、日朗・日興ともに30代。経験、力量からいっても、師亡き後の教団を担うに十分なものがあったと思います。事実、その後に各地へと展開・拡大していくのが、両名の門流でありました。
もちろん、日蓮がこの二人に曼荼羅を授けたからといって、それが「秘法の秘伝」をした等を意味する、特別な扱いをしたということではないでしょう。日朗・日興への曼荼羅授与は、「釈子」と冠した曼荼羅を日目、日家、日昭に授与したことと同様の思いだったのではないでしょうか。
史実は日興筆の「宗祖御遷化記録」にあるように、日蓮の意として日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持の「一弟子六人」であり、六人は等しく一弟子となり日蓮法華教団運営の導師となったのです。
(その後の展開については、別の機会に確認しましょう)
ここでまとめれば、万年救護本尊の「大本尊」「上行菩薩」により、また「本尊」として書き顕した曼荼羅を門下に授与していることからも、日蓮も自らの居所に曼荼羅を奉掲したと判断されます。
その前提の上で「どの曼荼羅を奉掲したのか」について御書との関連、授与書きより検討すれば、文永10年(1273)7月8日から「佐渡始顕本尊」、身延の草庵(弘安4年[1281]11月下旬以降は十間四面の坊)では文永11年(1274)12月からは「万年救護本尊」、弘安3年(1280)3月からは「臨滅度時本尊」だったと推測しています。
付言すれば、日蓮が身延に入山し、庵室が完成した文永11年(1274)6月17日に奉掲された曼荼羅はどれだったでしょうか?「佐渡始顕本尊」を奉掲したのか、または始顕本尊と相貌が近く、かつ庵室完成の6月に顕された曼荼羅11であったでしょうか。
「佐渡の居所、身延の草庵の本尊に、曼荼羅はあったのか?あったとしたらそれはどれだったのか?」という問題は志ある方にとっては大いに興味あるものだと思います。以上は現時点での考えであり、今後も諸氏の考察に学びながら考えていきたいと思います。
2022.12.25